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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第99話 慶次と景虎 狂犬お市様の狂犬式――火縄銃訓練の朝、恋の遠乗り

西暦:一五五四年三月五日 朝

和暦:天文二十三年 二月二十五日 朝(相当)

 朝の空気は、まだ冷たい。

 けれど鳴海城下の訓練場だけは、夜明け前から熱を帯びていた。

 乾いた火皿の匂い。

 火縄の焦げる匂い。

 湿った土を踏む音――そして、号令。

「一列! 前へ!」

「火縄、点けぇ!」

「狙え――撃てぇッ!」

 前田利家の声が、腹の底から響く。

 火縄銃兵が一斉に頬付けし、火蓋が落ちる。

 ――ドン! ドン! ドン!

 白い硝煙が一面に広がり、風にほどける。

 そして次の瞬間には、もう次の動作。

「装填! 早合はやごう確認!」

「後ろ、詰めるな! 間をあけろ!」

「二列、前進! 一列、下がれ!」

 利家は“槍の男”だが、今日は“銃の男”だった。

 算盤を叩き、数を数え、段取りを回し、息継ぎまで管理している。

 訓練場の端。

 そこに、綺麗な狂犬織の着物を纏った尼姿の女がいた。

 長尾景虎。

 越後の姫で、今は――めっちゃ家出中。

 景虎は、足元に気をつけながらも、視線だけは銃列から離さない。

 銃口の上下、火縄の位置、兵の呼吸。

 ときどき、指先がぴくりと動く。まるで自分が撃つみたいに。

「……早いな」

「……あの隊列は、崩れぬな」

 ぽつり。

 言葉が漏れたのを、景虎自身が驚いたように口を結ぶ。

 その隣では、妹――狂犬お市が、何でもない顔で見ていた。

 (心の医者の顔、というやつだ)

「姉上、目が生きてきたの」

「……そう見えるか」

「見える。訓練は人を救う。身体も、心も」

 景虎は、ふっと笑った。

 越後では、笑うと「たるんでいる」と言われる。

 ここでは――笑っても、誰も怒らない。

 そのとき。

「ふぁぁ……」

 訓練場の反対側。

 馬上で大あくびをしている男がいた。

 前田慶次。

 狂犬家臣団の中でも、飛び抜けた剛勇。

 ただし今日は、騎馬隊は当番外。暇である。

「慶次殿、欠伸で顎が外れますよ」

 と、近くの兵が囁く。

「外れたら、姫様に治してもらうさ」

「それ、死ぬほど鍛え直されるやつです」

「……やめとこ」

 慶次は肩をすくめ、松風の首を撫でた。

 松風は鼻を鳴らす。退屈そう。

 慶次が、ふと後ろを振り返る。

 そこに――尼姿の景虎が、まるで戦場を見る武将の目で、訓練を凝視していた。

「……ほう」

 慶次の口角が、悪戯に上がる。

 “退屈”が、“遊び”に変わる瞬間だ。

 彼は松風を軽く蹴った。

 ――疾走。

 砂を蹴り、風を裂き、あっという間に景虎の前へ。

「尼さま。……熱心だね」

 景虎は、びくりと肩を跳ねさせた。

 近い。顔が近い。馬がでかい。男が派手だ。

「な、なんじゃ……」

「遠乗り、行くかね?」

 慶次は、さらりと手を差し出した。

 まるで、花見に誘うみたいな軽さで。

「……わ、わらわは……」

「“姫様の姉上”だろ?」

「……っ」

 景虎の頬が、一気に赤くなる。

 否定したいのに、言葉が出ない。

 お市に“姉上”と呼ばれることは、もう、嫌じゃない。

 景虎は、こくんと小さく頷いた。

「よし」

 慶次は景虎の手を取り、ぐい、と引く。

 景虎の身体がふらりと揺れ、慶次の腕に収まる。

「ち、近いっ……!」

「落ちるよりは、ましだろ?」

 松風が一歩踏み出した瞬間、景虎は反射で慶次の着物を掴む。

 その手は、刀だこでも弓だこでもない――“生き残るための手”だ。

「ん? 掴む力、強いね」

「うるさい! 落ちたら死ぬ!」

「はは。死なせないさ」

 軽口。

 なのに、どこか本気。

 景虎は、慶次の胸に顔を埋めた。

 羞恥で、熱で、心臓がうるさい。

 越後に帰りたくない――その理由が、ひとつ増えてしまう気がした。

 馬は、訓練場を抜け、城下を抜け、潮の香りの方へ走る。

 道中、村人が手を振る。

「慶次さまー! また派手やなぁ!」

「尼さま、落ちんときやー!」

「落ちるかぁぁ!」

 景虎が思わず叫ぶと、慶次が笑う。

 その笑いに、景虎の胸の奥の硬いものが、少しだけほどけた。

 ――海に出た。

 伊勢湾の青。

 波が白く砕け、朝日がきらりと光る。

「綺麗じゃ……」

 景虎の声が、素直になる。

「だろ?」

 慶次は松風を止め、海を眺める。

「越後の海も、こうかね?」

「越後の海は、もっと荒い」

「なら、ここは“休む海”だ」

 景虎は、言葉を探した。

 けれど、言葉より先に、胸がぎゅっとなる。

「……慶次」

「ん?」

「……お市は、なぜ、あんなに強い」

 慶次は即答しない。

 少しだけ真面目な顔で、海の方を見た。

「強いんじゃない。――強く“あろう”としてる」

「……」

「そして、誰かを強くするのが上手い」

 景虎の脳裏に、訓練場の隊列が浮かぶ。

 利家が怒鳴り、兵が動き、煙が晴れ、また整う。

 あれは――仕組みだ。習慣だ。生き残る形だ。

「姉上」

 遠くから、声。

 振り返れば、訓練場の方角。

 そこにお市がいる気がして、景虎は背筋を伸ばす。

 ――そのころ。

 訓練場では、木下藤吉郎が、煙の向こうを眺めていた。

 慶次と景虎が消えた方角を。

(……姫様は、わざと“見せた”な)

 藤吉郎は、唇を噛む。

 景虎の心を治すのは、薬だけじゃない。

 “日常”と“居場所”と、そして――誰かの温度。

(姫様は、姉上に居場所を与えた。

 次は――姉上に“縁”を与える気か)

 藤吉郎の胃が、きゅっと痛む。

 狂犬堂の胃薬が恋しい。

(人の心を動かすのも、兵を動かすのも、同じ“指揮”……)

(恐ろしいお方だ……)

――狂犬記 作者:桃(お市様の日記)――

天文二十三年 二月二十五日 晴 朝

景虎姉上、銃列を見る目が、もはや尼ではない。

越後の姫の目である。

生きる意志が戻ると、視線が鋭くなる。よい兆候。

慶次、姉上を連れ出した。

よい。

心は、閉じた部屋では開かぬ。海と風は、薬より効くことがある。

ただし、慶次――調子に乗るな。

姉上は傷ついておる。

乱暴に触れれば、心がまた閉じる。

藤吉郎は、すでに気づいた顔をしておった。

あやつは賢い。ゆえに胃が弱い。

胃薬を増産せねばならぬ。

今日も、よき日。

――桃

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