103話 堺の夜に ――商いの灯、心ほどける刻
西暦:1554年5月5日 夕方
和暦:天文二十三年(1554年)四月十五日 夕刻
場所
堺・藤屋(伊賀忍者商家)
夕刻の堺は、昼の喧騒を脱ぎ捨て、商いの町らしい静かな熱を帯びていた。
行灯が一つ、また一つと灯り、通りには海風に混じって煮炊きの匂いが流れる。
「……ここが、堺」
景虎姉上は、思わず足を止め、町並みを見上げた。
越後の城下とも、京とも違う。
武でも権威でもなく、“銭と人”が主役の町。
「そうじゃ。戦の匂いが、せぬ町よ」
お市様は穏やかに答え、姉上の歩調に合わせる。
尼姿を脱ぎ、狂犬織の着物に身を包んだ景虎は、町の視線に少し緊張しながらも、確かに――好奇心の光を宿していた。
今宵の宿は、伊賀忍者商家・藤屋。
暖簾をくぐると、すでに座敷には支度が整えられ、香ばしい焼き魚と出汁の匂いが漂う。
「これはこれは、ようこそお越しくださいました」
深く一礼したのは、藤屋当主・藤林長門。
老獪さと柔らかさを併せ持つ、伊賀者らしい眼差しである。
「此度は世話になる」
お市様が応じると、長門はすっと隣の景虎を見る。
「……こちらが?」
「わらわの姉上じゃ」
その一言に、長門は多くを問わなかった。
ただ、もう一段深く頭を下げる。
「ごゆるりと。堺の夜は、長うございますゆえ」
座敷ではすでに――
「おお、これは……南蛮焼きか!」
前田慶次が目を輝かせる。
「兄上、はしゃぎすぎ」
あやめが即座に突っ込み、
「まあまあ、旅先じゃし」
さくらが笑い、
「……食べ過ぎは、よくない」
せつなが淡々と釘を刺す。
そのやり取りに、藤屋の女中たちがくすくすと笑った。
景虎は、少し離れた席でその光景を眺めていた。
――誰も、怒鳴らぬ。
――誰も、怯えぬ。
「姉上、冷めぬうちに」
お市様が器を差し出す。
景虎は箸を取り、一口。
「……うまい」
ぽつりとした言葉に、お市様は微笑んだ。
「堺の飯は、人の腹と心を満たす」
「……越後では、
飯は力のために食うものじゃった」
景虎の声は、静かだった。
「ここでは、違うのう」
「違うとも」
お市様は酒を一口含み、ゆっくりと続ける。
「生きるために食い、
楽しむために笑い、
人と人で、町を回す。
それが、堺じゃ」
景虎は、膝の上で拳をほどいた。
――胸の奥にあった、固い何かが、
少しだけ、ほどけていく。
「……妹よ」
「なんじゃ、姉上」
「わらわは……
ここに来て、息がしやすい」
お市様は、何も言わず、ただ杯を差し出した。
杯が触れ、かすかな音を立てる。
堺の夜は、深く、優しく、二人を包み込んでいった。
―― お市様の日記(狂犬記・作者桃)
天文二十三年 四月十五日 夕
堺にて。
姉上、初めて笑いながら飯を食う。
人は、戦では治らぬ。
場所と役割と、居場所が要る。
堺の灯は、やさしい。
今宵、姉上の心、ひとつ解けたり。
よし。
この旅、正解じゃ。




