6.部活復帰
リハビリ期間も無事に終了して凜は本格的に学業に復帰し、部活にも顔を出す。久しぶりに手にするユーホニアムに彼女は心を躍らせる。
ある意味トレーニング期間の一週間はあっという間に過ぎて凜の学校生活は通常業務に移行した。フルに授業を受けるのは流石に少し疲れるが、今迄の遅れを取り戻さないといけないという思いも有ったから、凜は黙々と座学をこなす。ただ、体育の授業に関しては、担任教師と話し合った結果、あと一か月間、見学という事に決まった。ただ、体操着には着替えて動ける様なら動くという条件が付け加えられた。
勿論着替えは女子全員と一緒、何回か行われたが異論も不満も出る事は無かった。ただ、初めての日、下着姿の女子達に囲まれていることに凜の方が少し気恥ずかしく感じたらしく頬を染めてしまった。その事に気が付いた女子達の中に中傷ではない笑顔を見せる者がいた程度だった。
★★★
そしてその日、約三か月ぶりに凜は吹奏楽部の部室を訪れる。扉の前で大きく深呼吸すると、ドアノブに手をかけて少し躊躇しながらゆっくりと扉を開く。その気配に気が付いた部員たちの視線が一斉に向けられる、そして一瞬の沈黙。
扉の前に立つセーラー服姿の凜。凜が女の子になったことは全校生徒集会などで周知され、情報だけは伝わっていたが、部員は学年が違うから実物を始めて見る者が多い。だから、凜の変貌に一瞬言葉が出なかった。想像以上に女の子らしくなっている凜の姿に場の空気が氷る。
しかしそんな物は一瞬で解け去って、再び空気は流れ出す。
「おおおおおおおお、凜、戻って来たか~~~」
アルトサクソフォーンを担当している二年生の小太りで四角い眼鏡に七三訳で見た感じはオタクな今野清が彼女に抱き着いて背中をバンバン叩きながら再開を喜ぶが、その態度を見たクラリネットのパートリーダー、佐久間麻耶がすかさず注意する。
「こら!!今野君、凜君は女の子なんだから男子がいきなり抱き着いたら失礼でしょ!!」
その言葉に今野は大いに焦ってぱっと飛び退く様に離れる。今野と凜はかなり仲が良くてふざけて抱き合ったりしてる事が良く有ったから、その癖が出たのだろう。
「い、いやその凜、そういう訳じゃないから……」
焦りまくるその姿をくすくすと笑いながら見詰める凜は口元に手をやりながらこう言った。
「うん、大丈夫、気にしないから。今まで通りでいいよ」
「……そ、そうか、それにしても凜」
「え?」
「なんか、良いにおいするな」
間髪入れずに麻耶がクラリネットのケースで今野の頭をごつんとどつく。
「だから、セクハラだって言ってるでしょうが!!」
実際問題、化粧水や乳液、ボディクリームや制汗剤等々を使用する様になった凜の体臭は女の子特有のものになりつつあるのだがそれを口に出して言われると少し恥ずかしい物が有る。凜は思わずほんわかと頬を朱に染めた。
「お、凜、帰って来たな!!」
部室の扉を潜るなり、大声でそう叫んだのは吹奏楽部の顧問、吉川淳だった。音楽の教師で細身でオールバックで黒縁眼鏡。専門はオーボエなのだそうだが吹奏楽ではあまり使用しない楽器だからだろうか、それを演奏している姿を見た部員はあまり居ない。繊細な楽器を演奏する割には結構豪快な性格で声が大きいのが特徴の人物だった。
そして、彼も凜の横に立つとばしばしと背中を叩きまくった。男は再会を祝うときには背中を叩く癖が有る者が多いのかも知れない。
「……だから、男が女の子にむやみに触るなっての」
麻耶とその周りにいた女子達が眉を顰めながら吉川に冷たい視線を浴びせる。
「あ、あの、とりあえず、楽器見に行って良いですか?」
凜は背中を摩りながら吉川に尋ねる。
「ああそうだそうだ、今日は楽器の手入れだけして練習には参加しないで帰りなさい。部員達には私から話しておくよ、明日から凜が参加するって」
「あ、そうですか。じゃぁ、そうします」
凜は吉川に向かってぴょこんと一礼すると部室の奥の楽器倉庫に向けて姿を消した。
「……か、可愛くなったねぇ、凜君」
麻耶とクラリネット担当の数人の女子が手を取り合い、中には頬を染めながらちょっと怪しい熱の視線を向ける。
「男子時代も可愛いなぁって思ってたんだけど、女性化するとああなるのね。なんか、このままアイドル歌手にしても通じるんじゃない」
「そうねぇ、でも私は平凡な個人でいて欲しいな。そうすれば気軽に話しかける事も出来るし」
「いずれにしても、戦力が戻って来たのは嬉しい事よね」
「そうね、来年のコンクールは頑張りましょ」
そう言いながら、個人練習のために皆はいつも自分が練習に使っている教室に向けて三々五々散って行った。
★★★
楽器倉庫の中に椅子を持ち込んで、凜は自分がいつも使っていた『ユーフォニアム』のケースを引っ張り出すと蓋を開け、その姿をうっとりと眺める。銀色の四本ピストンで上に三本、側面に一本出ているタイプで、中学生のレベルで使うものだから高級な物では無いが、一般的な家庭の収入から考えればそれなりの値段がする楽器だった。
凜は暫くの間それを眺め続けてから、ケースから取り出し上向きのベルの部分を下にして床に置く。そしてケースの小物入れの中から、手入れに必要なオイルやグリスを取り出して手近にあった台の上にそれらを並べると楽器を抱き起して、バルブを外そうと螺子の部分に手をかけて力を込めて捻る。
「んっ!!」
三か月も放置してしまったせいか固まってしまって中々開かないから楽器を拭くためのクロスで包み、もう一度捻ってみる。すると、するっと螺子は回り、ピストンを取り出す事が出来た。それがなんだか嬉しくて思わず笑みが零れる。そこからは順調に楽器を分解する事が出来て、必要な部分にオイルをさしたりグリスを塗ったりのメンテナンス作業を進め、最後に全体を磨き上げて一通りの作業が終わった。
秋も深まりを見せ、日の入りはかなり早く倉庫の窓から眩しく西日が差し込んでくる。その光が床に置いた楽器に反射してキラキラと幻想的な輝きを見せる。凜はケースの中からマウスピースを取り出すと、唇に当てゆっくりと息を吹き込み温める。本当は楽器の本体に取り付けて音を出したかったが、それをしてしまうとメンテナンスやり直しなので今日はマウスピースだけで我慢する事にした。
息を吹き込んで温まっていくマウスピースは温度が上がっていくにつれて命を吹き返して行く様に感じて心が躍る。これで凜が学校生活で必要な壁をすべてクリアした様に思えた。これから本当の意味で元の生活に戻るのだ。体は変わってしまったが中身は出来るだけ今まで通りに暮らして行こう。凜は息を吹き込みながら明日からの生活について思いを巡らせた。




