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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第100話 桜咲く月下の誓い

――西暦:1554年4月5日 夜

――和暦:天文二十三年 三月二十六日 夜

場所:鳴海城 桜の大木の下(本丸裏庭)

 鳴海城の夜は、妙に静かだ。

 昼は槍の声、火縄の炸裂、号令と足音で地面が鳴るのに――夜になると、桜の花びらが落ちる音まで聞こえそうになる。

 満月が、桜の枝という枝を白く縁取っていた。

 酒の匂いは薄い。

 それでも杯は二つ。

 その前に座るのは、狂犬お市と、尼姿を脱いだ長尾景虎。

 景虎は、狂犬織の着物に身を包んでいた。越後の色とは違う、熱田と鳴海の“商い”が織り込まれた光沢。

 それが、なぜか景虎の白い肌に、よく似合っている。

「……桜は、こんなに明るい花だったのか」

 景虎が、ぽつりと言った。

「越後の桜は、寒いじゃろ」

 お市は酒を注ぎ、にやりと笑う。

「鳴海の桜はな、戦が好きなんじゃ。月に照らされても、散る。散っても、また咲く。……わらわみたいじゃろ?」

「妹よ、おぬしは……時に、己を笑いものにする」

「笑いものにせねば、泣いてしまうからの」

 言いながら、お市は杯を唇に当てた。

 景虎も倣う。

 遠乗りや釣りで少しずつ戻った血色が、月明かりでも分かるほどに整ってきている。

 それを見て、お市は、胸の奥の“ちくちく”が、少しずつ柔らかくなっているのを感じた。

 景虎は、やがて視線を落としたまま言った。

「……仙桃院が、怖い」

 たったそれだけで、景虎の背筋が硬くなる。

 お市は、すぐに答えない。

 診察でも、戦でも、急がぬ。

 相手が“言える速さ”に合わせる。

 それが、この狂犬のやり方だ。

「怖いのは、“姉上”か」

「……姉上の言葉だ。姉上の目だ。越後の家臣の目だ。わらわが女であることを、許さぬ目……」

 景虎は拳を握る。掌に残る古い胼胝が、月に照らされて浮いた。

「刀も弓も、わらわの身体より正直なのに。……人は、正直なものを嫌う」

 お市は、鼻で笑った。

「分かるぞ。わらわも、八回死んだ」

「……八回」

 景虎が顔を上げる。

 お市は桜を見たまま、淡々と言った。

「北の庄で、焼け落ちながら腹を切った。足が震えて、刀を落としたこともある。……笑うな。狂犬にも、震える夜はあった」

「笑わぬ」

 景虎の声が低くなる。

「妹よ……おぬしの“震え”は、わらわの震えとは違う。おぬしは、震えたまま立つ」

「立たねば、守れぬからの」

 お市は、景虎の杯へ、もう一度酒を注いだ。

「わらわは医者でもある。心の病も診る。……景虎姉上、今宵は“治療”じゃ。桜と月で治す」

「……どうやって」

「決まっておる。誓いじゃ」

 景虎の眉が動いた。

 誓い。

 それは越後では、重い。

 命より重い時がある。

「妹よ。――劉備、関羽、張飛が、桃園で盟約を結んだと聞く」

「聞いた。関羽千里行、長坂橋、赤壁……歌にもした」

「……歌にするな、妹よ」

「歌は便利じゃ。心に刺さる」

 お市は笑って、杯を差し出した。

「姉上が望むなら、わらわも望む。義理の姉妹の盟約を、ここで結ぶ」

 景虎は、しばらく黙った。

 桜が一枚、景虎の髪に落ちる。

 それをお市が指で払うと、景虎の肩が小さく跳ねた。

「……わらわは、越後に帰りたくない」

 景虎が吐き出すように言った。

「帰れば、姉上の檻だ。家臣の檻だ。……わらわは“長尾”である前に、“わらわ”でいたい」

「なら、鳴海で“わらわ”でおれ」

 お市の声が、驚くほど優しい。

「景虎姉上は、わらわの側に常にいたらよい。副官じゃ。戦でも、政でも、医でも、心でも――姉上は、姉上のまま生きればよい」

「……妹よ」

 景虎の目が濡れる。

 そこへ、足音が一つ。

 木下藤吉郎が、書付の束を抱えたまま、遠慮がちに現れた。

「姫様、酒が――」

 言いかけて、空気を読んだ。

 読めてしまった。

 そして、頭を抱えた。

(姫様、今夜、政治じゃない……心の戦だ……! だがこれは、越後への縁……いや、景虎殿は後に――)

 藤吉郎は、咳払いで逃げ道を作る。

「……あ、あの、酒はここへ置きます。わたくしは……月が、眩しいので退きます!」

 意味不明な言い訳を残し、すたこら去った。

 お市は笑い、景虎も、つられて笑った。

 笑えた。

 それが、何よりの治療だった。

 お市が杯を高く掲げる。

「では、誓うぞ。御仏よ、ご照覧あれ」

 景虎も杯を掲げる。

 桜の影が二人の杯に揺れる。

「――わらわら、姉妹。桜咲く満月に誓う」

 お市が言い、景虎が続ける。声が重なる。

「産まれた月日、場所、親は違えども――」

「願うならば、死するときは、同年同月同日にならん――」

 お市の瞳が、ほんの少しだけ、遠い炎を映した。

 景虎はそれを見て、逃げない。

「御仏よ、ご照覧あれ」

 二人は杯を飲み干した。

 酒の熱が喉を落ち、胸へ落ち、腹へ落ちる。

 生きている熱だ。

 桜が、また一枚落ちた。

 今度は、二人の間に落ちた。

 まるで“ここから先”を指すように。

「姉上」

 お市が言う。

「妹お市が、姉上景虎を守る」

 景虎は、唇を噛んで、やがて小さく頷いた。

「……妹よ。守られるだけではない。わらわも、おぬしを守る」

 その瞬間、鳴海の夜に、固い同盟が花開いた。

 戦国に咲く、姉妹の盟約。

 月下の誓い。

 ――そして、狂犬の作戦図の外側で、もう一つの“運命”が動き始めた。

狂犬記 祐筆・桃 感想(筆が震えておる)

 姫様は、誰より強いのに、誰より優しい。

 景虎様は、誰より凛々しいのに、今夜は少女のように泣いておられた。

 桜と月と酒だけで、心の骨が一本、まっすぐに立つのを見た気がする。

 木下殿が「月が眩しい」と逃げたのは、たぶん正しい。

 あの場は、誰も入ってはならぬ“治療”だった。

お市様 日記(天文二十三年 三月二十六日 夜)

 景虎姉上と、杯を交わした。

 姉上は怖がっておる。檻が嫌いなのだ。わらわも檻は嫌いだ。

 わらわは八回死んだ。死の匂いは、春の匂いに似ている。

 だから、春は嫌いではない。

 姉上が笑った。よい。

 姉上を守る。

 ――守ると決めたら、狼は強い。

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