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昔、この辺りは一面豊かな土地で、農業も産業も発達した都だったのだという。
今は一面ごつごつした岩の塊ばかりで、農作物もろくに育たない。
ここに生きる人々は、その日を生きるのに精一杯だ。
シンは、そんな村で育った。
良い事なんて一つも無くて、父さんも母さんもいなくて。
自分が今いくつなのかも正確にはわからない。
ガリガリの体で、それでも死にたくなくて、ただただ毎日必死で今日もどうにか生きて。
ある日、大きな失敗をしたシンが、涙を隠す為に入り込んだ場所。
村の大人たちが絶対に入ってはいけないという聖域に、いつのまにか入り込んでしまっていた。
大きな岩に白い布を巻きつけ、そこから先へ進む事を禁じたその場所からさらに奥へ奥へ奥へと進む。
信じられないことに小さな森があった。
潤いのある生きている樹が、密集している。
土もみずみずしく、そこはシンが今まで知っているどことも違う、優しい大地の匂いがした。
しゃがみこみ、土を掴む。
うちの畑の土がこんなだったら、あんなに苦労して毎日耕さなくてもいいのに。
少しの水をこぼしただけで、こんなに泣かなくてもいいのに。
と、また涙がでそうになりながらも、初めて見るに等しい樹は美しくつい口を開けたままきょろきょろともっと奥へと入り込んでしまった。
舞台のように円形に視界は開け、その中央に美しく青く光る大きな石があった。
ふらふらと近寄る。
何歩か進んだところではっ、と足を止めた。
美しく透明な石の中に、人がいるのが見えた。
すっと鼻筋の通った優しげな顔立ちの男が、眠るように目を閉じてそこにいた。
シンはその人をどこか懐かしく思えることが不思議だった。
吸い寄せられるように近寄ると、石に触れる。
張り付くように石にくっつく。
じっと見ていると石の端に、字が彫ってあった。
シンの使っている文字とは違う文字。
それが読めないことが悔しくて、でも諦めきれなくて、指で文字をなぞる。
頭の中を、するり、と何かに撫でられたような気がした。
「ハル?」
シンが自分でも分からず、そう呼びかけると、石の中の男の唇がゆっくりと笑みの形を作った。
シンはそれが何故か嬉しくて、
「ハル?俺は、シン」
そう名乗ると、男はゆっくりと瞳を開いた。
そして、その瞳はシンを捉える。
「・・・シン?」
聞こえた声は、柔らかく、もっと聞いていたかった。
ぶんぶん肯くと、嬉しそうににっこりと笑う。
「シン。来てくれて嬉しい。でも、村で君を探してる。戻った方がいいよ。」
「・・・あ。・・・おん。」
遠くの事がわかるのも、彼なら不思議ではない気がして素直に肯く。
「また・・・」
口を開いたのは同時だった。
にっこり笑って、ハルが譲ろうとするが、シンはどうしてもハルからその言葉が聞きたかった。
それを察して、ハルが呟く。
「また来てくれる?」
そうしてシンは秘密を持った。
シンが村へ戻ると、何処へ行っていたのかときつく聞かれたが、答えはしなかった。
自分でも本当にあったことだったのか、夢だったのか、自信がなかった。
それからしばらくは仕事が忙しく、夜に抜け出す体力がなくぱったりと行けなくなった。
仕事が一段楽してきたある日。
村で一番長生きの男に、シンはあの岩の向こうには何があるのかと聞いてみた。
男は、別段嘘をつくふうでもなく、物語をするふうでもなく、世間話のように話し出した。
「あの奥には、昔人間に傷つけられたドラゴンが眠っている」
男の話は続く。
「この辺りは昔、ドラゴンに守られた豊かな国だった。
昔。と言ってもそんなに昔のことでもない。
自分はまだうまれてはいなかったが、祖父の頃には、この辺りは緑であふれていたそうだ。
それが、原因までは伝えられてはいないのだが。
何かの間違いで、人はドラゴンを刺してしまった。
そのドラゴンは死ぬ事はなかったが、長い間眠らなければならなかった。
この国にいたドラゴンは皆ものすごく怒って、眠りについたドラゴンの環境を整えると出て行ってしまったそうだ。
ドラゴンのいない国は滅びる。
それが今の、この村だ。」
「ドラゴン・・・。」
「そう。あの奥に眠るドラゴンは、水のドラゴンだという話だ。
水のドラゴンが眠りについているのでこの国には雨が降らない。」
あいまいにお礼を言うと、シンは走り出した。
あの森へ。
森へつく。
奥へ奥へ走っていくと、この間の大きな石はなくなっていた。
ハルがいない。
「ハル?!」
大声で呼ぶと、横の方からがさ、と草を踏み分ける音がした。
ばっ、とそちらを見ると暢気な様子で小鳥など肩に乗せながらハルが歩いてきた。
ゆったりとした布はたっぷりとしていて、贅沢に刺繍されている。
編み上げの足を守る柔らかな靴も履いている。
自分が生まれてから今まで見たどの人よりも、優雅な人。
「いらっしゃい、シン。よくきたね。」
ゆったりとそう歓迎し、ふんわりと笑う。
「・・・ハルは、人じゃないの?」
そう言うと、ハルは首をかしげて困ったように笑った。
「んー。そうだね。違うかな」
「本当にドラゴンなの?」
「種族的にはそうだね。でもおれは人間がすきだよ」
「刺されても?」
「まだ、覚えてる人がいるんだ。人間ってすごいね。もうあの時代に生きてた人なんかいないはずなのに」
「ハル?」
「あれはね、シン。事故だったんだ。誰も悪くない」
真っ直ぐに見てくるシンに微笑みながら、ハルはそう言った。
「それにしても少し寝ている間にこの辺りはひどいことになっちゃったね。皆、いなくなっちゃったんだね」
少しだけ哀しそうにハルは続ける。
「シンは、このあたりを緑豊かな国にしたくない?」
「そりゃ、したいけど・・・」
「じゃ、さがしに行こうか」
「・・・誰を?」
「仲間がいるんだ。シンに会わせたいな」
とてもいい顔でハルは笑った。
その顔を見てしまったら、もうシンには肯くしかできなかった。