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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第106話 忍びの足跡 ――香りは、足跡になる

西暦:1554年5月8日 夜

和暦:天文二十三年(1554年)四月十八日 夜

場所:堺――藤屋(伊賀忍者商家)奥座敷/市中(追跡中)

 藤屋の夜は静かだった。

 表の店はすでに戸が閉まり、帳場の灯りも落とされている。だが奥だけは別だ。畳に落ちる行灯の光が、誰かの顔色を少しだけ白く見せる。

 奥座敷に集まったのは四人。

 狂犬お市様。

 長尾景虎姉上。

 藤屋当主・藤林長門。

 そして、前田慶次――酒を飲む気満々の顔で、しかし目だけは遊んでいない。

 座敷の外、廊下の影が一瞬揺れた。

 さくら、あやめ、せつな。

 あの三人は今、先程すれ違った“香水お市”の女を追っている。

 長門は膝の前に、帳簿の束をきちんと置いた。

 商人の手つきだ。だが指先に迷いがないのは、忍びの手つきでもある。

「――姫様。確認は終わりました」

 長門が、短く言い切る。

「堺、京、博多、駿府。藤屋、百屋、福屋――いずれも開店済み。取引帳、卸帳、売掛帳、すべて照合しました。

 一般の男女向け化粧品、ハイブランド化粧品、そして狂犬堂の雑貨類は各地で流通しております。……しかし」

 長門は、帳簿のある一箇所を指で叩いた。

「香水『お市』は、熱田・清州・津島のみ。

 在庫は鳴海の蔵。生産管理は熱田と鳴海の工場。

 諜報行商人にも、扱わせておりませぬ。これは断定できます」

 景虎が目を瞬く。

 越後では、物は“行き渡る”か“奪われる”かの二択に近い。ここまで流通を絞る発想は、まるで軍の補給線だ。

「……妹よ。香水だけ、なぜそこまで閉じる」

「ブランドは刃じゃ。誰の手に渡っているか分からぬ刃は、味方も斬る」

 お市様は淡々と答え、杯の水を口に含む。酒ではない。酔いを排している。

 慶次が小声でぼやく。

「堺の夜で水とは。姫さん、人生半分損してる」

「半分損して、半分勝つ。勝ちが残れば十分じゃ」

「理屈が武将だなぁ」

「褒め言葉じゃ」

「便利だな、その返し」

 景虎が、ふっと笑った。

 慶次がそれを見て、わざとらしく胸を張る。

「ほら見ろ。俺がいると場が和む」

「場が乱れる、の間違いです」

 長門が冷静に刺す。

「慶次殿がいると、女中が箸を落としますので」

「落とすのは恋だろ?」

「落とすのは椀です」

「椀かよ」

 座敷の空気が一瞬軽くなる。

 ――だが次の言葉で、また重く落ちた。

「姫様。鳴海の蔵で、盗賊に化粧品が盗まれた件。……あれは、香水『お市』も含まれていたのですな」

 長門の問いに、お市様は頷いた。

「うむ。ハイブランド一式と――『お市』も。

 あの時は捕物で手を打った。だが“根”は残っておる。今日の女は、その根の匂いじゃ」

 景虎が、喉を鳴らす。

「……今日すれ違った女が、盗賊だと?」

「盗賊、では足りぬ。――いたち、じゃな」

 お市様の声が、冷たくなる。

「香りを盗む。人の目を盗む。人の間を抜けて、するりと消える。

 甲賀の女忍び……あの手の動き。手の甲の筋。歩幅。

 “香水を付けて見せびらかす”のは、挑発じゃ。

 わらわに気づけ、と言っておる」

 慶次が、髷を指でかいた。

「挑発か。面倒くせぇ恋文だな」

「恋文なら、燃やして終いじゃ。これは――いくさじゃ」

 その瞬間、景虎の背筋が伸びた。

 越後の戦の匂い。だがここは堺、畳の上だ。

 それが、逆に怖い。

 長門は一呼吸置いて、静かに言った。

「ならば――伊賀の上忍を呼びます。

 この件、堺の藤屋だけで抱えるには重い。姫様の“御庭”の獲物です」

 お市様が目を細めた。

「呼べ。……ただし、堺の町を荒らすな。商いの流れは止めるな」

「承知。荒らすのは“相手の心”だけに致します」

 長門が、合図の鈴をひとつ鳴らした。

 音は小さかったのに、なぜか座敷の空気が切り替わる。

 ――数息。

 襖の向こうに、気配が三つ。

 気配だけなら、最初からいたのかと思うほど薄い。

「入れ」

 長門が言うと、襖が静かに開いた。

 そこに立っていたのは、三人の女。

 美しい。だが美しさより先に、危険が来る。

 百地こゆき。二十八。

 藤林つらら。二十九。

 服部みぞれ。二十九。

 ――そして、さくら・あやめ・せつなの“姉上”。

 景虎は思った。

 この三人、尼姿であっても武将より怖い。

「姫様」

 三人は同時に膝をつき、礼をした。無駄がない。

 お市様は、いつもの涼しい笑みで言う。

「初めて会うの。姉上衆。――妹たちには世話になっておる」

「妹たちが、姫様に拾われ生きています。こちらこそ」

 こゆきが柔らかく返した。

 声は優しい。瞳も優しい。

 だが、その優しさは“仕事以外”の顔だと、景虎の本能が言っている。

 つららが、横から即座に補う。

「状況を。香水『お市』の匂い。堺で確認。流通経路に無。

 つまり、鳴海の蔵から盗まれた品が生きている――または、偽物が出回り始めた。どちらです?」

 早い。言葉が火薬のように切れる。

 みぞれが、にこっと笑って、慶次を見た。

「……前田慶次さま。風のように雲のように、って顔してますね」

「お、分かる? 俺の本質」

「本質は“面倒”です」

「刺さる!」

「刺すのは得意です」

「さらっと言うな!」

 景虎が、思わず噴き出した。

 慶次が嬉しそうに指を差す。

「見ろ長門! 俺の功績!」

「功績は、みぞれ殿の舌です」

「俺じゃないのかよ!」

 お市様が、手を上げて会話を止めた。

「――姉上衆。

 女は甲賀。いたち。挑発をしておる。

 堺に『お市』を付けて歩くのは、わらわへの宣戦布告じゃ」

 こゆきの鼻が、ふっと動いた。犬並みの嗅覚――その設定が、座敷の空気を現実に変える。

「……匂いの残り香、覚えました。追えます」

「視認もできます」

 つららの眼差しは、鷹のように鋭い。

「夜の動きも」

 みぞれが、狼の耳で音を拾うように首を傾ける。

 長門が、帳簿を畳に置き直した。

「堺の藤屋としては、商いを止められません。

 町方にも余計な波紋は出したくない。――よって“内輪の足”で処理します」

 お市様が頷く。

「よい。

 ただし捕らえるだけでは終わらぬ。

 この女が“どこへ流すつもりか”――根を抜く」

 景虎が、恐る恐る言った。

「……妹よ。堺で騒ぎを起こせば、南蛮も豪商も動く」

「だから騒がぬ。騒がせるのは、相手の心だけじゃ」

 お市様は景虎の手を軽く叩く。

「姉上は、今日は“見て学ぶ”。守られてよい。守るのは、明日でよい」

 景虎の胸が、少しだけ楽になった。

 守られていい、と言われたのが久しぶりだった。

■ 追跡報告――妹たちの足音は、もう戻っている

 そのとき、廊下の端から小さな合図が二つ。

 忍びの符丁だ。

 襖がすっと開き、さくら、あやめ、せつなが入った。

 汗はない。息も乱れていない。追跡を“散歩”に見せる恐ろしさ。

「姫様。女は、堺の南の路地――古い倉の裏へ」

 さくらが報告する。

「途中、二度、姿を“消した”」

 あやめが言い、

「でも匂いは消せてない。こゆき姉上なら追える」

 せつなが締めた。

 こゆきが、妹たちの頭をぽん、と撫でた。

 その瞬間だけ、座敷の空気が柔らかい家族になる。

「よくやった。……さくら、寒くない?」

「寒くない」

「……つらら、妹に過保護です」

 あやめがツッコミを入れ、

「過保護は“正義”です」

 つららが即答する。

「みぞれ姉上も過保護」

 せつなが言うと、

「私は放任主義。……刺す時だけ面倒見る」

 みぞれがにこっと笑う。

「放任主義の定義がおかしい!」

 景虎は、また笑ってしまった。

 この姉妹たちの温度が、越後で凍っていた心の端を溶かしていく。

 お市様が、畳に手をつくように身を乗り出した。

「では、作戦。

 姉上衆は追跡。妹たちは導線潰し。

 長門は堺の藤屋の“帳場の目”で、豪商筋の動きを見張れ。

 慶次は――」

「俺は?」

 慶次が身を乗り出す。

「目立て」

「最高の仕事だな!」

「目立って、敵の目を吸え。姉上と景虎は藤屋で待て。

 ――景虎姉上、心配するな。今夜は“診療”の延長じゃ」

 景虎は小さく頷いた。

 妹の目が、本当に医者の目をしていた。

 長門が静かに立ち上がり、襖際で言う。

「姫様。……堺は町です。町で戦が始まると、金が逃げる」

「逃げる金は追う。だが逃がす流れは作らぬ。

 ――わらわは、商いの城主じゃ」

 その言葉に、景虎は思った。

 この女は、戦国に生まれた商人で、商人に転生した武将だ。

 忍びたちが、影のように座敷から消える。

 慶次だけが、わざと大きな足音で廊下を歩き出した。

「よし、堺の夜に俺の名を刻んでくる!」

「刻むな。彫るな。目立て」

「分かってる分かってる。……たぶん!」

 襖が閉まり、奥座敷にはまた静けさが戻る。

 ただし静けさの下で、何かが確実に動き始めていた。

 お市様は、行灯の灯りを見つめ、ふっと笑った。

「いたちは、足跡を残した。

 ――では、狩る」

◉狂犬記 作者・桃 覚書(日記)

天文二十三年(1554年)四月十八日 夜 堺・藤屋

 堺の夜は静かなのに、胸の中だけが騒がしい。

 香水「お市」の匂いは、姫様の周りにいる者なら皆わかる。わかるからこそ怖い。

 “売っていない場所”で匂いがしたのだから。

 藤林長門さまは帳簿で断定した。

 香水「お市」は、熱田・清州・津島のみ。

 鳴海の蔵にしかない。

 つまり――盗まれた“お市”が生きている。あるいは偽物が生まれた。

 姫様は「いたち」と言った。

 あの言い方は、獲物を“人”ではなく“害獣”として見ている声だった。

 そして今夜、伊賀の上忍くの一三人が来た。

 こゆき殿は優しい顔で、でも目が冷たい。

 つらら殿は言葉が火薬みたいで、早い。

 みぞれ殿は笑っているのに、何故か背筋が伸びる。

 さくら、あやめ、せつな――妹たちは嬉しそうだった。

 姉上に会えたから、ではなく、姉上が“味方”として並んだことが嬉しいのだと思う。

 景虎さまが笑った。

 私は今日、二度も景虎さまの笑い声を聞いた。

 姫様が景虎さまの手を叩いた瞬間、診療所のあの温かさが、堺の奥座敷にもあった。

 戦は畳の上で始まる。

 刃は抜かれず、香りで刺す。

 姫様は、戦国のやり方で商いを守る。

 ――明日の堺は、何事もなかったように朝を迎えるだろう。

 だがその裏で、忍びの足跡が誰かの首筋まで続く。

 私は筆を研ぎ、ただ見届ける。

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