夜明け前の話
夜明け前が一番暗い。
この言葉は本当なのだろうか。少なくとも今自分の目に映る夜、もうじき明けようとしている夜は何も変わらないように見える。
無表情にただひっそりと、以前と比べてめっきり明かりが少なくなったこの街に覆い被さっている。
「客が来ねえなあ」
厨房から出てきた飯田さんがぼそっと呟いた。マスク越しでも口をへの字に曲げているのが伝わってくるようだ。
「もう朝4時ですから無理も無いですよ。」
誰もいない店内を見回しながら答えた。我がバイト先「らーめん 黎明軒」はかれこれ2時間は開店休業中だ。
「いや、朝比奈は知らないかもしれないが、今の時間はかきいれ時だったんだぞ。我らが店のラーメンを求めて、店の前に列が出来ることも珍しくなかった」
「こんな時間にラーメンが食べたくなるものなんですか」
「こんな時間だからいいんだ。飲んで遊んで最後の最後にラーメンを食べたい人、深夜の仕事を終えて一息つきたい人、その他諸々の事情で夜を過ごした人がたどり着くのがこの店なんだ」
大袈裟だなと思ったが、声には出さない。飯田さんは自分の言葉を噛み締めるようにうんうんとうなずいていたが、やがてぽつりと呟いた。
「だけどまあ……こんなご時世じゃしょうがねえかなあ……」
飯田さんの言葉にどう答えて良いか分からず、頷くともそうで無いとも見える曖昧な素振りで誤魔化した。
あの感染症によって、日常は姿を変えた。街を歩く人はめっきり減り、夜は人っ子一人いないという時間も珍しくない。
この県では営業時間の短縮要請が出ていないだけマシかもしれないが、黎明軒を含め周囲一帯の飲食店の売上は良いとは言えないようだ。
「2軒隣の寿司源さんも店を閉めるらしい。せっかく駅前のいい通りに店を構えたのにもったいねえよなあ」
残念そうに飯田さんがつぶやく。
「うちも他人事ではないですよね」
「店長として心穏やかでないのは確かだな」
「飯田さん、深夜営業やめてランチ中心に切り変えたらどうですか。経費ばかりかかってあまり儲けが出ていない気がしますが」
「朝比奈くんの意見には聞くべきところがある」
もったいぶった口調で飯田さんが言う。
ちなみに飯田さんも元は僕と同じバイトだった。前店長の退職を受け、オーナーに打診されて新店長になった。呼び方を改めるべきだろうが、店長でない飯田さんを知っている期間の方が長いため、そのままでいる。
「しかし、やはり深夜に店をやっていることに意味があるんだ。こういうご時世でもこの店を求めてくれる人がいる。そういう人たちのためにも俺は店を開けていたいんだよ」
「そうですか」
深夜勤務の11時半から4時半までの5時間の間に10人お客さんが来れば良い方だ。コストに見合った利益が出ているとは思えない。
自分の言葉がそれほど響いていないのを感じたのだろう。飯田さんはやれやれと言うかのようにかぶりを振った。
「朝比奈、各テーブルの割り箸と調味料を補充しといてくれ。あと入り口にある消毒用アルコールも頼む。それが終わって時間来たら上がっていいよ」
「では、お先に失礼します」
「うん、お疲れ様」
挨拶を交わし、店を出て歩き出した。本当は自転車通勤なのだが、この前盗まれたので歩きだ。アパートまで徒歩25分はつらいが、新しく買う余裕は今のところない。
周囲は少し明るくなっていた。もうすぐ夜明けだが、とても明るい気持ちにはなれない。それは夜勤明けの眠さのせいでもあるし、これからに対する不安のせいでもある。
黎明軒がつぶれたらどうしよう。仕事を覚えたのに、またバイト探しからだ。いや、もしかしたらこの状況下、どこにも雇ってもらえないかもしれない。最悪、今日の飯にも困る生活だ。
ため息をついた。カバンが重く感じる。早く帰って寝たいのに、足が思うように進まない。このまま座り込みたいような気分だ。
下を向きながら歩いていると、視界の端に人影が映った。前の方からマスクをつけた女の人が1人で歩いてくる。こんな時間に珍しい。そう思いながら、歩道の端に寄るようにしてすれ違った。
「おはよう」
自分に言われたと気づくまで数秒かかかった。おはよう?挨拶?僕に?振り返ると女性はこちらを見ることなく遠ざかっていった。何故挨拶されたのか?なんと反応するべきか?
頭がまとまらないうちに女性は角を曲がって入ってしまい、混乱した僕だけが明け方の路地に残された。
あの女性は誰なのか?何故僕に挨拶したのか?
考えていたらアパートに着くのに一時間近くかかってしまった。マスクを外し、手洗いうがいをした後、テレビをつけた。すぐに寝たいと思っていたはずなのに。頭が興奮しているのかもしれない。
ちょうど朝の情報番組が始まるところだった。きちんとネクタイをしめたアナウンサーが5時25分だと教えてくれる。最初のニュースはワクチンに関するものだった。
各国が開発を進めるワクチンは、順調に臨床試験をクリアしているらしい。とても良いニュースだ。しかし、ワクチンが出来たら、世界は元通りに戻るのだろうか。その前に黎明軒がつぶれるかもしれない。その前に僕が取り返しのつかないことになっているかもしれない。
不安な想像をしたら、起きているのが億劫になってきた。テレビを消し、布団を敷いて横になった。すこしずつ薄れる意識の中、最後まで頭の中にあったのは、あの女の人が言った「おはよう」だった。
目を覚ますと、既に太陽は高く昇っているようだった。
半分寝たまま、時間を確かめようとスマホに手を伸ばす。12時18分。と同時に、1通メールが来ているのに気が付いた。急速に意識が覚醒する。震える心を抑えつつ、メールを開いた。
「朝比奈 智之 様
拝啓
時下ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。
先日は我が社の採用面接にご参加いただき、誠にありがとうございました。厳正なる
選考の結果、誠に遺憾ながら今回は採用を見送らせていただくことになりました。何卒 ご了承くださいますようお願い申し上げます。
末筆ながら朝比奈智之様が今後より一層活躍されますようお祈り申し上げます。
敬具 」
布団にもう一度横になる。またダメだった。これで何社目だろう。挑戦することをやめなければ最後に勝つとは良く言われる言葉だが、その言葉を作った人物は、失敗のたびに心が擦り減ることを考慮にいれていなかったようだ。
どこで間違えたのだろう。大学を出て就職するまでは正しかったはずだ。しかし、人間関係と残業の多さに体調を崩して、2年ももたず退社してしまった。
離職中の生活費を稼ぐため、バイトを始めたのはいい。だが例の感染症により客足は激減。閉店の危機にある。就職活動はしているが、今のところ連戦連敗中だ。
寝返りをうち、仰向けになる。転職サイトを見ようかと思ったが、気力がわかない。腹が減っているが、何か作る気にもなれない。ただ、ぼんやりと天井を見上げる。
何も考えずにいると、またバイトの帰り道のことを思い出す。年齢は僕と同じぐらいだろうが、バイトでも前職でもその前の人生でも全く見覚えがない人だった。彼女は何故僕に「おはよう」と言ったのだろう。
「好きってことでしょ」
飯田さんが自信満々で言い切った。黎明軒に出勤した僕は飯田さんに朝のことを相談していた。二日続けての深夜番はしんどいが、時給がいいので文句も言えない。
「そうなんですかね」
「そうに決まってるだろ。というか朝比奈そんなことがあったのかよ、羨ましいなあ」
地団駄を踏みながら飯田さんが言った。そして、舞台俳優のような素振りをしつつ続ける。
「一目見たその時から心を離れない愛しの人。声はかけたいけど、恥ずかしくて勇気が出ない。ならばせめて、せめてすれ違う際に挨拶だけでも交わしたい。ああ、可憐な乙女心よ」
「いや、無いですよ。漫画の読みすぎですよ」
「冷てえなあ」
マスクで表情がよく見えないが、憤慨しているようだ。
「まあ、あれだ。理由なんか無いんじゃねえの」
「理由がないのに知らない人に挨拶するんですか?」
案外そういうもんかもしれんぜと飯田さんは続ける。
「特に理由が無くても、朝誰かに会ったらおはようと言う。何もおかしくない。暗い夜を越えて、朝を迎えられたことを知らない誰かと喜び合う。素敵な人じゃないか」
「今日の飯田さんは詩的ですね」
「そうか?嬉しいなあ、本当にそう思うか?」
何故か喜んでいる。うきうきしながら厨房に入っていってしまった。もう3時過ぎだけど、飯田さんは元気だ。
「朝比奈、悪いが表の通りを掃除してきてくれないか。今日はうちが掃除当番なんだ」
「分かりました」
飯田さんの指示に従い、箒とちりとりを持って表へ出た。
人通りが少ないせいか、ゴミもそれほど落ちていないように見えた。大きなゴミを拾い集めた後、小さなゴミを箒で一箇所に集めていく。
飯田さんの言う通り理由なんてないのかもしれない。ただの気まぐれや、そういう気分だっただけという可能性もある。
だけど、あの時「おはよう」と言われたことがどうしても気になってしまう。自分でも不思議な感覚だ。
「おはよう」
背後からかけられた声に、思わずつんのめりそうになった。ゆっくりと振り返る。あの人だ。マスクで顔ははっきりとは分からないが、でも昨日声をかけてきた人だ。
心臓が早鐘のように鳴っている。どうしよう。なにか言わなくては。
「お……おはよう……ございます……」
ようやくそれだけを口に出した。彼女は目だけで微笑むと、そのまま通りを歩いていった。
姿が見えなくなるまで、僕は何も言わずただそこに立っていた。
「朝比奈」
呼ばれて振り返ると飯田さんが立っていた。
「あ、飯田さん。おはようございます」
「いや、おはようってまだ早いだろ」
黎明軒の照明だけが眩しい暗闇の中で、飯田さんは怪訝そうに言った。
「えらく掃除に時間かかるなと思って見にきたが……おい、朝比奈。お前なんだその顔」
「え……いや、あのなんですか?」
「いや、お前めちゃくちゃニヤついてるじゃねえか」
咄嗟に自分の顔を手で押さえた。
「あー……いや、そんなことないです。気のせいです」
「長い付き合いとは言えねえが、お前のそんな顔を見るのは初めてだ。何かいいことあったのか?」
「いや、あのー……何も無いです。本当に何も無いです」
「なんだよ、隠すなよ。教えろよ。教えてくれよ」
苦情を背中で聞きながら、黎明軒に入りトイレに直行した。洗面台で自分の顔を見てみる。飯田さんの言う通り、にやにや笑いを浮かべている。
自分で見て更におかしくなって笑ってしまうような顔だ。
「変な顔だな」
そう言いながらもまた笑ってしまう。飯田さんはそんな顔見たことないと言っていたが、自分も少なくとも記憶にある限りは見たことの無い顔だ。
挨拶されただけでこんなことになるとは。我ながらチョロい男だと思ったが、嫌な気分ではなく、むしろ嬉しかった。
「朝比奈、今何時だ」
「4時半を少し過ぎたところです」
「そろそろおはようって言っても、おかしくないぐらいの時間だな」
結局あの時何があったかを白状させられて、今度は飯田さんからにやにや笑われることになった。その後、お客さんが何人か来られて対応しているうちに今に至る。
「今日は少し忙しかったですね。こんな時間にもお客さん来てくれるんですね」
「そうだぞ、やっぱり夜の時間てのは大事なんだよ」
厨房で忙しく働いていたのに、飯田さんは疲れた様子を見せない。むしろ上機嫌に見える。
「飯田さんは余裕そうですね。疲れてないんですか」
「全然。俺はむしろ楽しい。」
どんぶりを片付けながら、飯田さんは言った。
「俺は夜が好きなんだ。」
片付けの手を止め、飯田さんの方を見た。
「夜はいいぞ。昼とは世界が全く変わる。そんな中でも人は生きている。そういうやつらを見るのが好きなんだ」
食器を洗いながら、いきいきとした口調で飯田さんは言う。
「働いたり、遊んだり、いろいろ活動している人達がいる。そんな人達にひとときの安らぎと次に向かう活力を与えられる。こんな面白い仕事は無いよ。だから店長になった」
飯田さんからこんな言葉を聞くのは初めてだ。いつもはふざけてばかりなのに。
「なんか……かっこいいですね。初めて飯田さんを尊敬します」
「お世辞言っても次の賄い大盛りにするくらいしか出来ないぞ」
「そんなつもりで言ったんじゃないんですが…」
冗談だと飯田さんは笑う。
「お前だって素敵な出会いをして夜の楽しさを知っただろ。もっとも夜出会ったのか朝出会ったか微妙なとこだがな」
「まあ…そうですね…」
「若人を見守るのはおじさんの楽しみだ。応援してるぜ、少年」
それから奇妙な関係が始まった。
彼女は3時から4時半くらいの間に時折現れる。ただ、一言「おはよう」とそれだけを言うために。僕も「おはよう」とだけ返す。彼女は微笑んで去っていく。それの繰り返しだ。
見守るのが楽しみと言っていた飯田さんは、最近よく怒っている。
「お前らは中学生か。いや、今時中学生でも、もっと進んだ恋愛するぞ」
「いや、別に恋愛じゃないですよ。ほっといてください」
「ほっといていい訳あるか。もっと自分から行けよ」
「もういいじゃないですか。やめてくださいよ」
お客さんがいない時はもっぱらこのやりとりだ。恥ずかしいけど、決して嫌な気分ではなかった。そんな日々が続いていた。
ワクチンが実用段階に入ったとのニュースが流れるようになった頃、バイトに向かうと、どこか飯田さんの雰囲気が違う。いつもなら軽口を飛ばしてくるのに、黙って腕組みをして厨房に立っている。
「お疲れ様です、飯田さん」
「おう、お疲れ様。朝比奈」
挨拶しても飯田さんの様子は変わらない。ひとまずタイムカードを押し、制服に着替えてフロアに出た。
飯田さんは何か思いつめた様子だったが、やがて意を決したように厨房からフロアへやってきた。
「実はな、今日オーナーから話があったんだ」
「はい」
「深夜営業をやめることになりそうだ」
とっさに何も返事が出来ず、飯田さんの目を見た。
「やはり利益が出ていないからな。ひとまず夜の営業を10時までにして、営業時間の短縮要請が出たら8時までにすることも考えるんだってさ」
喋りながらも、飯田さんもまだ受け入れ切れていないように見えた。
「これからはランチ営業をメインにした経営形態に切り替えるらしい。俺も朝比奈も昼の勤務が中心になると思う」
「……そうなんですか」
「オーナーも悩んでるんだぞ。ここ以外にも飲食店を経営しているが、どこも経営が厳しいらしい。ワクチンとかで明るいニュースもあるが、もう一年近くもこの状況が続いていて、正直今が一番しんどいんだろうな。それでも首を切ることだけは絶対にしたくないから、いろいろやり方を変えようとしているらしい」
「立派な方ですね」
本心からそう思った。このご時世に雇用を守ろうとする姿勢は本当にすごいと思う。
「俺はバイトの頃からオーナーを知っててな。元々この店を始めた時に、深夜も営業するという方針を決めたのもオーナーなんだそうだ。深夜でも人は生きている。そういう人たちのための場所を作りたかったらしい」
「それって飯田さんが言っていたことじゃないですか」
「そうともよ、だから今の俺にかなり影響を与えた人でもあるな」
飯田さんが胸を張っていった。しかし、すぐに寂しそうな顔になって言葉を続ける。
「だから、今日話をした際には本当に辛そうだったよ。深夜の仕事を気にいってくれている飯田君に申し訳ないとも言われたな。朝比奈君も時給が下がることになって申し訳ないとさ」
「仕方ないです。店がなくなるよりはずっといいですよ」
これも本心だ。バイト先がなくなるよりはずっといい。昼の勤務も特に問題ない。問題があるとしたらあの子のことだ。それは飯田さんも分かっているようだった。
「朝比奈、お前あの子の連絡先も名前も知らないんだろ。あの子とのことをどう考えてるかは知らんが、後悔のないようにしろよ」
「はい、分かりました」
その日のバイトは全く目の前のことに集中できなかった。飯田さんのフォローがなかったら仕事にならなかっただろう。頭の中がまとまらないまま、気が付けば3時過ぎになっていた。彼女が現れるかもしれない時間だ。
僕と彼女はどういう関係なのだろう。ただ「おはよう」と挨拶しあうだけの関係。知り合いというのが一番近いか。
ただ、今の僕は彼女に会えるのをとても楽しみにしている。これは事実だ。「おはよう」と挨拶しあうこと自体が、既に僕にとって特別なことになっている。
「来たぞ」
飯田さんの声で反射的に店の外を見た。彼女だ。焦る気持ちを抑え、深呼吸を一つした。
「しっかりやれ」
飯田さんに背中を押され、店の外に出た。
彼女が近づいてくるのが見える。もう一度深呼吸して、しっかりと彼女を見た。
「おはよう」
彼女が言った。
「おはよう」
僕も返す。彼女は微笑んで、立ち去ろうと一歩踏み出した。
「あの」
彼女が立ち止まった。不思議そうにこちらを見る。
「ありがとう」
今度は少し驚いたような顔をしている。構わない。後悔のないように行動するのみだ。
「おはようって声をかけてくれてありがとう。最初は何故挨拶されるのかも分からなくて困惑していた。でも2回目に挨拶された時、嬉しかった。とても嬉しかったんだ。こんな自分でも誰かに認めてもらえたような気がして、とても嬉しい気持ちになった」
彼女は黙って聞いている。マスクのせいで表情は読めない。
「おはようって挨拶しあうたびに幸せな気持ちになれた。誰かと繋がれたような気がして、本当に幸せな時間だったんだ」
緊張で息が切れそうだ。しかし、最後まで伝えなくては。
「この店、深夜営業をやめることになりそうなんだ」
彼女に初めて変化が見られた。ぴくりと体を震わせ、大きく目を見開いている。
「僕も昼のシフトがメインになると思う。そうなったら君ともう会えるかどうか分からないから、だから伝えたかったんだ。ありがとう」
言った。言いたいことは全部言った。多分。
彼女は僕の言葉が終わったあとも、しばらくそこに立っていた。やがて歩き出し、僕の横を通りすぎた。そして、そのまま黎明軒に入った。入り口のアルコールで手を消毒すると、窓際の席に座りメニューに目を通した後、呆気に取られている飯田さんにこう言った。
「ラーメンください。それにチャーハンと餃子も」
完成した料理を彼女のテーブルに持っていくと、いただきますと言って食事を開始した。なぜ急に食事を?全く分からなかったが、食事中にお客さんに話しかけるのは、感染症対策上良くないので黙っていることにした。
あと、彼女が美味しそうに料理を食べているのを見ると、なんだかこちらも嬉しくなった。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
残さず食べた後、彼女はマスクをつけ丁寧に食後の挨拶をした。そして、恥ずかしそうに笑った。
「すいません。あんな風に思いを伝えていただいた後に急に食事したりして。でも深夜営業をやめると聞いて、いても立ってもいられなかったんです」
「量が多くなかったかい?」
「平気です。最近ほとんど食欲がなかったんですが、美味しく食べられました」
飯田さんからの問いにそう返すと、彼女は姿勢を正した。
「私は白井千夜と言います」
白井さんが名乗ったので、僕と飯田さんも名前を伝えた。白井さんは軽くうなずくと自分の話を続ける。
「仕事はここから少し離れた場所でカフェを経営しています。もっとも今は休業中ですが」
「飲食店経営か。そりゃ大変だ。」
このご時世ですからね、と白井さんは寂しそうに笑った。
「昔からの夢だったんです。自分で淹れたコーヒーをお客さんに提供するお店を作るのが。だから社会人になって働いてお金を貯めた後、お店をオープンしました。それが今年の初めのことでした」
僕と飯田さんは顔を見合わせた。ちょうどあの感染症のニュースが報道されるようになった頃だ。
「最初は良かったんです。でもご存じの通り、あの感染症が世の中に広まってお客さん全然来なくなっちゃいました」
新しいお店では馴染みのお客さんもほぼいない。経営へのダメージは相当深刻だったはずだ。
「それでもしばらくはデリバリーやお弁当で頑張りました。私も自転車に乗っていろいろなところに配達に行きましたね」
「デリバリーか。うちも昼の時間にやったが、競合他社が多くてなかなか思うようにいかなかったよ。白井さんはかなりのやり手だね」
「会社で広報をやっていたので、その時のノウハウを使ってSNSで宣伝したんですよ。それが結果的に上手くいったというだけですね」
一瞬嬉しそうな顔をした白井さんだが、すぐ寂しそうな顔になってしまった。
「けれど一緒にやっていた友達が家の事情もあり、退職することになりました。私一人ではお店を続けていけず、お休みすることを決めました」
落ち着いて話をしているように見える。しかし、自分の夢だったお店を休業させなくてはならないのは相当しんどかっただろう。
「休業中でもお店の維持費でお金はかかります。貯金でどうにかしていましたが、収入がないので減っていきます。私は次第に精神的に不安定になりました」
自分でかなえた夢が、今度は負債となって自分を追い詰めていく。たった一人でどれほどの苦しみに耐え続けたのだろう。
「食欲もなくなり、眠っても深夜2時くらいには目が覚めるんです。どうしても眠れないので、明け方まで街を歩いて身体を疲れさせてから眠るようにしていました」
そこで一旦言葉を切り、視線を僕たちの方に向けた。
「そんな時に見つけたのが黎明軒さんだったんです」
そう言って白井さんは微笑んだ。
「こんな遅い時間で周りのお店も空いていないのに頑張っているお店がある。その事実に私は勇気づけられました。そして、次第に黎明軒が営業しているのを見るのが私の楽しみになりました」
意外だった。自分たちの仕事がこんな形で人に影響を与えているとは全く思わなかった。
「当時は食欲が全くなかったのでお店に入れず、すいませんでした。朝比奈さんと初めて会ったのも歩いていた時ですね。あの時は少し遅くなって営業時間に間に合いませんでした」
「あ、じゃああの時……」
「働いている姿をお見かけしたことがあったので、顔は分かりました。どうしようか迷ったんですが、自分でも理由が分からないままに、おはようと言ってしまっていて。驚かせてしまってすいませんでした」
「いや、そんな謝ることないです。嬉しかったです」
飯田さんがにやけているのが分かるが、無視を決め込む。
「びっくりさせてしまったのでもう行くのはやめようかとも思ったのですが、我慢できずに行ってしまいました。そして朝比奈さんを見かけたので、声をかけました。朝比奈さんはお掃除中でまた驚かせてしまったのですが、おはようと返していただいてとても嬉しかったです」
今思うと、あの時間におはようは変ですね、と白井さんは笑った。
「朝比奈さんとの時間は私にとっても大切な時間でした。誰かと挨拶を交わすことでこんなにも満たされるとは知りませんでした。私こそありがとうございます」
顔が赤くなる。飯田さんが俺いらなくね?邪魔じゃね?という顔をしているけど、気にしない。
「だからこそ、このお店が深夜営業をやめてしまうのが嫌で食事を頼んだりしたんです。必要としている人がいるって分かるように。でも、もうどうしようもないのでしょうね」
そう言って白井さんは沈んだ顔になった。飯田さんはなんと言ったらよいか分からないようだ。僕も言葉が出てこない。どうしたらよいのか。
「あ」
不意に頭の中で何かが繋がった。飯田さんと白井さんに自分が思いついたことを説明してみる。2人の表情が次第に明るくなるのを見て、こちらもわくわくした気持ちになるのを感じていた。
黎明軒は今のところ深夜営業を続けることが出来ている。白井さんからSNSの活用法を教えてもらうことで来店者数が増加したというのが理由の一つ。新しく始めた深夜時間限定のデリバリーが好評だったことがもう一つの理由だ。
どうやら真夜中でもラーメンを食べたい人はたくさんいるらしい。急に忙しくなったが、飯田さんは楽しんでいるようだ。オーナーさんも喜んでいるらしい。
そして、僕は新しいバイトを始めた。黎明軒のシフトを少し減らしてもらい、その分を新しいバイトにあてている。飯田さんにはこの忙しい時にと口では言われたが、表情をみるとにやにやしていた。
新しく買った自転車で出勤する。駐輪場に自転車を停め「カフェ ノクターン」と書かれたドアを開けた。既に出勤していた白井さんが開店の準備を始めている。こちらに気づいて少し笑ったように見えた。
「おはよう」
「おはよう」
今日も一日が始まる。良い日になるといいな。