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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第105話 堺の町並みと南蛮商人と世界情勢 ――潮の匂いは、世界の匂い

西暦:1554年5月8日 朝

和暦:天文二十三年(1554年)四月十八日 朝

場所:堺――南蛮商館・市中/藤屋(伊賀忍者商家)

 堺の朝は、尾張の朝と違う。

 港から立ち上がる潮の匂いに、香木、胡椒、皮革、葡萄酒――舶来の匂いが混じっている。

 路地を抜ければ、蔵造りの商家が肩を並べ、帳場の声が波のように行き交う。

 狂犬お市様は、今日も景虎姉上の手を取って歩いていた。

 それだけで堺の町は、ひと息遅れて視線を寄越す。

 美しい。

 いや、綺麗などという薄い言葉では追いつかぬ。

 肌は雪、所作は風、香りは刃。――香水「お市」の残り香が、潮の匂いを上書きしていく。

「……妹よ。堺の者は、皆、声が大きいの」

「商いの町じゃ。声が小さい者は、値切られて終いじゃの」

「越後では、まず刀が出る」

「越後は越後、堺は堺。姉上は、ここでは拳を握らぬ。――握るのは銭じゃ」

 景虎は、思わず笑ってしまった。

 笑えるようになった自分に、少し驚いた。

 背後で、慶次が欠伸を噛み殺し、肩で笑う。

 さくら、あやめ、せつなは、護衛の顔で周囲の流れを切り分けながら歩く。

 堺の人波に紛れた“視線”の数まで数えているのが、忍びの恐ろしいところだ。

「慶次、背後の魚屋。左手の桶、妙じゃ」

「妙って言うな、せつな。魚が泣く」

「泣くのは魚じゃなく、値札だよ。……姐さん、あれ、見張り」

「うむ。堺は平和じゃが、平和の顔した刃が多い」

 お市様は笑って言い、すっと商館の門へ入った。

■ 南蛮商館――“船”という名の城を買う話

 商館の中は、別世界だった。

 壁には異国の布、床には地図、机には硝子瓶、そして香辛料の匂いが濃い。

 ポルトガル商人――黒髭に、金の指輪。

 日本語は上手くないが、金の話だけは誰より正確だ。

「オイチ、フネ、カウ? ……カラベル、キャラック、ガレオン」

「うむ。中古でよい。使わぬ船があるなら、譲れ。――ただし、動く船じゃ」

「ガレオン、コワレ、コワレ。サカイ、ヤット」

 商人は肩をすくめ、壊れたと強調する。

 藤林長門(藤屋当主)が、控えめに咳払いをした。

「姫様。……堺で“船”は、城を買うより騒ぎになります。ですが、買えぬ話ではございませぬ」

「騒ぎはよい。騒ぎの陰で、わらわは欲しいものを取る」

 お市様は涼しく笑う。

 景虎は、隣で目を丸くしていた。

 船を買う――その発想が、越後にはない。

「姉上。越後には火縄銃も、船も、足りぬのか?」

「……足りぬ。海は荒いし、商いも薄い。まず、米と兵で回しておる」

「なら、春日山に狂犬堂を作る。内政、交易、医療、布も、薬も。火縄銃が要るなら――千でも万でも送る」

「……」

 景虎は、言葉が出なかった。

 助けると言いながら“貸し”を作る者は多い。

 だがこの妹は、助けることを前提に、最初から計画を組み替えてくる。

 商談は続く。

 お市様は、船だけでは終わらせなかった。

「種も買う。芋、野菜。――じゃが芋、さつま芋の類」

「イモ、イイ。タダシ、タネ、タカイ」

「高いなら、未来が高いということじゃ」

 さらに――

「馬も買う。雄雌。小さく丈夫な“ポニー”と、脚の速い馬。鶏も雄雌。繁殖できる数」

 商人が吹き出しそうな顔をして、慶次の方を見た。

 慶次は、にやりと笑って両手を広げる。

「俺も買われるなら安くしとくぜ」

「いらぬ」

 さくらが即答し、あやめが追撃する。

「貴方は“勝手に付いてくる”が基本ですから」

「心が痛い」

「痛いのは景虎様の腹です」

「今は痛くない!」

 景虎がつい言い返してしまい、皆が一斉に笑った。

 笑い声が出た。――それだけで、ここまで来た価値がある。

■ 航海士たちの“世界情勢”――海の向こうは、骨の匂い

 商館の奥には、船乗りたちがいた。

 ポルトガルの船に乗る、イスパニア(スペイン)出身の男。

 北の海を渡ってきたフランドル(ネーデルラント)系の男。

 英吉利イギリス訛りの若い航海士。

 堺は港だ。国籍など、酒の銘柄ほどに混じる。

 お市様は、異国語で彼らに話しかけた。

 景虎は、目を瞬いた。

「……妹よ、いま何語を?」

「海の言葉じゃ。――相手に合わせれば、嘘が減る」

「嘘が減る?」

「言葉が通じぬと、嘘が増える。通じると、嘘は“薄く”なる。――わらわは薄い嘘なら嗅げる」

 さくらが小さく頷く。鼻が犬並みの一族が頷くと、説得力が違う。

 航海士たちは、海図を広げ、世界の話をした。

 南の海には香辛料の島々。

 大きな国同士が、海の道を奪い合い、港を押さえ、税を取り、旗を立てる。

 金と銀が流れ、火薬が流れ、人が流れる。

 景虎は静かに聞いていた。

 越後の雪は白い。

 だが海の向こうの話は、白ではない。黒い。赤い。――生々しい。

 お市様は頷き、淡々と情報を積み上げる。

 その横顔を見て、景虎は思った。

(この妹は、戦だけを見ていない。国を“作る”つもりなのだ)

 そして、遠くで藤吉郎がくしゃみをした――気がする。

 いま尾張で書類に埋もれながら、姫の意図を必死に噛み砕いている男の顔が、景虎の脳裏に浮かぶ。

(あやつは、きっと今頃こう言う。“姫様、船は城です”と)

■ 夕方――藤屋へ戻る道、香りが刺す

 商館を出て、堺の町を歩く。

 夕方の光が、蔵の白壁を淡く染める。

 藤屋へ戻る道。

 人波の向こうから、一人の女が歩いてきた。

 ――美しい。

 景虎が息を呑むほどの、美人だった。

 すれ違った瞬間。

 香りが、ふっと刺した。

 香水「お市」。

 藤林長門が、わずかに眉を動かす。

 その目は商人の目であり、忍びの目でもある。

(堺に“お市”は流していない。――なのに、なぜ)

 長門は足を止めかけ、しかし止めない。

 止めた瞬間に、“気づいた”と告げることになる。

 女は振り返らず、ただ、潮の匂いの中へ消えた。

 お市様は、何も言わない。

 だが、口元だけが薄く笑っている。

「……姉上」

「うむ」

「堺は、面白いのう」

「面白い、というより……怖い」

「怖いから、面白いのじゃ」

 慶次が、楽しそうに肩を回す。

「堺は退屈しねぇな。なぁ、姫さん」

「退屈は敵じゃ。敵は狩る」

「怖っ」

「褒め言葉じゃ」

 忍び三人は、もう動いていた。

 見えぬ速度で、見えぬ尾を引く。

 “香り”の主を辿るために。

◉狂犬記 作者・桃 覚書(日記)

天文二十三年(1554年)四月十八日 夜 堺・藤屋にて

 堺は、銭の音がする町だった。

 銭の音は、人の欲の音で、欲の音は、嘘の音でもある。

 だが姫様は、嘘を嫌う。だから言葉を合わせ、相手の嘘を薄くして、骨だけを拾う。

 景虎様が笑った。

 あの方が、ちゃんと笑った。

 私はそれが嬉しくて、夕餉の湯葉の味が少しだけ甘く感じた。

 南蛮商館で、姫様は船を買う話をした。

 船は城より高いのに、姫様は眉一つ動かさなかった。

 姫様の中では、海も陣地なのだろう。

 帰り道、香水「お市」の匂いがした。

 姫様は堺に“お市”を売っていない。藤屋も売っていない。

 なら、誰が使ったのか。

 姫様の口元は笑っていた。

 あれは、獲物を見た顔だ。

 堺の夜は静かだ。

 だが静けさの下で、刃が歩いている。

 ――明日は、姫様が何を狩るのか。

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