104話 堺の町並みと南蛮商人と堺の豪商 ――銭の海と、姉妹の約束
西暦:1554年5月7日 朝
和暦:天文二十三年(1554年)四月十七日 辰の刻
場所
堺・市中/南蛮商館通り/会合所
堺の朝は、鳴海とも越後とも違った。
潮の匂いに、鉄と油と香木の香りが混じり、町全体がざわめいている。
「……人が、多いの」
長尾景虎は、狂犬織の着物の袖を押さえながら、ゆっくりと歩いていた。
尼姿を脱ぎ、色のある着物に身を包むようになってから、景虎の表情は柔らいでいる。
「ここは銭が流れる町じゃ」
お市様は、隣を歩きながら答えた。
「武威より、信用。
城より、帳面。
斬り合いより、取引」
「……越後とは、まるで違う」
景虎は正直にそう言った。
護衛の前田慶次は、すでに露店で焼き菓子を頬張っている。
「姫様、これ甘すぎて脳が溶けますぞ!」
「慶次、朝から騒ぐな」
「いやあ、堺は危険な町ですな!」
「護衛の自覚が危険」
あやめが即座に斬り、
「でも姉上が笑ってます」
さくらが指摘し、
「それで十分」
せつながまとめた。
景虎は、思わず小さく笑った。
――以前の自分なら、こんな場で笑えなかった。
南蛮商館通りに入ると、壁一面に並ぶ火縄銃が目に入る。
黒光りする鉄、丁寧に削られた木。
景虎の足が、自然と止まった。
「……これが、鉄砲」
「火縄銃じゃ」
お市様は一本を手に取り、重さを確かめる。
「戦の形を変えた道具じゃな」
景虎は、しばらく黙り込んだ後、静かに言った。
「越後には……ほとんど、ない」
「ない?」
「あるには、ある。
だが少ない。城ごとに抱え込み、表に出ぬ」
その言葉を、少し離れた位置で木下藤吉郎が聞いていた。
(……なるほど)
(越後は、まだ“個”の武器)
(狂犬様は“面”で使う)
藤吉郎の頭の中で、盤面が組み上がっていく。
(春日山に、銭と物流が通れば――)
(国は、内側から変わる)
一行は、堺の豪商・津田屋の会合所へ通された。
香木の匂い、磨き抜かれた床。
「狂犬殿」
当主が深く頭を下げる。
「本日は、火縄銃の件で」
「うむ」
お市様は、景虎の方を一瞥した。
「姉上にも、見せておきたくてな」
景虎は一瞬驚いたが、すぐに理解した。
――これは、治療だ。
心を閉じていた自分に、外の世界を見せている。
商談は静かに進む。
銃の数、弾、修理、補給。
「越後には、火縄銃は?」
お市様は、ふと景虎に問いかけた。
「……足りぬ」
その答えを聞き、お市様は迷いなく言った。
「ならば、送ろう」
「……なに?」
「春日山に、狂犬堂を建てる」
景虎の目が、見開かれた。
「内政、医療、交易。
銭も、人も、道も、整える」
藤吉郎が一歩前に出る。
「火縄銃が要るなら、
千でも、一万でも、手配できます」
景虎は、言葉を失った。
「……そこまで、する理由は?」
お市様は、景虎の目をまっすぐ見た。
「義理姉妹じゃろ」
それだけだった。
「姉上を助けるなら、
国ごと、立て直す」
景虎の胸が、きゅっと締め付けられた。
「……お市」
「越後が、姉上の居場所なら」
「わらわは、そこを守る」
慶次が、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いやあ……姫様、相変わらず規模がおかしい」
「褒め言葉じゃ」
会合所を出た後、景虎はしばらく黙って歩いていた。
「……越後に、戻るのが怖かった」
ぽつりと、景虎が言う。
「姉に。家臣に。
“期待される自分”に」
お市様は、歩調を合わせた。
「怖いままで、よい」
「え?」
「逃げたい気持ちも、嫌じゃとは言わぬ」
お市様は微笑む。
「だが、逃げ場がある者は、強い」
景虎の目に、うっすらと涙が滲んだ。
「……妹よ」
「姉上」
二人は、堺の雑踏の中で、並んで歩いた。
―― お市様の日記
狂犬記(作者:桃)
天文二十三年 四月十七日
堺にて。
鉄と銭と、人の欲。
姉上、火縄銃を見る目、真剣。
越後、まだ眠る。
春日山に、狂犬堂。
医も、銭も、道も通す。
義理姉妹とは、
国を背負う覚悟を、分け合うことなり。




