瘴気の沼
翌早朝、昨日の残りで朝食を済ませると、私たちは先鋭部隊とともに出発することになった。
私と魔装研の面々が合流したことで、騎士団もそれなりの人員を選出したのだろう。
こちらで何かあった時のために、団長は野営地に残ることになり、先鋭の指揮は副団長であるユリウス様がとることになった。
地質調査課のヤンさんも、野営地で瘴気や土壌の解析にあたるそうだ。
「これほど純度の高い瘴気には今までお目にかかったことがありません。実にいい瘴気だ。できることなら胸の奥まで吸い込んで、肺を焼かれてしまいたいくらい素晴らしいものですよ。」
妙にハイテンションなヤンさんは、触ってはいけないものを触ったのだろう。右手の指先は濃い痣のように爪先がどす黒くなっていた。大丈夫なのかな、あれ…。
「気にしないでください。課長がこうなるのはいつものことなので。ちなみに前回の調査では汚染土壌を食べて口の中がただれてました。」
部下のヨナさんが冷静にそう言うので、現場が明るいのはいいことだな、と無理やり前向きに思うことにした。
野営地の中心に、先鋭部隊が集められる。残る人達がその周りをぐるりと取り囲んだ。私とシア様は、ユリウス様とともに輪の中心に入れられてしまいちょっと落ち着かない。
「本日はシア・シュレーダー所長をはじめとする魔総研課長陣と、まれびとリリカ・スダ嬢にも協力を仰いでいる。まれびとの結界効果が確認できたので、最深部へむかって進めるところまで進みたいと思う。異論がある者は?…なければこれより出発とする。」
いつも私と話してくれる時とは違う、ユリウス様の精悍な顔つきと口調になんだか胸が苦しくなる。凛々しいユリウス様も好きだけど、私はやっぱり、はみかみながら笑っているお顔が好きだ。
みんなで、無事に帰ろう。
帰って、ダニエルさんに泣きつかれたり、孤児院に差し入れを持って行ったり、ディミトリウスさんの手伝いもして。あとはワックスサシェの工房の計画もつめなきゃいけないし、披露目の儀も無事に終わらせなくちゃ。
そうしたら、あの小さな小屋の庭先で、ユリウス様とのんびりお茶をするんだ。
私はシア様と一緒の馬に乗って、背筋を伸ばした。
「不思議だ。恐ろしいほど静かですね…。」
この辺りで魔獣の群れに遭遇したというジャンさんは、神妙な面持ちでそう言った。
汚染池沼帯にゆっくりと踏み入れていた瞬間から、森の中の空気が変わるのが私にもわかった。動物や虫の気配が全くないのだ。おまけに無風だから、木々の葉擦れの音もない。まるで私たちが発する音以外はミュートにしてしまったみたいだった。
「かなり離れたところにダークウルフが4頭いるわね。全く動かないところをみると、結界の効果が強いのでしょう。リリカがいてくれて良かったわ。」
シア様は念の為、と指先から炎の槍を出すとダークウルフがいると思われる方向に向かって打った。
「自分は昨日この辺りで息切れがひどかったんですが、今日はラクに歩けてます。このまま一気に進みたいですね。」
ジャンさんは浄化魔法が使えるそうだ。でも、命の危険が及ぶまでは、自分のために使わないという誓約を設けているようで、昨日は散々な目にあったらしい。
一行は昨日調査を進めたところまでくると馬を下りた。
ここから先は、まだ調査の手も入っていない。足元がぬかるんでいるので馬はおいていくしかないみたい。瘴気のせいなのだろう。なんともいえない嫌な臭いがだんだん濃くなっていく。
「リリカ、歩けるか?」
ユリウスさまがそう声をかけてくれて、私は少しほっとした。
「はい。昨日デュカスさんによく寝ろと言われたので!」
「そうか。ここから先はますます苦労をかけることになると思うが、どうかついてきて欲しい。」
ユリウスさまは私の頭をひと撫ですると先頭へ戻っていった。
「あら、あなた達いつの間にいい仲になったのよ。」
乗馬服スタイルに防水ブーツという恰好も素敵なシア様が、ニヤリと笑いながらそう言った。
「…今する話じゃないです。」
「ふふ。じゃあ、帰ってからじっくり聞くことにしましょうか。」
シア様はそれ以上触れることはなく、歩き始めた。ゆっくりと、エスカの森の奥へと隊列は続く。重い荷物を背負った騎士団の人たちの額にも、汗が滲み始めていた。
私が結界の役目をはたして、デュカスさんを初め攻撃魔法が得意な人が、爆破を起こして瘴気のもやを吹き飛ばす。そこで全体が見えてきた沼に向かって、浄化部隊とシア様が瘴気の発生源を消滅させる。
計画に無理はなかった。私の無駄に有り余る魔力をシア様とデュカスさんに流せば、充分に勝てる戦いのように思えた。
だけどなぜだろう。この森に入ってからずっと胸がざわざわする。
肌が露出しないように首元まで覆った服をきているのに、寒い。
それに、怖いほど静かだと言っていたけれど、私にはさっきから何かが聞こえていた。
ごおごおと、遠くで何かが唸るような音。ぼそぼそと誰かがしゃべっているような低い声のような音。
周囲の人がそれを気にするそぶりはない。
もしかして、聞こえているのは私だけ…?だとしたら変に騒がないほうがいいかもしれない。
私はシア様に向かって訪ねた。
「ここまで来ても、本当に何一つ音がしませんね。」
シア様は特別何も思うことはないようで
「本当に。鳥の羽音ひとつくらいしてもいいはずなのにね。」と答えた。
やっぱり。みんなには聞こえていないんだ。異世界から来た私だけが拾える音っていうこと?手が細かく震えるのをなんとか抑えながら、私は黙って歩き続けた。そしてとうとう、先頭の騎士が声をあげた。
「おーい、着いたぞ!ここが発生源だ。」
少しだけ歩みを速めて追いついた私たちが目にしたものは、真っ黒で大きな沼だった。
鬱蒼とした森の中に突如として百メートルプールほどの大きさの穴が開いたのだろう。表面がどろどろの黒い液体と靄で覆われ、あたりには魚を腐らせたような異臭が充満していた。
沼そのものをはっきり目視できたのはこれが初めてで、誰もがその惨状に言葉を失っていた。
地獄の釜のふたが開くとはまさにこのこと…。私は昔祖母から教えてもらったお盆のことを思い出していた。
ただしここから出てくるのは地獄の鬼じゃなくて、どろどろに溶けて充分に形をなしていない魔獣だ。それが再び吸収され、沼は少しずつ大きくなっていっていた。
クライマックスです。もう少しお付き合いいただければと思います。