10.責任者の苦悩
吹奏楽部内の動揺を抑えるために今野は凜に協力を求めるが、その内容を聞いて彼女の平手が頬に飛ぶ。その意味を今野はい理解する事が出来なかった。
「しかしなぁ……」
放課後の教室でサクソフォンを抱きしめて椅子にだらんと座り込む今野はそう呟いてから今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。同じくユーホニアムを抱きしめて彼の横に椅子を置き、心配そうに座りながら様子を見詰める凛は彼を励ます言葉を見付ける事が出来なかった。
前部長の入院、しかも命の保証が確実でないと言う知らせは吹奏楽部部員に予想外の動揺を与え、収拾が付かない状況を齎した。特に麻耶の憔悴ぶりは深刻で、あれから学校にも姿を見せていない。それを含めて部を立て直すと言う重責を担ってしまった新部長の今野の肩は鋼鉄の重りが乗せられた様に重かった。責任者は責任取るために存在するものとは言え、就任早々、大きな問題に直面した彼は只管苦悩するしかなかった。
今はまだ良いが、四月を過ぎて新入部員が入った後迄この状態を引きずる事は許されない、コンクールの為の本格的な練習が始まる迄には状況を回復させなければいけないのだ。それまでの数か月が長いか短いかは人によって感じ方は違うだろうが、今野には一瞬の時間でしかない様に感じられた。
「……あ、あのさ、これは時間に任せるしかないんじゃないか……な…」
その発言はかなり無責任でデリカシーの無い事は重々承知していたのだが凛はぽつんとそう呟いてしまった。しかし、今野からの反応は無い。場は深刻さが深まり耐えがたい気不味い雰囲気に包まれてしまった物だから、言うんじゃなかったと激しく後悔するがそれは後の祭りと言う奴で、このままだと親友と言う関係に罅が入るかもしれないと言う危惧に彼女は苛まれる。それでなくても今は貴重な何でも話せる男友達だからその関係は絶対に壊したくはない。そう思った時、今野は意外なことを話し始める。
「なぁ凜……」
「ん?」
「俺達、友達だよな」
「え、あ、あぁそうだね」
「小学校入学以来、結構親しく付き合って来たよな」
「う、ん……」
「今は女の子になっちゃったけど、これからも男同士に近い関係は変わらないって言う認識で良いよな」
「……も、勿論」
凜に視線を合わせず呟く様にぼそぼそと話す今野の顔をそろそろと覗き込もうとしたその瞬間、彼はがばっと凜に向かって顔を向ける。
「だったら俺と一緒に先生に怒られるとか言う事態は苦にならないよな」
「は?」
「だから、力を貸してくれ、凜!!」
「え、う、うん、まぁ……はい…」
歯切れの悪い返事をしてしまう凜だったが、それにはちょっとした理由が有る。今野の考えや行動は結構ぶっ飛んでいるところが有って、それに何度も巻き込まれた事が有るからだ。言い換えれば行動力が有って、今回部長に指名された理由もその辺に有ったりする。だから教師にも生徒にも評判が悪い訳では無い、学級委員までやっているからリーダーとしての素質に恵まれているという見方も出来る。だが、それゆえに暴走も多い。凜の歯切れの悪さはその辺に由来しているのだ。
「あのな凜、俺、考えたんだけど……」
「うん」
「佐藤先輩と一度直接話してみようかなって思うんだ」
「え?だって、先生はお見舞いには当分く行くなって言ってたじゃん」
「だからさ、問題は多分そこなんだよ」
「そこって?」
今野は息がかかるくらいの距離まで凜の顔に自分の顔を近づける。そして、更に小さな声でぼそぼそと話し出した。
「上っ面を舐めただけの薄っぺらい情報だけが独り歩きしちゃって真実かどうか分からない噂だけが広がってるからみんな動揺してるんだよ」
「それは、うん、まぁそうなんだけど、でも……」
「だから正しい情報を公開する。それでこの騒ぎは治まる筈だ」
「でも、どうやってさ」
「聞くのさ、本人に直接ね」
眉を顰め、あからさまに困った様な表情を作る凜は今野に釣られているのかこれまたぼそぼそと話し出す。
「だから、今、面会謝絶みたいなもんだろう。それに、どうやって病室に行くのさ。先生はクリーンルームの中に居るって言ってたよね、大きな病院の特殊な場所に入るのって結構難しいんだよ」
「そうだよ、そこで凜、お前の出番だ」
「へ?僕の……」
右手の人差し指で凜は自分で自分の顔を指さして見せる。
「凜、お前、佐藤先輩の家に行って、実は私は先輩の事を愛してて心配で心配で仕方がない。だから直接お話させてくれって懇願するんだ!!」
バシッと言う鋭い音と同時に今野の左頬に凜の右手掌が炸裂する。そして顔を真っ赤に染めた彼女の叫び声が教室に響き渡る。
「バ、バッカじゃねぇのかお前、そんな事出来る訳ねぇだろ!!」
女の子らしい言葉遣いが身に付いて定着し始めていたのだが、今の言葉で凜の言葉遣いに男の子が復活する。そして、その激怒具合に今野は思わず怯む。それに冗談でもそんな事が出来る訳が無い、佐藤は凜に告白してその答えを強いたのだ。もしも、御両親の口からでもそんな事が彼に伝わればそれが凜のアンサーになってとんでもない誤解をさせてしまうのは火を見るよりも明らかだ。今野にはすまないがそれだけは出来ない頼みなのだ。
「な、なんでだよ、良いじゃないか少しくらい」
「お前には常識っていう物が無いのか、好きだの嫌いだのは気軽に言う事じゃないだろうが」
「凜は吹奏楽部が大切じゃないのか」
「それとこれは話が別!!」
きっぱりとそう言い切った凜は何か言いたそうな今野の言葉を遮って椅子から立ち上が、りユーホニアムをケースにしまうと譜面台とケースを持って教室から出て行った。
「……り、凜、そんな怒らなくても…男同士に近い友情は変わらないんだろ」
怒りの背景を知らない今野は情けない表情浮かべながらそう言って見たが凜は既に教室にはいなかったからそれは届かぬ呟きになってしまった。凜の協力が得られない事で作戦を根本から考え直さなければならなくなった今野は途方に暮れて定まらない焦点の視線を天井に泳がせる。そして、責任者としての重圧がみしみしと音を立てながら増して行くのをはっきりと実感した。
「……どうすりゃいいんだよ」
呟きは今野の心の声そのままの物だった。




