第一話 天龍仙国
――天龍暦××××年。
轟々と火柱を上げる母屋を前に、呆然と地べたに座り込む少女。
彼女の周りにはいくつもの亡骸が討ち捨てられ、その身体からはぬるい液体が流れ出る。
まだ暖かい骸の手を握りながら「お母さん……」と呼びかけても、とうに事切れている女の返事はない。あまりにも酷い状況で、流す涙も枯れてしまった少女のそばに、勢いの増す炎の赤が反射した人影が動いた。
「待っていて」
「ぇ……?」
「必ず、君を迎えに行くから」
まだ幼さの残る青年の頬が煤に汚れている。
紫黒色の衣を纏った彼がもどかしそうな表情のまま、着ていた上衣を脱いでそっと少女の肩にかけると、手を伸ばして彼女の目元を拭うようなしぐさをしてから、そのまま無言で背を向けて暗闇に紛れて行った。
行かないで、という言葉は音にならないまま急な息苦しさを覚えてもがく。呼吸ができなくなって朦朧とする意識の中で、少女はあることに気づいた。
ああそうだ、これは――
「ッ! は、はぁ……また、夢……」
葉癒は息を荒げながら架子牀の上で目を覚ます。天蓋から覗く光がずいぶんと寝坊したことを知らせ、慌てて靴を履いて身なりを整えた。
* * *
大陸の中央に位置する〈天龍仙国〉。
ここは、神仙・天龍真君が山々を切り開き建国した仙人の国である。
現仙帝・龍鷹陽は、功徳を300善積んだ地仙であり、仙后や仙族――後宮にある四夫人もまた、徳の高い仙人たちだ。
宮廷では官吏や女官のほかに、修士と呼ばれる仙人の卵たちが部隊を組んで国のため様々な務めを果たし、宮廷内では仙帝や仙后に仙族、妃嬪とそれらに仕える宦官や女官たちが多く生活をしている。
葉癒は今年に入廷してすぐ、九嬪のうち正二品・修儀の位に選ばれた。
修士として与えられた仕事は、本来なら出れるはずのない外廷の、とある官吏の下。既にいくつか宮廷の外まで出向いたこともある。
もちろん官吏のお付きとしてだが、他の妃嬪に比べてかなり自由のきいた身分であることは明白で――あまり目立たないようにと官吏の住まう棟と、私室を行き来できる扉を設けてもらった。
これは仙術を用いた陣法で、法力がなければ通ることができず、また記録した法力以外を弾くことができるため、通れるのは配置した官吏と葉癒の二人だけである。
「失礼いたします。おはようございます」
「おはよう小癒! よく眠れたか?」
「はい、お陰様で……」
部屋に入ってすぐ、彼女に声をかけてきたのは宦官の李浩然だ。この棟の持ち主である官吏の部下で、元は没官で内廷に召されたらしいのだが、主に引き抜かれたのだとか。
溌剌としていてよく気が利く性格らしいことは、同じ任を受ける上でだいぶ分かってきた。出自のことも軽い調子で話していたことからあまり気にしていないのか、両親との折り合いが悪かったことも相まり今の仕事の方が断然いいと言う始末。
「主は早朝から兵部の会議に招集されててね。小癒はひとまず、先日の郊外調査の報告書を書き上げてもらえるか?」
「はい、承知しました」
墨を擦り、筆が踊る音だけが響く部屋の中でふと、葉癒は疑問に思っていたことを口にした。
「申赫さまはどうして兵部に呼ばれたのです?」
「あれ、言ってなかったっけ。修士の部隊は〝一応〟兵部の所属でね、定例会議には必ず呼ばれてるんだ」
若い官吏だと思っていたが、彼は相当な地位にいるらしい。
ただの修士ではないと思っていた葉癒だったが、想像よりも偉いお人だと気づいた彼女は持っていた筆を落とさぬように筆置きに預けると、浩然の方を向きもう一度疑問を投げかける。
「上位の方がなぜ、私のような女修士を選んだのですか?」
「小癒……その言い方は良くないな。君は自分が思っている以上に優秀な仙人になれる人材だよ? 主が見逃すわけがない」
「そうでしょうか」
「特に君の御剣は俺だってびっくりした!」
それは、仙術の師が凄い人だからだと、葉癒は言うのを躊躇った。
「君の家のことは知ってるさ。本当は、俺と同じく没官で後宮女官として働かされるところだったのを、とある仙人さまが引き取って育ててくれたってね。とても幸運なことだと思う」
「はい。宗家こそ潰れたものの、私は恵まれていると思います」
あそこでの生活は、それこそ浩然と変わらないと葉癒は感じていた。
――彼女はあの家の本当の娘ではない。赤子の頃に拾われた養子だったのだ。
幼い頃はそれなりにいい待遇を受けていたが、成長するにつれて宗主からいやらしい視線が向けられていることに、当時の少女は気づいていた。
あの夜。まだ未熟な少女を、下衆な笑みをたたえた宗主が強引に部屋まで連れ込み、事に及ぼうと衣を剥いだ、その時。天罰が降ったのだと思った。
「君を後宮という閉鎖された場所に献上したのは、きっと仙人さまの善意だと俺は思うなぁ」
「そうだと、いいのですが」
拭えない腕の感覚に慰めの手を重ねながら、葉癒は窓の外を見る。すると向こう側が騒がしいことに気づいて、少女は法力を使って聞き耳を立てる事にした。
「仙王殿下はどちらか!」
「また何処へ往かれましたか?!」
「仙師である殿下がいなければ、此度の軍議はどう終結するのだ?」
「まあまあ。早朝からお呼び立ててお疲れでしょうし、午後からでも間に合いますでしょ」
会議が終わったのだろうか。ガヤガヤと人が波のように行き交い、宮廷内は途端に騒がしくなる。
衣の色を見るにそこそこ位の高い人たちなのだろうが、品格もなく随分と大股で歩く者もいて、近くを通った女官が形容し難い顔で睨んでいたのを窓越しに見てしまった葉癒の口元が思わず緩む。
そんな人波の合間を縫って棟の門をくぐってきた男に気づいた浩然が、部屋の入り口に立つと寸分違わずきっちり扉を開ける。そこへ滑り込むようにして身を翻した男が、花咲くような微笑みと共に玲瓏な声を響かせた。
「おはよう然然、それから阿癒。いい天気だね」
「おはようございます主。ご機嫌斜めですね」
「おはようございます申赫さま」
「嗯。全く……この僕がいなくてもどうにかなるだろうに」
牀榻に腰掛けた申赫は、ふうと大きなため息をついてから調息を始める。
邪魔をしないように椅子へ座り直した葉癒を見ながら、浩然はお茶の用意をするため席を外すのだった。
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