前川くんと寿命が見える世界
前川には人の死ぬ時間が分かる。
前川の視界に映る人間は常に頭上に数字を浮かべて生きている。その数字はコチコチと音を鳴らして変動し、大抵は一秒ごとに減っていく。その数字が人の寿命を表すということには、前川は最初から気が付いていた。
幼いころからの技能ではない。ある経験をして、そういう特殊な能力のようなものを授かった。持っていてよかったと思うような場面には、あまり出くわさない。
数字の変動は大体の場合減っていくが、その人が行動を起こすことで増えたりもする。分かりやすい例で言えば薬を飲むだとか、治療を受けるだとか。
机の上に錠剤を並べ、二色はその数を指先で数えている。持病を抱えていると、昼食を共にした最初の席で、薬に目を配る前川に何ということもなくそう言った。その持病がどういった類のものであるか、前川は知らない。まだあまり面識の無かった最初の昼食の席で二色からそう聞かされ、機を逃して今に至るからだ。
「薬、増えたな」
前川は購買の紙パック飲料を吸いながら、二色の数える錠剤に目を落とした。二色は何の気もなく、うん、と答える。
「種類を変えただけなんだけど。重病を患っているように見えてあんまり好ましくはない。錠剤は喉に引っかかるし、まあでも、十年飲んでたらさすがに慣れた」
二色は言いながら薬をてのひらに開けていく。前川は二色の持病の種類を聞くチャンスかと思い、口を開きかけるが、やめた。聞いても前川には分からない。
二色は常温のミネラルウォーターで薬を流し込んだ。前川はその頭上を見遣る。
数字がカタカタと音を立てて増えていく。
二色の寿命はあと一年だ。
二色は線が細く小柄で、大人しくて頭がいい。体育の授業をよく休むが、教師は了解済みで、高校にもなると生徒がそのことを特別騒ぎ立てたりもしない。取り立てて説明がなくとも、二色が病弱であるということは知れるらしい。ただ、顔立ちが可愛いので女子にはよく話しかけられているようだ。
ボールを片付ける前川の横で、二色はスコアボードの前に座りバインダーを手にしている。チャイムは既に鳴った。体育教師はもうここにいない。クラスメイトが二色に声をかけ、スコアボードを片づけ始める。二色は体育館の壇にもたれかかった。
女子二人が二色の元に近寄る。何事か話しかけている。前川はそれを横目に、ボールかごを体育倉庫へしまう。再び出てきた時、二色は一人だった。
二色は人が好いので、病弱でもクラスで特に浮くことが無かった。クラスメイトのほとんどは二色を気遣って行動する。
黒髪を伏せ、二色は手元のバインダーに何か書きつけている。見る限り、もう他の生徒は体育館に居ないようだった。
「二色、行くぞ」
前川は二色に近づいて声をかける。うん、と言いながら二色はちらりとこちらを見た。シャーペンの芯を、紙面に押し付けてしまいこむ。
「告白でもされたか?」
前川は先ほどの女子の姿を思い浮かべて二色を茶化した。
「まさか」
二色は笑いながら頭を振る。
「体育準備室に女子の分の記録も届けてほしいって頼まれただけ。急ぐ用事があるからとかで、時間がないって」
前川は二色の頭上の数字がカチコチ動くのを眺めた。
「大した用事でもないだろうに。お前もあんまり引き受けるなよ」
「僕も大した用事がないから。あとはホームルームだけだし、誰かの役に立てるのは嬉しいし、別にかまわないよ」
二色はバインダーにはさんである紙を何枚か遊びでめくった。「長谷川」とネームシールの貼られたシャーペンをクリップに挟む。二色はしばらくの間黙って前川と並んで歩いていたが、不意に思い出したように、
「告白と言えば」
と口をついた。体育準備室の前だ。二色の手はすでにノックに持ち上がっている。
「前川宛に手紙があるよ」
体育準備室の中から、長谷川教諭の応じる声がした。
女子らしく小細工をされた小さな折り紙を、前川は開く。皺をのしてやると、手のひらより少し大きいくらいの便せんに変わった。
「誰からだ?」
という前川の問いに、
「さあ。うちのクラスじゃないよ」
とだけ二色は答える。三組の女子であったとして、二色が顔を覚えているかどうかは怪しい。
「お前宛の間違いじゃないのか」
「どうしてそう思うんだよ」
「女子から手紙なんかもらったことがない」
「お互い様だ。僕だってもらったことはない」
「お前は直接言うタイプの女に好かれるからだろ」
「じゃあなおさらその手紙は前川宛だ。もしかして自分を過小評価してないか? 君は女の子から手紙をもらったって不自然の無い顔してるよ」
「男に言われてもな」
前川は幾重にも折りたたまれてくしゃくしゃになった手紙の文面に目を落とす。
文面はシンプルだ。放課後にお時間頂けませんか。校門前でお待ちしています。字面は丁寧で、とめはねに気を払っている。少なくとも記録用紙を体育教諭に届けるよりは重要な案件だろう。
「誰から恨みを買っただろう」
「疑り深いな。クラスメイトがからかってると思ってるだろ」
「二色は人がいいからな」
「前川ってそんなにモテないのか? こんな手紙一つにどれほど警戒するんだよ。会ってあげれば」
「二色も来るだろ?」
前川が二色を見上げると、二色はとんでもない、という顔をした。
「人の告白の現場に居合わせたがる人間がいると思う?」
「告白しますよとは書いてないぞ」
「呼び出しの手紙にそんなことを書く馬鹿がいるかよ」
「進んで担がれたくない」
「臆病者。彼女の勇気に応じようという男気はないのか?」
前川は手紙を検めた。どこにも名前がない。
「勇気? 名無しの手紙だぞ。怪しすぎるだろ。二色、隠してることがあるなら全部吐けよ」
「なにもないってば。いいから行けよ、騙されたらその時に怒ればいいだろ」
前川は二色に反論しようと口を開いた。その時、教壇に担任が上がった。二色が前を向いたので、前川はもう反論のしようがなかった。
ホームルームが終わっても、待ち合わせに行く気が起こらず前川は手紙を眺めた。二色は見かねて声を上げる。
「僕がついていったら前川も彼女に会うんだね」
「まあそういうことになる」
「信じられないよ、初めてもらった手紙だっていうのに、そんなに疑うかな」
「なんとでも言えよ」
「お守りをする僕の身にもなってほしい」
二色が行くよと言うので、前川も散々訝しみながら立ち上がった。
「大体どうして名前がないんだよ。宛名も差出人もだ。これじゃ手紙として成立しない」
「全部僕に言付けしたからだろ。証拠として残したくないんじゃないのか」
「やっぱり後ろめたいものが」
「はいはい」
二色は下駄箱から自分の靴を取り出す。前川も倣った。手紙を手に、まだ考えている。
「待ち合わせ場所が校門前なのも変だ。こんなに弱気な文面なのに、告白場所にこんな目立つ場所指定しないだろう」
「まあ、それは確かに」
「……二色、名前だけでも思い出せよ。知り合いかもしれない」
「そんなこと言われてもなあ」
二色は困って眉尻を下げた。基本的に人の名前と顔を覚えない。必要がないからだろうと前川は思っている。
前川と二色は連れだって校門へ歩く。花びらを落とす桜並木を確かめて。生徒たちの吸い込まれる門の手前、寄り掛かって鞄を抱く女生徒の姿が見える。
すとんと落ちた長い黒髪が印象的だ。純日本人というよりは、広義でアジア系の顔立ちをしている。眉がきりっとして、目が大きい。鼻筋が整って高い。門に寄りかかって誰かを待っている。すれ違う生徒が、視線を送っているのが分かった。
とても前川がお相手できるレベルの女ではない。
前川が怖気づいて裏門から帰ろうとするのを察し、二色が前川の制服を掴んだ。
「もう遅い。彼女、気付いてる」
囁く二色に胡散臭い視線を送ると、
「好いた相手の顔なんか、30m先からでも判別つくだろ?」
「どこの世界の常識だそれは」
「背中なんか見せてみろ、女を裏切ったら後が怖いぞ」
「実感こもってるな」
二色が背中を叩いたので、前川も観念した。
彼女の目は特別前川を追っているわけではないように思えたが、二色の目には違って見えるらしい。前川と二色が並んで彼女の前に立つと、彼女はまず二色に視線をやり、それから前川に向いた。反射光のようにすっと通る眼差しだった。色合いが普通の日本人よりも淡い。
こんな現実離れした知り合いは前川にはいない。
「前川薫さんですね」
ほろ苦い、ビターな低音だった。耳をくすぐられる。前川は彼女の頭上に一瞬視線を泳がせた。
「失礼だけど、名前は?」
前川が問うと、彼女の視線は一瞬二色に移った。非難するような眼差しだった。事前にちゃんと二色に名前を伝えてあったのだろう。だが、すぐにこちらに向き直る。
「山賀花枝です。一年二組」
「会ったことあるっけ」
「いえ、一方的に知っているだけです」
山賀の口調には迷いがない。
「俺に何か用事?」
前川は淡々と問う。山賀は前川を見つめ、しばらく黙った。また一瞬二色に視線が移る。何か迷っているのかもしれないが、表情が全く変わらないのでそんな風に見えない。
「お尋ねしたいことがあって」
「うん」
「前川さんには、お兄さんがいらっしゃいますよね? お名前をお聞きしたいのですが」
「なんで?」
「以前、助けていただいたことがあるんです。お礼をしたいんですけど、名前が分からなくて」
「山賀さんの名前を伝えて、感謝していたことを伝えます。それでいいですか?」
前川がそう提案すると、山賀はきゅっと口を引き結んだ。前川は彼女の頭上の数字を注視している。
「前川さんには、付き合っている人がいますか?」
「どっちのこと?」
「……薫さんです」
前川は首を振った。
山賀はそうですか、とだけ呟くと、一礼をして歩き去った。振り向きもしない。前川は何が何だかわからず、その場にただ立ち尽くした。
「……なんだったんだ」
「僕が来たから、告白出来なかったんだよ」
二色が後ろから口を挟む。
「そんな空気だったか? 身内の話持ち出してきたぞ。晶を好いてるんじゃないのか」
「いや、彼女は最初から君狙いだよ。前川と晶さんがいるのをたまたま見かけたことがあるだけだろう。僕の存在に驚いて、動転したから、つい持ち出してしまっただけだ。君とのつながりを持ちたかったのかもしれない」
前川は二色を見下ろした。
「なんでお前は根拠もないのにそんなことを自信満々に言うんだ?」
「僕には、人の気持ちの向く先が分かる特殊能力があるんだよ」
冗談のようなことを飄々と言う。冗談のような能力を持つのは前川のほうだったから、特に何も言い返しはしなかった。
「面白がってるだろう」
ファストフード店のボックス席に腰を落ち着けた前川は、サラダをつつく二色に苦言を呈した。二色は渋面を作る前川をちらと見てから、フォークを繰って手首に巻いたアクセサリーを鳴らす。
「だって面白いじゃないか」
悪気がない。
「人の気持ちの向く先が分かるなら、俺の気持ちが山賀を向いていないことも分かるだろう」
「そうなんだ?」
「そうだよ。あんな顔立ちのいい女、他に漁れる男が幾らでもあるだろう。何で俺なんか」
「自分には見向きもしない男を好く美人は多いよ」
「実感こもってるな」
「そういう子は、自分に見向きもしない男をかぎ分けるのもうまい」
一体どこでどういう経験を積んだのか、レタスを重ねて刺しながら二色は言う。
「僕はそれより、前川の反応が面白いよ」
「なんだよ」
「晶さんの名前が出た途端、妬いただろ」
前川はすぐに答え返すつもりでいて、喉に何か引っかかって言葉を飲み込まざるを得なかった。その間を図星と見て、二色が勝手に笑っている。
「名前ぐらいすぐに言ってあげればよかったのに」
「山賀は晶狙いだろ。将を射んと欲すればまず馬から、だ。馬に期待を持たせるようなやり方は気に食わない」
「ほら妬いてる」
「違う。踏み台にされるのが気に食わないって言ってんだ」
「だから、彼女が狙っているのは君だってば。踏み台にされたのは晶さんのほうだ」
「お前は何をどうしたい? 俺と山賀をくっつけたいのか?」
「それも面白いね。女の子と一緒にいる前川は想像がつかない」
「やっぱり馬鹿にしてるだろ」
「面白がってるだけ」
女に不自由しない童顔の美少年にとっては、前川のこんな迷惑ごともエンターテイメントたりえるらしい。前川は鼻を鳴らした。
「美人が好いてくれてるんだから付き合えばいいじゃない」
他人事だと思って二色はそんなことを言う。
「そんな不義理なことが出来るか」
「そんなんだからモテないんじゃないか? 山賀さんの気質も知らないくせに」
「分かるよ、上品で礼儀正しくて、気が強い」
「悪い子じゃないだろ」
「疲れる」
「疲れたと思った時に別れなよ。それまでは彼女の夢を叶えてあげたら?」
前川は二色を威嚇して睨んだ。二色は気にしない。
「時間は無限じゃない。叶えてあげられる夢なら叶えてあげなよ」
前川は二色の目を見たが、意識は二色の頭上の数字に向いていた。一秒ごとに減っていく。
「いずれ別れるなら付き合わないほうがましだ」
「付き合ってみないと分からないだろ?」
二色の目が面白がっていた。前川は深く息を吐いた。
「お前は女の味方なんだな」
「可愛い子を泣かすのは忍びない」
「じゃあお前が救ってやれよ」
「僕には誰のことも救えないよ」
そんなことを楽しそうに笑って言う。前川はもう何も言えなくなった。
二色と別れ、前川は帰路に着いた。バスに乗り、河を横断する長い橋の前で降りる。バス自体はそのまま前川の自宅付近の停留所にも停まるが、前川は考え事をするときにより長い距離を歩きたい人間だった。風の吹く中、見晴らしのいい場所をしばらく歩く、そういうロケーションに、その橋は恵まれていた。
前川の自宅は河川のそばにある団地の一室だ。バブル期に建てられたせいで他の建物よりも端々がこじゃれて綺麗だが、一方で古臭さもある。
前川は階段を三階分上った。スチール製のドアの鍵穴に鍵を刺し、帰宅する。
晶のスニーカーが玄関に置かれている。今日は休みだったらしい。室内から煙草とコーヒーの香りが漂っている。
前川が部屋の扉を開けると、いるだろうと思ったところに晶はいた。
サイドを刈り上げた髪はつやつやとした黒髪だ。黒縁眼鏡をかけ、ソファの上でハードカバー本に目を落としていた。片手で本を読み、片手に煙草をつまんでいる。手も足も嫌味なほどに長い。夢見がちな女が理想とするような王子様だった。
「ただいま」
前川は晶に一声そう告げて、自分の部屋に鞄を放り投げた。晶からの応答はない。学ランを脱いでハンガーにかけようと振り返ったところで、
「薫君」
捕まった。目の前に晶がいる。
中途半端に手を差し伸べた体勢で前川は固まった。晶の指先が顎を掴んだからだ。そのまま顔が近づいてくる。
「告白されたんだって?」
煙を散らし、耳のそばでそんなことを囁かれる。前川は早くハンガーを取りたいが、晶を邪険にすることも出来ずに固まったままでいる。
「誰から聞いたんだよ」
「聞くまでもないことを聞くね」
二色以外にいるはずがなかった。予想以上の面白がりようだ。
前川はハンガーを取るのをいったん諦めた。
「告白はされてないし、相手の目当ても俺じゃなくて晶だよ」
晶の顔面を手で遠のける。晶は「ふうん」と言った。
「男? 女?」
晶はバイセクシャルだ。
「女だよ」
「美人だった?」
「まあまあ」
「なんだ。連れてきたらよかったのに。可愛い子は大歓迎だ」
「モテる連中の考えてることは分かんねえよ」
晶を押しのけて前川は呆れた声を出した。ラックにかけてあるハンガーを取り、制服をかける。その時にはもう晶は前川の部屋から消えていた。またもとのソファに腰掛け、本を広げ始める。
「薫だってモテないわけじゃないだろう。お前は女を作らないだけだ」
長い脚を組んで座るさまはさながらファッション誌の一ページだ。
「付き合ってしまえよ」
「二色と同じことを言うんだな」
「気立てがよくて美人で、何が不満なんだ? 理想が高すぎやしないか」
「逆だよ。低いんだ」
「じゃあお前はブスで性格が悪いやつとなら喜んで付き合うのか?」
「極端な話をするなよ」
「自分と釣り合う人間というのを、自分の頭の中で勝手に作り上げているんだろう。自分の頭の中にいる妄想と目の前の女を比べてやるなよ。妄想のほうが都合がいいに決まってるだろ」
分かった風に言う。二色と晶のほうがよほど血の繋がりがあるんじゃないかと疑ってしまう。
「彼女が気を持ってるのはあんただよ、色男。助けていただいたことがあるとかって言ってたぞ。山賀花枝、聞き覚えは?」
「ない」
「だろうな。彼女もあんたの名前を覚えていない」
「それで薫の名前は言えたんだろう。なら惚れられてるのは薫のほうだ。もし私に気があるなら、私のことを調べるだろう」
「将を射んと欲すれば」
「疑い深いな。彼女が可哀想だ。手紙をもらったんだろう? 見せてみろよ」
部屋着に着替えた前川は学ランのポケットから手紙を取り出し、晶に渡した。晶はその手紙を広げる。長い指先が、丁寧に紙を操った。何に置いても器用だ。
「丁寧な字だ、よほど気を使ったんだろう。お前な、こんなにきちんと書いた手紙を、馬に渡すと思うか?」
「本当にちゃんと読んでほしい相手になら、封筒を付けるだろ。字が丁寧なのは山賀の性格だ」
「見知らぬ人間からちゃんとした封筒の手紙なんかもらったらかえって萎縮するだろ。あんまり疑ってやるなよ愚弟、間違いなくお前狙いだ」
晶は便箋を元通り丁寧に畳み、前川に押し付けた。
「何を認めたくないんだ。好かれてるんだからもう少し嬉しそうな顔をしろ。美人なんだろ」
「美人だからって誰でも好きになると思うなよ」
「そんなことを思っていそうな子だったから嫌がってんのか」
そういうわけではなかった。前川は口ごもる。晶は髪を掻き上げて、肘掛けに肘をついた。
「好き同士で付き合いたいなら、まず人となりを知れよ。一目ぼれ同士で末永く暮らす確率がどれほどのものか分かってんのか? ありふれてたらラブロマンスの材料になんかならんだろ」
晶は煙草を口に咥え、本を閉じた。
「先に風呂に入れ。夕飯はあっためといてやるから」
前川は何か言ってやろうとしたが、晶を言いくるめる上手い言い方が思い浮かばなかったので、しぶしぶ頷いた。
明朝、前川は一年二組を尋ねた。目的の人物が不在だったので、山賀を知っていると思われる人物に手紙を託す。女子のように器用に紙を折れないから、封筒に差し入れた。宛名、差出人をきちんと書いて、糊付けしてある。女子生徒は曖昧に請け負った。
教室に帰る途中、二色に行き当たった。二色はいつも早く登校してくる。前川が早いのが稀だ。そのため、行き当たった二色は少し驚いた顔をした。
「早いね」
「ちょっと用事があってな」
とたん、二色は口の端を持ち上げた。
「山賀さんだな。告白に応える気になったのかい」
「だから告白はされてない。話をしたいから放課後に時間をくれと言っただけだ」
正しくは、そういう言付けをした、だったが。二色は話を聞いていない。
「山賀さんと前川か、うん、なかなかいいんじゃないかな。でも二人とも堅物っぽいから会話があまり弾まなさそうだ。僕がついていてあげようか」
「お守りはいやだと渋っていたくせに」
「前川こそ、僕がいなくちゃ告白も受けられなかったくせに」
「告白じゃないって言ってるだろ」
そろそろ訂正が面倒になってくる。前川は教室の扉を開いた。
放課後、前川が指定した屋上扉の前に、山賀花枝は静かに佇んで待っていた。昨日見たままの、勝気そうで大人しそうな不思議な雰囲気を纏っている。普段は大人しく、言う時には言うのだろう。前川は待たせたことを彼女に詫びた。
「昨日の手紙にはどういう意図があった?」
二色がその場にいたら目を覆って天を仰ぎそうな出だしで前川は彼女に問うた。山賀は床に下ろし壁に立てかけた鞄を気にするそぶりで、視線を伏せた。揃えた前髪が瞼に軽くかかる。
「言いたいことがあってお呼びたてしました。ご足労おかけして、申し訳なかったと反省してます」
この年頃にしては言葉遣いが古風だ。前川は自分より視線二つほど低い彼女の頭頂部を見つめている。二色と並んだらいい勝負だ。
「その言いたいことを、昨日は口に出来たのか?」
山賀は美しい黒髪を振って否定した。前川はまだ彼女を見下ろしている。
「それをお聞きになりたくて、私はここに呼ばれたのでしょうか」
か細い声で彼女は言った。
「いや。昨日言いそびれたことを、ここで聞きたいと言ったら、聞かせてくれるかと思って」
「……それは」
「山賀さんは、男に好かれる性質だろう」
前川が不躾に言うと、山賀はきっと顔を上げた。
「よく言われます。遊んでいるように見えますか?」
「いや、面立ちが綺麗だと言ってる。俺の友人が、昨日の古風な漫画みたいなシチュエーションを深読みして、彼女は俺に告白したいのだろうと邪推した。それが本当かどうなのか確かめたくて呼んだ」
ここまで言って、前川は深く呼吸した。山賀が話の最中にうつむいて、両手で顔を覆ったからだ。肩が震えている。
前川の表情は変わらない。
「すまない。すごく失礼なことを言っているのだとは思うが、俺はあまり嘘が得意じゃないし、取り繕えない。何か傷付けたなら、この横っ面を引っぱたいてくれ。あなたがそういう意図で言ったんじゃないとすれば、」
そこで前川の言葉が途切れた。頬に触れる手があったからだ。
触れる唇があったせいでもある。
「すきです」
泣き濡れた眼差しが前川を見つめた。前川は自分の心臓を打ち抜かれた気がした。銃弾ではなく、女の平手で。
より正確に言うならば、打ち抜くのではなく、どん、と押されたような気になった。
「そうか」
山賀の両目からはらはらと涙がこぼれていく。前川は女の涙を見慣れていた。彼女はしばらく、前川と対峙して引かぬ自分を見せつけるように凛として顔を上げていたが、やがて花のしおれるように顔を伏せた。しゃくりあげる声が聞こえ、これ以上は、とだけ言う。震えた声だった。
「応えてもいいか?」
前川は言った。意味が分からなかったのか、言葉を喋れないのか、山賀は泣きじゃくるばかりで反応しなかった。強そうな女に見えたが、そうでもないのかもしれない。
付き合ってみなければわからないこともある。
前川は先ほど自分がそうされたように、山賀の頬に触れた。気付いた山賀が顔から両手を取り払うのを待って、触れているのと反対の頬に口付けた。山賀が目を見開くのが至近距離で分かる。
山賀が口付けて泣けば、落ちる男は山ほどいるだろうと思った。
その内の一人になってみようかという気になった。
山賀を家まで送り届けることが前川の最初の務めになった。泣きはらした彼女の顔が往来であまり目立たないまでになってから、彼女と連れ立って学校を後にした。泣きはらした美人は腫れぼったくても愛嬌があり、道行く人の目を惹いた。むろん、泣く女とともに歩く前川には得も言われぬ視線が向けられる。
山賀の家は一軒家だった。前川の家がある方向とは反対側で、高校へは自転車通学で足りるだろうという程度の距離があった。山賀はいつも徒歩で通っていると言う。
「歩くのが好きなの」
その点においては前川も同意見だった。
山賀は足も手もすらりと長い美人で、制服のスカートを折らずに履いて膝を覗かせている。女性にしては背が高いほうなのだろう。彼女は家の門を開けると、こちらを振り向いた。セーラー服の襟にすとんと黒髪が落ち、黒髪は肩から緩やかに彼女の身体を這った。
「今日はありがとうございました、前川さん」
「俺はあまり女慣れしてないけど、いいのか」
「慣れてる人なんて、信用できないわ」
彼女は微笑んだ。山賀の微笑みを初めて見たと思った。百合を摘んだ時のような、柔和な解け方をする。ミルク色の白い手が、前川との間に門を立てる。彼女はそのままそこで一礼した。
「明日の朝、迎えに来る」
前川は言う。
「至れり尽くせりですね」
山賀は腫れた目で笑った。
「楽しみにしてます」
彼女は自宅の扉を開いて、そのまま消えた。
「女の匂いがする」
帰宅早々に言うのは、ソファに座ってコーヒーを飲んでいる晶だ。コーヒーと煙草の香りの充満する室内に、山賀の香りの残滓など漂うはずがない。
「気のせいだ」
前川が言うのを、晶は気にしない。
「付き合うことにしたのか」
「どこ情報なんだよ。二色は先に帰ったはずだ」
「カマかけっていう話術があるんだが」
前川は舌打ちをしたくなった。
「プライベートなんてあってないようなもんだな」
「弟のことだ、何でも分かるさ」
晶の今日の供は新聞紙だった。ぱさぱさと音を鳴らしながら一枚をめくる。
「二色君と私の忠告を受け入れたんだな」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ単純に好いたのか。山賀花枝という人物にお目にかかりたいな。薫を籠絡するとはどんな手段を使ったんだ」
「あんたは俺に恋人を作ってほしいのか、ほしくないのか?」
弟が苦虫をかみつぶした顔でそう言うのに、晶は明るい笑い声を上げた。
「そう怒るなよ。手法を聞きたいと思っただけだ」
「聞いてどうする」
「そうだな、何かの参考にしよう」
「晶が泣き落としを? 想像がつかない」
「泣き落とし? また古風な方法に釣られたな」
晶がにやりと笑うのに、前川はもう反応しない。
「そうだな、薫は頭が少し古いからそういう方法は効くかもしれない。山賀花枝か、一度会ってみようかな」
「話をややこしくするなよ」
「弟の彼女を寝取る趣味はないよ」
どうだかしれない。前川は晶の座るソファに同じく腰かけた。
晶は新聞を畳んだ。前川は晶から視線を感じたが、あえて無視した。晶はソファの座面に手を着き、長い手をこちらに伸ばしてきた。
手も足も長い。山賀に似ている。
いや、山賀が晶に似ているのだ。何故かそう思った。
「一度連れて来いよ」
晶は前川の髪に触れ、それを前川の耳にかけた。
「からかうつもりか?」
「大いにその通りだが、弟の彼女が見たい気持ちもある」
「付き合って一日も経ってない」
「私が見定めてやろう」
「いいよ、子供じゃない」
「本当にいい女なら、薫の手に余る」
前川は思わず半目になって晶を眺めた。
「そんな趣味はないんじゃなかったか?」
「寝取りはしないさ。味見はするけど」
「同じだ」
「彼女は私に興味を持っていたんだろう? 連れて来いよ。お前よりは女が何を考えているのかに詳しい。内情を教えてやる」
晶は珍しく山賀に興味を持っている。二色と同じで面白いことに目がないのだ。前川はこれ以上晶をかわすのは上手くないと思い、しぶしぶ条件を飲んだ。
「俺はあんたと違って、女を誘う手だてなんか知らないから、急に家に誘って断られたらその時は諦めろよ」
「相手がお前なら、承知するだろうよ」
「なんで」
「女を襲う顔をしてないからさ」
「褒めてるのか?」
晶はにやにや笑う。
「褒めているとも」
明朝、彼女の家まで迎えに行った前川が昨夜の顛末を話すと、山賀は思いのほか気乗りの様子で承知した。
「行ってみたいです」
晶の容姿を見ているからだろうと前川は思う。好奇心があるのだ。晶は女にも男にも言い寄られる容姿をしている。彼女を晶に取られたら自分はどう思うだろうかと想像し、まだあまり興味を持っていないからそこまで傷つきはしないが、腹立たしくはなるだろうと思った。
山賀の髪は細く、艶がある。
前川は彼女を学校まで送るために、本当に珍しく早起きをした。山賀は最初に会った時より幾分和らいだ雰囲気で隣を歩いている。
美人が横を歩くおかげで、普段は注目もされない前川は芸能人のような気分を味わう。自覚しているが顔がいいほうではないから、噂が立つとしたら前川の悪評か山賀の趣味の悪さだろう。明らかに釣り合っていないことは、友人にも血縁にも「鈍い」と言われる前川でも分かった。
それでも、連れ添う美女は楽しそうなのだ。
「どうして俺を好いてるんだ?」
前川は思わずそう口にした。山賀はくすくすと笑う。笑い含みの声で、だって、と前置きをして、
「前川さんは、私に興味がないでしょう?」
二色の方角を崇めようかという気持ちになった。
前川と山賀のことはすでに二色の耳に入っていた。交友関係がやたらに広い男だから不思議はない。やたらに広い割に、一向に覚えようとしないのだが。
「家まで送り迎えしてるんだって?」
二色がなんと言って声をかけてくるか、数パターン予想していたうちのひとつを言いながら、二色は前川の前の席に座った。
「からかいに来たな」
「からかうというか、意外だなと思って」
「普通の男はそうするものだろ」
「前川は山賀さんに興味がないだろう?」
二色も山賀も、前川の何を知っているというのだろう。と、考えているのが顔面に素直に表れてしまった。二色はおかしそうに笑った。
「まあ、前川が真面目な男だっていうことは知ってるから、それくらいはしても不思議じゃないか。今朝は教室までちゃんと送り届けたんだってね」
「見物人が山ほどいて居心地が悪かった」
「本当にそんなことを気にしてるなら、教室まで送り届けはしないだろ。有名人気分を味わった感想は?」
「そのうち誰かに刺されそうな気がする」
真実味があるねと言って二色はまた笑った。笑い事ではない。
「今日は放課後どうするの? また送っていくのかい」
「いや、今日は家に呼ぶ」
二色が目を見張った。
「前川にしては積極的だ」
「俺の提案じゃない。晶が山賀を家に呼びたがってる」
「なんだ、そっちなら納得だ」
前川の机に肘を置いて、二色は息を吐く。
「山賀さんの了解は得てるってことだよね」
「そうなるな」
「彼女も彼女だな。普通昨日の今日で男の家に行かないよ」
「俺も断られるかと思った。案外男に見られていないのかもしれない」
二色は前川の顔色を窺った。前川は見られているのに気づいて、なんだ、と眉をひそめる。二色も顔を歪めた。
「興味がないのは分かるけど、もう少し残念そうな顔をしたらどう?」
「興味がないとは言ってない」
「どこまで行ったの?」
「俺の顔が女を襲う顔に見えるか?」
「いや、全然」
可愛い顔で二色は即答した。
スチールの扉を開くと、ストライプのシャツをさっぱりと着こなした晶が出迎えた。
「やあ、いらっしゃい」
心の中がどうかはともかく、表向き歓迎するそぶりで晶は笑っている。山賀がぺこりと頭を下げ、前川はその後ろに続いた。
彼女の細い手を晶は握り、ごく自然に腰を抱いた。靴を脱いだ彼女は驚いたように目を見開き、それから前川に視線を投げた。助け舟を求める眼差しに、前川は応じる。
「昨日俺が言ったことを覚えているか?」
「紳士的に振る舞うさ。女の子に嫌われると心が砕ける」
よく言うよ、と前川が口先で呟いたところで、晶は彼女の腰を抱くのをやめた。壊れ物を扱うそぶりで彼女を居間へと案内する。当然だが、女を扱う手つきは前川のそれよりずっと自然で美しい。
前川も続いて部屋の中に入る。美意識の高い晶が整頓するおかげで、前川の部屋以外はいつでも人を招ける状態になっている。前川の部屋の扉はぴしゃりと閉められていた。
「何か嫌いな飲み物はあるかな」
丁重な仕草で山賀をソファに沈めると、晶は翻って冷蔵庫へ向かった。体重を感じさせない軽い動き方をする。山賀はまだ戸惑っている様子だ。
「山賀さん、遠慮をすることはない。女性に働かされるのが至上の悦びなんだ、そいつは」
前川が助け舟を出すと困り顔の山賀が振り返る。言いたいときには言うタイプだと思っていたのだが、知らない人の前では案外弱いのかもしれない。
「彼女はまだ私を詳しく知らないから無理もない」
晶が冷蔵庫から箱を取り出した。ケーキの箱だろう。骨ばった手に抱えられたそれはまっすぐに山賀の前へと差し出された。
「あの、」
「君が山賀花枝さんだね。弟から話は聞いているよ。どうやら私に興味がおありだそうで。何を知りたい? 身長体重年齢、君ぐらいの年頃だとそろそろ相手の年収辺りも気になってくるのかな。いや、恋人の有無が先かな。あいにくと恋人は男女合わせて両の指じゃ足りないくらいいる、君がその輪の中に入ってもいいと思うのなら、私としては歓迎するよ」
「晶、粗相をするなよ」
呆れた前川が自分の分の茶を用意していると、薫、と犬でも呼ぶように名前を呼ばれた。思わず振り向いた前川へ、ぞんざいに小銭が投げられる。
「なに、」
前川は小銭を残らずキャッチした。小銭入れの中身を適当にとってバラまいたようなちぐはぐな金額だった。困惑して晶に視線を戻すと、晶は山賀の背を抱くすれすれの場所でソファをつかみ、こちらに視線をくれている。
「あいにく飲み物を切らしている。買って来い」
「何で俺が」
彼女用のケーキまで用意している周到な晶が、菓子に不可欠な茶をうっかり用意し忘れることなどあり得ない。前川が含みのある視線を投げると、晶も何かを含んだ眼差しで弟を眺め、にやりと笑った。
「山賀さんは私と話したいとお望みだ。お前、お客さんにまさか水道水でも飲んでろなどと言わないだろう?」
「麦茶がある」
自分の手に持っている水出しのボトルを掲げ、前川は主張した。それを晶は鼻で笑った。
「紅茶を買って来い。暖かいものを淹れる。歓迎の意を示せよ愚弟、おもてなしが必要だ」
きちんとした茶葉を扱う店まで行くのに小一時間かかることを承知で、晶はこんなことを言っている。小一時間も山賀と晶をこの部屋に残しておいて、何もないだろうと考えるほど前川は愚かではない。
「話が違う」
「何も違わないさ。彼女の前で野暮な話をさせるなよ」
話の見えていない山賀が対応に困っている。前川は山賀を眺め、それから晶に目を移す。
「あの、私、別に麦茶でも」
「ほら薫、早く。客人に気を使わせるなよ」
そう言って晶はこちらに責任転嫁してくる。そもそもは晶のせいだというのに。
こうなったらもう晶は引かない。分かっていて、それでも前川は山賀を見る。どうすべきかを考えている。
考えをまとめるために散歩をしたくなってきたから、始末に負えない。
手の中の小銭では、茶葉を買うのに心もとなかった。足りない分は前川の財布から出ることになるだろう。早く行かないと、茶葉を扱う店の閉店が近づく。
前川は山賀を見た。
時間がない。
「山賀さんに触れるなよ」
前川は晶に念を押した。晶はにやにやと笑っている。
「いいだろう」
「猥談もなしだ。口説くな」
「条件が多いな。それ以外の何を喋れば?」
「明日の天気の話でもしてろ。晶ならそれで一時間は余裕だ」
「評価されてると受け取ろう」
「いいか、絶対に失礼な真似をするなよ」
前川は小銭を握り、晶に釘を刺す。
「私がいつ失礼な真似をした?」
心外だという顔をする晶を無視し、前川は山賀に視線を戻す。
「本当に申し訳ないけど、腹立たしい奴にハメられたせいで、出かけることになった。危険を感じたらすぐに人を呼んでくれ」
「薫、そういう時は、『俺を』呼んでくれと言うものだよ」
無視する。
「こんな見た目と言動しているが言うほど非常識じゃない。(光栄だね、と晶が合いの手を入れる。無視する)出来るだけすぐに帰ってくるつもりでいるから、なるべくこの家の中にいてほしい」
私が最愛の弟を置いて彼女とどこかへ行くとでも? と晶の声が聞こえるが、最後まで聞かずに外へ飛び出した。
「非礼を詫びようか」
前川が扉を開いて出て行った音を聞いた途端、晶がスイッチを切り替えでもしたようにそんなことを言うので、山賀は驚いた。
馴れ馴れしく寄せていた身体を離し、ソファから立ち上がる。紅茶にこだわりは、と言われたので、首をかしげる。特にありません、と答えると、晶は食器戸棚から魔法のように紅茶の缶を取り出した。
「結婚式の引き出物やら、出産の祝いものやらでやたらに余っているんだよ。私も弟も甘いものを進んで食べる性質ではないから、紅茶がなかなか減らなくて困る。こんなものでもいいなら淹れるけど」
と言いながら晶はすでに湯を沸かし始めている。山賀は困惑しつつも、かまいません、と答えた。
「あの、でも、今前川さんが」
「どういうことかに気付かないほど、頭が悪いわけではないだろう。私としてもケーキをあまり放置しておきたくないんだよ。せっかく可愛らしい女の子とお茶をする機会に恵まれたんだし、無碍にするには惜しい」
晶は長い脚を組んでキッチンに寄りかかる。手も足も指先も細いが、頼りない感じはしない。背が高いからだろうか。洗練されて綺麗だ。弟と似てないんだなと頭の片隅で思った。
じっと観察するように眺める山賀に気付いたか、晶は肩をすくめて笑う。
「山賀さんは、明日の天気の話を聞きたいかな?」
きざな仕草が異様に似合う人だ。山賀は首を横に振った。
「お兄さんは、男性も女性も、お好きなんですか?」
礼を欠くかとは思いつつ、山賀はそう口にする。先ほどの戯れのような口上を覚えていた。晶はシンクに手を滑らせた。
「晶でいいよ。好きというか、言い寄られるのが得意かな。男も女も等しく可愛いよ。美しいものが好きだ」
「晶さんご自身も、すごくお綺麗ですね」
純粋に思うので山賀はそう口にする。晶は優しく笑った。
「乗り替えるなら今だよ」
少なくとも冗談の眼差しではなかった。気圧されつつ首を振る。それは残念だ、とちっとも思っていないだろう声が聞こえる。
「山賀さんは私のことを気持ち悪いと思わないのかな」
「どうして?」
「どうしてとくるか……同性を好くからさ。普通は異常だ」
「異性を好くものが全員正常とは限りません」
山賀が思ったことを口に出すと、初めて晶が目を見開いた。推察するに、あっけにとられたのだと思う。だがそれも一瞬だった。すぐに口元に笑みが浮き、それをこらえるようにして口元に手が当たる。ふふ、とこらえきれず声が漏れるのを山賀は聞き逃さない。
「いや、失礼。ふふ……、なるほどね。たしかに。裏を返せば、ということになるのか。目から鱗だ。一本取られたな」
それだけ言って、晶は肩を震わせる。まだ笑っているようだった。
しゅんしゅん、とケトルから音がしている。
晶は笑いを滲ませながらコンロの火を落とす。ティーポットに熱湯を注ぎ蓋をして、二人分のカップに少量湯を入れ、あたためる。
「もっと素直に言うならば、」と山賀は笑いを含む晶に言い募る。
「うん?」
「羨ましいです」
やはり思ったままを伝えた。
「男の人も女の人も好きでいられて。何でも手に出来そうで」
晶はカップの中のお湯を捨てた。
蒸らした茶葉を確認すると静かに紅茶をカップに注ぐ。あたたかいそれをトレイに乗せて、砂糖の小瓶とミルクの容れ物をそばに置いた。
「手に入らないものもあるよ」
ケーキを用意して、紅茶を用意して、フォークを添えて、晶はついでのように呟いた。
山賀は答えを求めて見る。晶はその眼差しに応えて、にっこりと笑った。
「君には教えてあげない」
小一時間をかけて店から自宅へ走った前川は、食卓に並ぶ紅茶のカップと食べ終えたケーキの皿を見た。
「……」
もはや何を口に出していいか分からなかった。立ち尽くしたまま呆然とする前川に、山賀がおずおずと謝ってくる。山賀に非はない。それが分かっている。前川は晶を振り向いた。
「……俺が今感じているものの一端をお前に伝えられたらどんなにすっとするだろう」
晶はお茶請けの焼き菓子を頓着なく食べている。
「悪いな、うちに茶葉があったのをついさっき思い出したんだ。そう怒るなよ。せっかく買ってきてくれたことだし、お前にはその茶葉で淹れてやるから」
「誰が飲むか」
前川は怒りをぶつけようとして買ってきた品物を振り上げたが、よくよく考えれば茶葉にも非はない。振り上げたまましばらくまた葛藤し、それから力なく項垂れた。
「前川さん」
「放っておきなよ、花枝ちゃん。弟は百面相が持ちネタなんだ」
「……花枝ちゃん?」
これ以上反応するネタがあることに前川は驚く。
「いつの間に手を出した」
「お前の頭の中じゃ、名前を呼んだだけで関係を持ったということになるのか?」
「触れるなと言っただろう」
「触れなかったさ。口説きもしなかった。猥談なんかもってのほかだ。褒めろ」
「嘘を吐けよ」
「疑い深い奴だな。花枝ちゃんに聞いてみろよ」
「花枝ちゃんって呼ぶな」
「安い嫉妬だな。男なら受け止めろよ。私と二人にして何もないと思うお前がおかしい」
「山賀さん、何をされた」
埒が明かないと判断して前川は当人に聞く。山賀は困ったような笑みを浮かべていて、何もされていませんとだけ言った。とても信じられない。
「帰ろう。送る」
前川はそう言って茶葉を置いた。彼女の荷物を代わりに持ってやる。
「前川さん、あの、私本当に何も」
「本当は今日は泊めるつもりだったんだが」
なだめようとする山賀の言葉を切って前川がそう口にすると、山賀が硬直し、晶が口笛を吹いた。古風なのはどっちだ。
「晶がいるんじゃ、違う意味で危ない」
「どういう意味で危ないのかな、詳しく聞かせてほしいな」
「送っていく。行こう、山賀さん」
茶々を入れる晶に付き合う心の余裕は前川には残っていなかった。完全に外に出る気の前川を押しとどめる理由と正当な動機を、客人である山賀は持たない。晶におずおずと視線をやりながら、山賀は荷物をまとめる。
「ケーキ美味しかったね、花枝ちゃん」
晶だけがまるで悪びれる様子無く、そう言って山賀に微笑みかけた。
時刻は八時を回っていた。女性が帰宅するのに、危険なわけでもないが、安全とも言い切れない時間である。空はもうとっぷりと暗く、アパートやマンションだらけの住宅街には人けがない。
猫の額ほどの庭に植わる窮屈そうな木々の間に滲む闇を眺めながら、山賀と前川は歩いた。前川は周囲の闇をそれとなく見回している。
「もう気付いていると思うけど、」
隣に並ぶ山賀が大人しくしているのを、居心地の悪さだと鈍いなりに判断して、前川は口を開く。
「晶は女性だ」
山賀からは大きなリアクションが返ってこない。薄々勘付いていたのだろう。
「晶狙いに近付いたんだったら、残念だったとしか言えない」
「私が晶さんを狙っていると、一言でも言いましたか?」
「最初はそう疑ってた。今はそうでもないけど」
遠くで犬の吠える声がする。八時だというのにこれほどに人けがないのは、住宅地だからと、栄えた商店が近くにないせいだ。ド田舎というほどでもない土地には、帯にも襷にも持て余すような場所にショッピングセンターが点在する。先ほど前川が走ったのは、こういう住宅地でなぜか生き残る一店の紅茶専門店だった。
「いいお姉さんですね」
山賀が呟く。前川は頷いた。
「節操はないし、性格も悪いが、その点については同意する」
「否定するかと思いました」
「自分で稼いで自分で自立して俺の身辺の世話までする。立派な人だ」
前川には両親があったが、母親はすでに故人だ。父の仕事は姉弟と生活のリズムが合わない。もう子供とは言えない年齢の二人の子を持つ父は、特別無関心というほどではないが子供たちの生活に特に干渉しなかった。家には休むために帰る人で、晶も前川もその父を邪魔しない。たまに帰宅が重なればお茶の一杯でも出す。日常に何気なく残る父親の生活の欠片を、整頓好きな晶が片づけ、また父に返していく。前川家で一番働いているのは父だが、家族を回転させているという意味では晶が大黒柱だった。
やることはやっている姉だということを前川は承知している。だから彼女の恋愛の動向についてとやかく言わなかった。彼女が見知らぬ人から「男」だと思われるのを好むのも、特に異常なことだとは思わない。
山賀は不意に前川の服の裾を引いた。気付いて前川が振り返ると、背伸びをした山賀が寄り掛かってくる。前川はなんてことなく、山賀の唇を自分の手で塞いだ。
山賀は前川を上目遣いに見上げた。無意識だが、分かっていてやっているのだろう。
「悪い、忘れ物を思い出した」
「前川さん」
彼女の唇を自分の手から開放し、前川は山賀と歩んできた道を遡ろうとする。追いすがる山賀の手を、やはりかわした。
「すぐに追いつく」
それだけ告げて彼女を置き去りにした。暗がりの中に山賀の不安な眼差しが残される。
前川は自宅に戻ることはしなかった。ただ、心の中で時間を数えていた。暗がりの中で山賀を観察する。立派な不審者である。
彼女は前川の消えた方角をしばらく眺めていたが、やがて途方に暮れ、最寄りの街灯のそばで足を止めた。そこに寄りかかって前川を待つつもりだ。こんな人けのない住宅街のスポットライトの下で山賀のような容姿に恵まれた少女が人待ちをしていたら、不審者でなくとも声をかけたくなるだろう。
前川はまだ時間を数えている。残り一分を切ったところで、山賀の死角から彼女へと近づき始めた。前川の体内時計がそれから三十秒を数えたところで、物音がした。
前川はまだ彼女の元にたどり着いていなかった。だが、彼女は何者かを目撃して声を失くす。黒づくめの男で、黒いキャップを目深にかぶっていた。通報してくださいと言わんばかりの怪しげな風貌だった。その風貌に説得力を増すように、右手に刃物を握っている。
それを躊躇なく女に突き出す。
その段になって前川が山賀に追いついた。まず男に背を向けて、それから男に左腕を捧げた。刃物は前川の上腕に吸い込まれるように突き刺さる。処理能力の限界を超えて呆然とした山賀の眼差しが見える。
刃先は前川の上腕を貫き、そこで止まった。山賀に届かない。
刃物から男の感情の動きが読み取れた。刺した腕から刃を抜こうか抜くまいか、そんな一瞬の躊躇が腕の筋肉の緊張で伝わってくる。
その点、前川は躊躇しなかった。刃物が刺さったまま男を思い切り振り返る。その時にはもう拳を固く握っていた。
肉を打つ感触があった。
無防備に前川の渾身の一撃を食らった男は、もんどりうって地面に伏した。前川は山賀の前に立ちふさがって、男の次の行動を見守ったが、頭を激しく揺らされたためか起き上がっては来ない。
それだけ確認して山賀を振り返った。
彼女の頭上の数字が音を立ててその桁を増していくのが分かった。前川は悟られないようにそっと息を吐く。
「山賀さん、警察に電話して」
「え、……え、あの」
「それと救急車も呼んでくれると嬉しい。晶に電話するのは出来れば後で……」
混乱する山賀に自分のスマホを投げてよこす。ようやく心音が働き出した。
「何ともない顔をしているように見えるだろうが、これでも一応重傷人だ。手早く頼む。この男も、いつ起き上がってくるか……」
心音が迫ってきて前川は膝を着いた。左腕が疼く感じがする。
山賀が駆け寄ろうとするが、前川はそれを制した。
「……言い忘れてたことがある。俺には好きな人がいて、その好きな人の為に一生を捧げるつもりでいるから、山賀さんとは付き合えない」
こんな状況で何を言っているのだろう。山賀も混乱しながら前川の言葉を聞いている。
「最初から付き合うつもりがなかった。でも、俺と一緒にいると数字が変動したんだ。あなたの生死に俺が関わっている以上、なんとかしなきゃいけないと思って」
山賀は前川のスマホで電話をかけ始めた。それを横目に、細かく息を吐きながら前川はまだ言葉を紡いでいる。
「……性悪と思うならそれでいい。俺も同意見だ」
そこで意識が途切れた。
前川には出会った当初から山賀の寿命が分かっていた。彼女は前川と最初に会った次の日に寿命が尽きるようだった。そういう人間に前川はいくらでも出会ったことがある。
人の寿命を視る能力があって得したことなどほとんどなかった。人を救えた試しもない。人を救って自分の心が補えるような図太い神経をしていなかった。
ではなぜ山賀を救ったのかと問われれば、前川は閉口するだろう。
前川は暗がりの中にいる夢を見る。狭いクローゼットの中で呼吸を殺している。彼はその場所に心当たりがあった。自分の家ではない。前川の家にはフリル付きのスカートを大切にしまい込む人種は存在しない。人の家だ。馴染まない特有の生活臭が胸を焼くようだった。
少しだけ開いたクローゼットの扉から声がする。呼吸を殺し、前川はその隙間から一部始終を眺めている。
ほんの微かな隙間から見える人間の頭上には、等しく数字が浮かんでいた。その数字は激しく変動し、急に減ったり、急に増えたりした。これは前川が最初に人間の寿命を可視化したシーンだった。
前川はやがてここにいる人間が全員死に絶えることを知っている。
屋上扉の前に、うずくまって座る少女の影がある。
長い黒髪は肩から落ちて床を這っていた。膝を抱え、その上に腕を組み、そこに顔を伏せている。放課後のこの時間に特別棟の屋上まで登ってくる物好きはおらず、いたとしても彼女の醸し出す得も言われぬ空気に、無言で引き返すこと請け合いだ。
二色は構わずに割って入った。
二色が隣に座ったことを山賀も気付いているだろうが、彼女は顔を上げなかった。
前川はまだ学校に姿を見せない。
「お見舞いでも行って来たらどうかな」
二色は階段の手すりの剥げかけた塗装を眺めながらそう言った。彼女は顔を上げない。何故ここに座り込んでいるのか、二色には分かるようでわからない。
「振られた女が、振った男のお見舞いに行けると思う?」
山賀は砕けた調子でそう言った。二色はたしかに、と頷いて黙った。階下から時たま、教諭のスリッパの音と生徒の上靴の擦れる音が聞こえてくる。
「なにしにきたの」
「慰めに」
山賀はそこで初めて二色を見た。長い前髪が顔を覆う隙間から、優しい笑顔が見える。
「あなたが私と付き合ってくれるの?」
二色も優しく笑った。
「君は僕に興味がないだろ?」
山賀はふふっと声を出して笑った。
「前川は諦めなよ。以前から好いている人がいるんだ」
「そう言って振られたわ」
「そう。あいつもなかなか難しい恋愛をしてる。見た通りの頑固な奴だから、好く人を変えはしないと思うよ。叶わないと分かっていてもね」
二色は座り込んだ自分の膝を抱えた。睫毛を伏せた山賀に、悪戯を持ちかけるように笑う。
「前川のような男を好くぐらいなら僕を好いたらいいよ。僕は人の顔を覚えないし人の名前を覚えないけど、そういう男は間男にぴったりだ」
「口説いてるの?」
「暇ならお茶でも?」
山賀は緩やかに首を振った。だが、少し考えるようにして動きを止める。二色は彼女に構わず立ち上がった。彼女を見下ろす二色に、やがて、山賀はそっと手を差し伸べた。
「今日だけ、付き合ってくれる?」
山賀は二色に敬語を使わなかった。山賀のほうが一年下級だ。だが、二色は承知した。
「間男らしい働きをしてみせるよ」
山賀の手を取り、引き上げる。体重の無いようにふわりと彼女が立ち上がった。そのまま、二色を伴って階段へ歩き出す。踊るようにセーラー服を翻して。
山賀の黒髪が光を引き連れて揺れた。
「犯人は逮捕されたらしい」
手元の林檎で暇つぶしにバラを象りながら、晶が思い出したようにそんなことを言った。前川はその声で目を覚ました。見慣れない部屋だ。腕に繋がった点滴で病室だと分かった。
「温厚だと思ったら突然怪我をするな、薫は」
晶は自らの象ったバラを丸ごと呑み込むようにして、林檎をかじった。どこからどう見ても男にしか見えない顔立ちをしていて、身体も薄い。晶は胸を削っていた。
「通報は花枝ちゃんがしてくれた。悪漢を残して意識を失うなんて、お前らしくないな。もっと上手くやれなかったのか」
「精一杯やったつもりだよ」
左上腕に包帯が巻かれていた。晶はそれを横目にしている。
「しばらくはまともに動かせると思うなよ。刺さり方と、刺さった後の対応がめちゃくちゃだったせいで、傷口が荒れているそうだ」
晶は上向いた前川の左手の中に林檎を落とす。
「あまり心配かけるな。それから、女の子を泣かすな」
「山賀さんは」
「思い出したんだが、彼女、以前電車で痴漢に遭っていたな。居合わせたぞ。もちろん、お前もだ。その当時からお前のことを見ていたらしい。女の子はそういう場所に居合わせて、自分を救ってくれた王子様に弱い」
「覚えてない」
「そうだろうな。私も忘れてた。可愛い子なら覚えているはずなのにな」
晶は席を立った。
「振ったらしいな」
「……最初から興味が無かった」
「興味がない奴をわざわざ送迎する性格じゃないだろう」
前川に奇特な能力があることは、晶にも二色にも言っていない。前川の能力はいつだって不確かだ。人間の寿命が不確かなせいで。
前川が関わって、山賀の寿命が延びたのは事実だ。だが、それは前川と彼女が付き合うことが最善の道だということを示さない。山賀は昨夜、悪漢に殺される予定だったのを前川に助けられ、寿命は飛躍的に伸びた。
その後前川が彼女を振っても、寿命の値に変動はなかった。彼女はこの先、少なくとも八十年は生きる。前川が彼女と付き合わなくたって、山賀はそのくらい平気で生きるだろうということだ。彼女は強い。
前川には自分の寿命だけが見えない。
「身を挺して救うのは結構だが、そんなことばかりしていたらお前の命がいくつあっても足りないよ」
晶は前川の髪を撫でた。
「泣き落としでほだされただけだ。次から気を付ける」
「それだけで身を挺してくれるやつがいるのなら、私も使ってみよう」
それだけ言って、ナイフをしまう。長い脚を音もなく動かし、晶は病室を去った。
晶に泣き落としを使われたら、自分はひとたまりもないだろうなと前川は思った。




