雨、ふたり
こんな雨の日は、レインがやってくる。
どくどくとあふれ出す雨どいの音を聞きながら、縁側に座って、ざあざあ冷たい雨が降るやたら広い庭を眺めていたら、いつものようにレインがやってきた。
傘を持たない彼女は、全身濡れ鼠になって、雨で黒っぽくなった門のところに、俯いて立っている。
「上がりなよ」
僕が言うと、こっくりと無言でうなずいて、びしょ濡れのまま、縁側に上がってくる。僕はあらかじめ用意していたタオルで彼女の髪を拭いてやって、あんまり廊下に水滴が落ちないようにとむなしい努力をしながら、彼女を浴室へと導いていく。
「着替え、そこに置いておいたから」
また彼女はこっくりと頷く。僕は浴室を後にした。振り向いた廊下は濡れていた。まあこういうのもしっかり掃除するいい機会なんだろうな、と奥の部屋から雑巾を取ってきて、きれいに拭き取る。すぐにやることがなくなったので、また縁側に座って雨の降る庭を見ていた。
晴れの日はこれでもかというほど輝いている庭石や草木は、レインが来るような冷たくどんよりとした雨の日になると、必要以上に陰鬱な色を出す。僕はこういう色合いが、気分に合ってて結構好きだ。
入浴を終えてレインが出てきた。身体はちゃんと温まったらしく、頬がうっすら赤くなっている。まだ少しだけ髪が湿ったままの彼女は、僕の傍に立った。
「レイン」
「ごはん」
「うん」
彼女の要望を受けて、腕まくりをしながら台所に向かうことにした。安っぽい壁かけ時計を見ると、時刻は午後4時。レインは、隣の部屋の畳の上に寝そべっている。
「まだお米炊いてないから1時間くらいかかっちゃうけど」
「いい」
「なにが食べたい?」
「なんでも」
それが一番困るんだよなあ、と思いながら冷蔵庫を見た。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、それと鶏肉。そもそも大して選択肢がなかったので、別に困らなかった。
カレーかな。そう考えたけど、ルーがクリームシチューしかなかった。
「シチューでいい?」
「いい」
「もう冷蔵庫空っぽになっちゃうや」
「今度もってくる」
「ありがと」
レインがそう言うので、全部使ってしまうことにした。用意しておいた炊飯器のスイッチを入れる。玉ねぎを手に取って、包丁で切り始める。
スコン、スコン、と包丁がまな板を叩く音。雨が庭の草木と、家の瓦を叩く音。雨どいの水が流れる音。隣の部屋にいるレインは、壁掛け時計の秒針よりも静かだ。スコン、スコン。音が響く。
具材を煮込み始め、僕はレインのいる隣の部屋に移動した。台所とこの部屋の間にあるガラス戸は、建付けが悪くて開け放しにしているから、こっちの部屋にいても鍋の状態が見える。鍋から出る湯気で、部屋が少し熱っぽくなってきた。
僕はうつぶせで寝そべるレインの頭の近くに腰かけた。
「レイン」
「なに」
「なにしてるの?」
「なにもしてないをしてる」
「そっか」
レインは、ごろん、と寝返りをうって、仰向けの体勢になって、僕の顔をじっと見た。
「なに?」
「おなかすいた」
「もうちょっと待ってね」
ん、と呟いたレインはもう一度寝返りをうった。台所の換気扇が回る音がやけに大きく聞こえる。
レインは口数が少ない。いつだって彼女は簡潔に物事を伝える。僕はきっと、そこまで無口な方じゃないと思うんだけれど、話題がない。だから、レインといるとき、声が聞こえる時間よりも雨音を聞く時間の方が多くなる。
鍋から良い匂いがし始めた。食べ物の匂いと雨の匂いが混じると、不思議と切ない気持ちになる。僕はレインの後頭部をじっと眺めていた。
雨がずっと降っている。このまま止まなければいいのにと、そう思った。
ご飯を食べ終わると、レインはいそいそと奥の寝室で押し入れから引っ張り出した布団を敷いて、睡眠の体勢に入る。たまに、この子は食べることと眠ること以外に興味があるのかな、なんて失礼な疑問を思い浮かべてしまう。
僕はシチューの残りをタッパーに詰めて台所を片付けた後、お風呂に入って、そのあとレインの横に布団を敷く。
「起きてる?」
「眠る」
「そっか」
枕もとに置いた時計の示す時刻は午後7時前。いつもはレインが来る時間がもっと遅いのだけれど、今日は来るのが早かった分、眠るのも早い。
僕は部屋の電気を消して布団に潜り込んだ。冬も近付いてきて、7時前でももう暗い。この家は周りに明かりもないので、まるで真夜中みたいになる。雨音が優しくなったように感じた。あるいは、雨から僕たちを守るこの家の空気が。
「ねえ、レイン」
「なに?」
「……ごめん。呼んだだけ」
「うん」
「レイン」
「うん」
「……レイン」
「うん」
外では雨が降っていた。
僕の隣にはレインがいた。
たぶん、それで全部。そういういつもの雨の夜だった。
朝になって目が覚めると、いつもレインはいない。カーテンの隙間から射し込む朝日が僕の顔を照らして、強制的に意識を夢から連れ戻した。
時計が示すのは7時45分。13時間くらい寝た。平均的な睡眠時間だ。
一応、少しだけ期待して隣を見たけれど、レインの姿はなく、たたまれた布団だけが残されていた。
窓の外、快晴。
晴れの日は本当にやることがない。曇りの日もないし、雨の日もレインを迎える以外にやることはないけれど。
本でも読もうかな、と思って、書斎(ということになってる部屋)に向かった。
年季の入った木製の本棚。収められているのは雑多な書籍。上の方には、恋愛、ミステリー、ホラー、冒険、ファンタジー、SF……。小説も漫画も、古いのも新しいのもごちゃ混ぜになって、一貫性なく詰め込まれている。下の方には、学術書や文学全集。学術書の方は、統計学やら生物学やら国語の教科書やら、難易に頓着せずバラバラに押し込まれていて、文学全集も同じように、作家の国籍や巻のナンバリングを無視して、虫食いみたいに収納されている。
背表紙を指でなぞりながら、どれを読もうかと考える。だけど、ほとんどの本を読み飽きてしまった。
こういう本も、レインがときたま持ってくる。今度、追加をお願いしようかなと思ったけれど、もうすぐ本棚は満杯だ。床に置くようにすると、掃除が面倒になるし、どうだろう。考え物だ。
ちょっとだけ、以前はつまらなくて読むのをやめてしまった本に挑戦してみることにした。15分くらい経って、やっぱりつまらなかったのでやめた。本には読むべき時期というものがある。つまらないと思うときに読んでしまっては勿体ない。そう言い訳をしながら、やっぱりこれつまらないや、せっかく持ってきてくれたのにごめんね、と心のなかでレインに謝って、本を棚に戻した。
やることがない。
やることがない。やることがない。やることがない。縁側に座って、ボーッと空を見た。
やることがない。やることがない。やることがない。雨は降らない。
やることがない。やることがない。やることがない。日が暮れた。
やることがない。やることがない。やることがない。レインは来ない。
「早く降れー」
雨は僕のために降るわけじゃない。
それからだいたい1週間くらい経って、雨が降って、レインがやってきた。だいたい1日1食くらいのペースで消費していたシチューの余りがなくなる頃で、彼女は手提げ袋に色々と食べ物を入れて訪れた。僕はあまり物を食べない。ひどいときは5日くらい何も食べていないこともある。それでも冷蔵庫に食べ物があるというのは良い。料理の選択肢が広まる。料理なんてレインが来たときくらいしかしないけれど。ちなみに、案の定レインは傘を持たず、彼女も食べ物もびしょ濡れだった。
いつものようにお風呂から出てきたレインが、
「ごはん」
と、これまたいつものように言うので、
「なにがいい?」
と聞くと、
「なんでも」
と。
どこまでもいつも通りのやりとりだった。レインがあれを食べたい、これを食べたいと言ったことはないし、きっと、なにがいい?なんて尋ねる意味はないんだけれど。雨の日の儀式みたいなものだ。
レインが持ってきてくれた食べ物を見て、肉じゃがにしようかな、と思った。なんとなくだけど、レインはじゃがいもが好きな気がする。彼女はいつもじゃがいもを多めに持ってくるから。
「肉じゃがでいい?」
「いい」
言ってから、これじゃこの間のシチューと材料があんまり変わり映えしないな、と思ったけれど、レインがいいと言うならそうしよう。
出来上がった肉じゃがは美味しかったけれど、味噌汁がしょっぱかった。ちょっとだけ眉間に皺を寄せて味噌汁を飲んでいると、
「ユキト」
珍しく、レインが僕の名前を呼んだ。あんまりにも珍しかったので、僕は味噌汁を飲むその手を置いて、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
彼女はいつものように、顔を少し俯けた無表情で、だけど普段なら動かしっぱなしの食事の手を止めていた。
「ごめん、味噌汁しょっぱいよね。お湯持ってこようか」
レインは何も答えない。僕は台所からポットを取ってきて、とりあえず自分の味噌汁に注ぎ足した。レインも使う?とポットを差し出したけれど、彼女は動かない。不思議に思っていると、
「あなたは」
視線はご飯茶碗のあたりから上げないままに。
「私が憎い?」
それだけ言って、また黙ってしまった。
僕はあまり彼女の質問の意図がわからなかった。
「どうして?」
尋ね返す。
少しの沈黙のあと、レインは石みたいに固めた身体のなか、口だけを器用に小さく動かした。
「私たちがあなたの同族を滅ぼして、あなたたちはあなただけになってしまった」
淡々と。
「あなたは、世界にひとりきりになった」
「この家からも出られず」
「ただ無為に時を過ごすのみ」
「あなたは、私が憎い?」
呟く彼女は、視線を上げない。それ以上言葉を続ける気はないらしく、また食卓を雨の音が支配した。
僕はご飯を頬張りながら、返答を考える。そんなことを気にするより先に、雨の日は傘を使うってことを覚えてほしいなあ、なんて思いながら。
「別に」
お茶を一口飲んで。
「僕にとっては生まれたときからそうだしなあ」
あんまり彼女の期待する答えには思えなかったが、僕が感じるところはそのくらいしかなかった。
レインは食事の手を止めたままだ。
「ご飯、冷めるよ?」
「……うん」
そしてまたレインの箸が動き出した。
たまに、思うのだけれど。
レインは僕の作るご飯を、美味しいと思ってくれているんだろうか。
次の日の朝。僕は珍しく午前6時くらいに目を覚ました。寝ぼけた頭で考える。昨日寝たのが確か11時くらいだから、だいたい7時間。いつもの半分くらいしか寝ていない。
カーテンの隙間からぼやけた朝日が降っている。隣を見ると、もう布団はたたまれている。レインは早起きだな、と思った。僕は二度寝しよう。
そう思って布団を引っ被ったとき、玄関の方で音がした。もしかして、ちょうどレインが出るところだったのかな、と、のそのそ起き上がって、様子を見に行ってみることにした。
玄関には、上がり框に座り込んで靴を履くレインの背中があった。小さい背中だなあ、とか、レインって入るのは縁側からで出るのは玄関からなんだ、とかそういうとりとめのないことを考えて、ふと自然の光のなかでレインの姿を見るのは初めてかもしれないと気付いた。
いつも雨と一緒にやってくるレインが、白い朝日を浴びている姿は、不思議なアンバランスを感じさせた。
そして、なんだか急に、彼女がいまにも消えてしまいそうな、とても頼りない存在に思えてきた。
「レイン」
声をかけると、彼女は、びくり、と珍しく驚いたような反応を見せて、僕の方を振り返った。
逆光と、いまいち寝起きで定まらない視界のせいで、彼女の表情は見えない。
やっぱり、雨の日の方がいいと、そう思った。
「ずっと一緒にいてね」