⑤
──その年が開けて、4月。
私は本社に移った。
都市部沿線にある本社周辺は、思っていたより都会でもなかった。それでも今までいた所より皆垢抜けているように感じたのは、やはり働いている人間の絶対数がまるで違うからだろう。
それにも慣れた1年後、本社の直属の上司から呼び出された。
「少人数の中、皆よく働いてくれている。 思っていたよりも進捗状況がいい」
集められた人員は予定より少なくなってしまったようだったが、皆ベテランで、なにより真面目だった。2年契約という部分もあり、それなりに皆必死だったのだと思う。皆が仕事をスムーズに行う為密に連絡を取り合い、連携を取ることを厭わない姿勢で取り組んでいたこの環境は非常に新鮮で、とても充実していた。
人員が予定より少なかったこともあって、上層部としては私たちが「本社スタッフとして残りたい」という希望を出せば、大方通す考えでいると上司は私に告げる。
更には特別に賞与がでるらしい。
額は寸志程度だが、それよりも認められたことが嬉しい。
こんなの朗報以外のなにものでもない。
──だが、私は迷っていた。
あの夜私の行為に吹き出した失礼な課長は「無理をしなくていい」と肩を震わせながら言った。
急激に上がる、体温。
「……っじゃあ、どういうつもりで誘ったんですか!」
私は遂に感情を彼に向けてしまった。
1度露にしてしまうと、止められないもので、私は子供の様に断片的な言葉で彼を詰った。
課長は少し困った顔で、否定でも肯定でもない相槌をたまにつくだけ。
言葉が尽きた私をゆっくりと抱き寄せ頭を撫でた彼に、私はただ身を任せる。
こんなに感情的になるのは何年ぶりだっただろうか──
思い出せない位、久し振りの行為は、思った以上に身体を疲弊させていて……反撃する気なんて、既に失せていた。
まるで子供をあやすようなキスを額に落として、ただ背中を優しく擦る。
それが、体温が、心地好くて。
いつの間にか私は眠ってしまっていた。
「課長は……なんで誘ったんです?」
次の朝、十代の少女の様にもどかしい気持ちでした私の質問に、彼はこう答えた。
「……沈黙が、気にならなかったから、かな」
彼が「移動まで一緒にいたい」と言ったので「週末なら」と了承する。それ以上の事は互いに触れなかった。
週末──私達はそういう意味で寝ることもあったし、ただ寄り添って眠るだけのこともあった。
悪くなかった。
離れたくないと思ってしまう位には。
ただ、2年後どうするにしても、自分を試してみたかった。真面目なだけが取り柄の自分でも、なにかやっていることへの確かな……いや、朧気でもいい。
実感を掴みたくて。
出立の日、少しの荷物と共に家を出た私を待っていた彼は、車で寮まで送ってくれた。
別れ際に彼は小さな箱を持たせる。
少し古びた、指輪の箱。
「お袋の、形見なんだ」
「え」
「これも、親父の」
左手の薬指を見せると少しはにかんで続ける。
「とりあえずでいい、持ってて」
「……とりあえずでいいんですか」
「うん」
そんな大事なもの、受け取れない──
そう思えど、返せなかった。
「答えは2年後でいいから」
いつものように静かな口調で。
「要らなくなったら捨ててもいい」
「……捨てれません。 要らなくなったら返します」
「ふっ、そりゃ親切だね」
……笑うところでもないと思う。
でも吹き出した彼は、暫く笑っていた。
──ガタン、ゴトン
久し振りに電車に乗った私は、課長に会いに行く事にした。
指輪を持って。
この一年ちょっとで、ダイヤは少し変わっていた。
指輪をつけていないのは返すつもりではない。
サイズが大きかったからだ。
離れていた間、電話を沢山した。
沈黙が気にならなかった彼と、離れて気付いた幾つかのことのひとつ。
何気無い会話の心地好さ。
どうするにしても、彼とは一緒にいたい。
──ガタン、ゴトン
『元々結婚とか、する気もなかったが……2年後の、君さえよければ』
あの時の気持ちで、今もいるのなら。
電車に揺られ微睡む中で、あの日の彼とのやり取りを思い出す。
「どうして」と尋ねた私に彼は少し冗談交じりに言った。
『沈黙が気にならなかったからかな』
終。
閲覧ありがとうございました。
「お袋の、形見なんだ」(死亡フラグ)
……ス○ッガーちゅういぃぃぃぃぃぃ!!