102話 安宅船―伊勢湾を渡る風
西暦:1554年5月5日 昼
和暦:天文二十三年(1554年)四月十五日 昼
場所
堺港沖 ―― 安宅船船上
春の伊勢湾は、光がやわらかい。
潮の匂いを含んだ風が、帆を押し、白波がゆるやかに船腹を叩いていた。
安宅船の甲板に立つ狂犬お市様は、風に揺れる狂犬旗を一瞥し、隣に立つ景虎姉上へと目を向けた。
尼姿を脱ぎ、狂犬織の淡い桜色の着物に身を包んだ景虎は、越後では見せなかった柔らかな表情で、港の賑わいを見下ろしている。
「……堺は、すごいのう。人も、物も、声も……すべてが生きておる」
その声には、怯えも緊張もない。
ただ、純粋な驚きがあった。
「そうじゃろ」
お市様は微笑んだ。
「越後は厳しく、美しい。
じゃが、ここ堺は――人が生きる熱で動いておる町じゃ」
甲板の反対側では、前田慶次が欄干にもたれ、港を見渡している。
その横に、さくら・あやめ・せつなが並び、自然に人の流れと船の動きを目で追っていた。
――すでに諜報の目である。
「姫様、安宅船というのは、やはり別格ですな」
慶次が振り返り、笑う。
「戦も運ぶ、銭も運ぶ、命も運ぶ。
舟はな、国そのものじゃ」
お市様の言葉に、景虎ははっとして姫を見た。
「……越後には、山しかなかった。
海を、これほど自由に使えるとは……」
「だから連れてきたのじゃ、姉上」
お市様は、静かに続けた。
「心を癒すには、
知らぬ景色を見るのが、一番よい」
その言葉に、景虎は胸の奥が温かくなるのを感じた。
姉・仙桃院の顔が、ふと脳裏をよぎる。
厳しさ、恐ろしさ、逃げ場のなさ。
――だが今、ここにはそれがない。
あるのは、
潮風と、笑い声と、
そして隣に立つ“妹”。
「……お市」
「なんじゃ、姉上」
「そなたに会えたこと、
わらわは、救われた」
お市様は答えず、ただ景虎の手をそっと取った。
言葉はいらぬ、とでも言うように。
安宅船は、ゆっくりと堺へ入港していく。
それは、交易のためだけの船ではない。
傷ついた心を、新しい世界へ運ぶ舟でもあった。
―― 桃の日記(狂犬記)
天文二十三年 四月十五日
景虎姉上を堺へ連れ出す。
海と人と銭の流れを見せるため。
心の病は、閉じた世界で悪化する。
景色を変え、人を変え、役割を与える。
姉上は、もう尼ではない。
戦う将でもない。
“生きる人”として、ここにいる。
それでよい。
それが、わらわの治療じゃ




