第101話 慶次と景虎とチヌ
西暦:1554年4月10日
和暦:天文二十三年三月三十日(旧暦)
刻:昼
伊勢湾から吹く春の潮風は、まだ少し冷たく、だが確実に冬の名残を押し流していた。
海辺の岩場に腰を下ろし、長尾景虎は釣り竿を握りしめていた。
戦と家臣団の統制、責任と血の重み。
それしか知らずに生きてきた景虎にとって、
この静かな海と、ゆるやかな時間は、あまりにも新鮮だった。
「力を抜きなされ。
魚は、人の焦りを嫌う」
隣で笑うのは前田慶次。
鎧も兜も脱ぎ捨て、肩の力が抜けた姿は、戦場の猛将とは別人のようだ。
「黒鯛――チヌはな、
“待てる者”の竿に来る」
その言葉に、景虎は小さく頷く。
――越後では、待つことは弱さだった。
だが、ここでは違う。
景虎の胸は、理由もなく苦しかった。
慶次の横顔を見ているだけで、息が詰まる。
(これは……恋、なのか)
自分が、そうした感情を抱くことを、
許されぬ存在だと思ってきたからこそ、
その想いは、なおさら胸を締めつけた。
慶次は――気づいている。
だが、気づかぬふりをしている。
風のように。
雲のように。
誰も縛らぬ、誰も傷つけぬ優しさで。
「……来たぞ」
その瞬間だった。
ぐん、と竿が引かれる。
「姉上、合わせよ!」
「……っ!」
景虎は、反射的に竿を立てた。
水面が割れ、銀黒の影が踊る。
「チヌだ!」
慶次の声に、景虎の顔がぱっと明るくなる。
必死に、だが楽しそうに竿を操る景虎を、
慶次は少し離れた場所で、静かに見守っていた。
戦場では決して見せぬ、
無防備な笑顔だった。
桃(お市)の日記 ―天文二十三年三月三十日 夜―
今日、景虎姉上は慶次と海へ行った。
遠乗り、釣り、潮風。
越後では、きっと知らなかった時間。
姉上の顔が、少しずつ柔らいでゆく。
それだけで、胸が温かくなる。
慶次は、気づいておる。
されど、踏み込まぬ。
あれは優しさであり、同時に業でもある。
恋は、人を弱くも強くもする。
姉上が、それを選ぶなら、
わらわは止めぬ。
ただ――
姉上が、再び己を責めぬよう、
妹として、医者として、
その心を守るだけ。
戦国の世に、
女が心を病むことを、
誰も罪とは呼ばせぬ。
桜は、今年も咲いた。
散ることを恐れず、
ただ、今を生きるために。
――桃




