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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第98話 狂犬お市様の狂犬式 心の治療 ――狂犬式・心の病退治

西暦一五五四年二月十九日 昼

和暦:天文二十三年 二月中旬(二月十九日相当)

 中村の空は、冬の名残を残しつつも、どこか柔らかかった。

 冷たい風の中に、土と炊き出しの匂いが混じる。

「……ここが、中村なのか」

 長尾景虎は、思わず立ち止まって周囲を見回した。

 目の前には――

 狂犬堂本舗。

 白地に黒の狂犬紋、その上に紅の筆で描かれた大きな「狂犬」の二文字。

 はためく旗は、遠目にも派手で、しかし不思議と下品さがない。

「うむ。

 ここが、わらわが天下取りを“始めた”場所じゃ」

 妹お市は、どこか懐かしそうに言った。

「中村二百石。

 元は、貧しくてな。

 飢えも病も、当たり前の村じゃった」

「……それが、今は……」

 景虎の視線の先。

 寺小屋から、元気な声があふれ出してくる。

「二八、十六!

 三八、二十四!」

 子供たちが、声を揃えて九九を暗唱していた。

 坊主頭も、髪を結った娘も、身なりは決して豪奢ではない。

 だが、顔が明るい。

「……越後とは、まるで違う」

 景虎は、ぽつりと漏らした。

「越後では、子は労働力。

 学ぶより、鍬を持てと言われていた……」

「ここでは、逆じゃ」

 お市は即座に返した。

「学ばせる。

 食わせる。

 遊ばせる。

 そのうえで、働かせる」

「……なぜ、そこまで?」

 景虎の問いは、純粋だった。

 お市は、少し笑って答える。

「子は、未来じゃ。

 未来を削って、今を保てば――国は滅ぶ」

 寺小屋の裏手では、昼の支度が進んでいた。

 大鍋から立ち上る湯気。

「今日は、ちゃんこ鍋じゃ」

「……子供に?」

「そうじゃ」

 昼時。

 子供たちは整列し、椀を受け取る。

「いただきます!」

 一斉に頭を下げ、鍋を囲む。

 肉と野菜がたっぷり入った湯気の向こうで、笑い声が弾ける。

 その様子を見た瞬間――

 景虎の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

「……子供は、好きじゃ」

 無意識に、言葉がこぼれる。

「……戦場で泣く子を、何度も見た。

 守れなかった……」

 声が震える。

 お市は、何も言わず、景虎の隣に立った。

「ここでは、泣かせぬ」

 ただ、それだけを告げる。

 運動場では、鍋を食べ終えた子供たちが走り回り始めていた。

 転んで泣きそうになる子を、別の子が起こす。

「だいじょぶか!」

「へーき!」

 そのやり取りに、景虎は思わず微笑んだ。

「……心が、楽になる」

「それが、狂犬式・心の治療じゃ」

 お市は、静かに言う。

「刀も、薬も使わぬ。

 人の営みを、正しい形に戻すだけ」

 景虎は、深く息を吸い、吐いた。

「……妹よ」

「なんじゃ、姉上」

「……越後に、帰らぬ選択は……間違いではないか」

 お市は、即答しなかった。

 代わりに、子供たちの方を見る。

「間違いかどうかは、後で決めればよい。

 今は――生きやすい場所におればよい」

 景虎の目に、光が宿った。

 この村は、

 この中村は、

 心の病を、静かに癒していた。

――狂犬記・桃(お市様の日記)――

天文二十三年 二月中旬

中村にて

景虎姉上、子供たちを見る目が、柔らいだ。

越後の重圧、少しずつ解けておる。

心の病は、孤独から始まる。

ゆえに、群れと笑いが薬となる。

中村は、わらわの原点。

ここを見せられたのは、よき治療であった。

姉上は、まだ迷っておる。

されど――もう、一人ではない。

――桃

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