テメェのぱんつは何色だ! ~もしも「さるかに合戦」が現代学園異能バトルものラノベだったら~
天高く馬肥ゆる秋、という言葉が最初に考えられたのは、きっとこういう清々しい秋の日だったんだろう。
俺は花壇の前にしゃがみ込み、可憐に咲く花々を眺める。八重咲きの百日草、アザミに似た小さな花をつける紫ルーシャン、そして特に色鮮やかな表情を見せてくれるのは秋咲きの菊の花。オレンジがかった黄色い花びらをぴんと広げた彼女たちは、ひとつひとつに個性がありながら、全体として見事な調和を為している。秋の涼しい風が吹けば、そのさまはまるで、古式ゆかしい大和撫子が笑いさざめくよう。
校舎裏にひっそりとたたずむこの花壇は、俺の心のオアシスであり、そして手塩にかけた娘のような存在でもあった。
全国から超能力者を集めて育成する、私立緋神学園。
栄えあるその生徒として高等部に入学してから、もう七ヶ月が経つ。
「ねえ畑山くん、今からでも遅くないから、園芸科のある高校に転校したら? キミにとっては、そっちのほうが有意義だと思うよ」
担任の言葉が脳裏に蘇る。要するに、俺には超能力者としては何の価値もないということだ。自覚はある。どうしてこの学校は俺なんかの入学を認めてしまったのかと、逆恨みをしたくなることもある。
それでも意地でこの学校に残っているのは、この花壇に愛着が湧いてしまったせいもあるが、それより、「あの子」ともう一度会えるかもしれないと思うから――
などと、物思いにふけっていた、その時。
「あっ、危ない!」
唐突に、頭の上から声が降ってきた。
「へっ?」
見上げた俺の視界に、ひとりの女の子が飛び込んでくる。宙に浮いている、というか落ちている。屋上あたりから飛び降りを敢行すれば、こんなことになるだろうか。驚きはしない。種々多様な超能力者が集まるこの学校に「ありえない」なんてことはありえないのだ。しかし何のために。いや、そんなことより、このままでは――
どきゃっ、と、湿った音。
――イヤな予感がして、おそるおそるそちらに目を向けた。
「う、う、うわあぁぁぁ!」
思わず悲鳴を上げ、女の子を花壇から引きずり出す。
そのあとには、茎が折れ、花が散り、見るも無残な姿になった黄色い菊の花たち。
「なっ……何しやがんだ、テメェ!」
「はぁ?」
呆れた声で女の子が答える。どうやら大したケガはないらしい。
いかにも気の強そうなツリ目に、セミロングの真っ赤な髪。リボンは臙脂色だから、俺と同じ一年生。制服の右胸に留められた徽章は金色。つまり、Aクラスの生徒だ。
彼女もまた、俺の制服の襟元にちらりと視線をやり、はっ、と鼻で笑った。
「たかが花くらいでギャーギャー騒ぐんじゃないわよ、Eクラスの分際で」
「ふざけんな! クラスなんかどうでもいい、人としてこの状況を何とも思わないのか、お前は!」
「思わない。私、花って大嫌いなの。いい気味だわ」
スカートの土埃を払って立ち上がると、彼女は顔をゆがめて吐き捨てた。そのまま花壇に背を向け、去っていこうとする。その態度に腹が立って、俺は右手を突き出した。
「おい、待てよ!」
手のひらに意識を集中する。
――《天界の門扉は開かれた》――
心の中で詠唱すると同時に、俺の手の中で空気が渦巻く。次の瞬間、ごう、と風が起こり、たちまち彼女の足元にわだかまった。
「なっ!?」
風は何本もの透明な手と化して、そのまま彼女を地面に引きずり倒す。弾みでスカートが翻り、中のパンツが見えた。ピンク色。レースのついた、意外に少女趣味な品だ。
「待てって言っただろうが。せめて一言、こいつらに謝っていけ!」
「……今のは……あんたの能力?」
スカートを押さえながら、彼女は俺を睨み付ける。
「ああ。《天界の門扉は開かれた》、スカートを履いた女の子を転ばせてパンツを見る能力だ!」
「最低ね。今まで見たことがある超能力の中でも圧倒的に最低だわ」
「よく言われる」
だが、彼女の辛辣な視線を「ご褒美です」と甘受できるほどには俺の神経も太くはないので、そんな目で見られると普通に傷つくのだ。ごめんなさい。やめてください。そんなゴミ虫を見るような目で見ないでください。
一般的に、超能力とは、力に目覚めたその瞬間に本人が心の底から強く望んでいたことが形になると言われている。
まあ、つまり、俺の場合は……そういうことだ。
「でも……この私をあれほどあっさり転ばせるなんて、大した能力ね。これでも私、体術のほうも鍛えているつもりなんだけど」
「当たり前だ。スカートを履いている限り、俺の能力は絶対に相手を逃さない」
「ズボンじゃダメなの?」
「ダメだ。たとえスカートを穿いていても、中の短パンが見えていたら発動しない。そんなのはズボンと同じなんだ。転ばせたところで、そこに天界は存在しない!」
また罵倒が飛んでくるだろうと半分覚悟を決めていたのだが、彼女の反応は違った。
「さすがはEクラス、クソみたいな能力だけど……でも、少しは使えるかもしれないわね……」
ぜんぶ聞こえてますよ、お嬢さん。
「ねえ、まさかその能力、スカートさえ履いてれば、相手が男でも使えるわけ?」
「ああ使えるとも。どうせ俺はパンツだったらなんでもいいクソ野郎だよ。仕方ないだろ! そういう制約なんだから!」
能力に目覚めた当初、仲の良かった妹に「変態!」と罵倒されて口を利いてもらえなくなったことを思い出す。いや、五年経った今でも無視され続けてはいるのだが。妹よ、お兄ちゃんは悲しいぞ。
さらに厭味が続くのかと思えば、続く彼女の発言は意外なものだった。
「よし、決めたわ。あんた、私の仲間になりなさい」
そう来たか。少年漫画では定番の展開だな。だがしかし、この畑山ミノルが最も好きなことのひとつは、自分が強いと思ってるやつに「NO」と断ってやることだ!
「あぁ? 花をあんな風にして平気な奴の仲間になんか、死んでもなりたくないね! まずはそいつらに土下座して謝りやがれ!」
「分かったわよ」
嫌そうに顔をしかめながら、彼女はめちゃくちゃになった花壇の前に立ち、無造作に両手を翳した。
「《円環を巡る揺籃歌》」
呟くような詠唱。それに応え、空中から金色の粒子たちがにじみ出るように現れる。こんなに明るい空の下でも、蛍のような金色の光ははっきりと見ることができた。光は渦巻きながら花壇に降り注ぎ、いっそう強く光り輝く。その眩しさに、思わず目を閉じた。
「悪かったわ。……ほら、これでいいでしょう」
苛立ちを含んだ声。そっと目を開けて――俺は、そこにある光景が信じられずに目をみはった。
涼やかな風に揺れる、たくさんの菊の花。
その美しい姿は、彼女が落ちてくる前の様子と寸分違わない。
「私の《円環を巡る揺籃歌》は、傷ついた人やモノを癒す能力」
これがAクラスの超能力者というものか。なんと便利で強大な力だろう。
しかし、それを説明する彼女の声は、なぜか硬くこわばっているようだった。
「――人を殺すには役立たずの、クソみたいな能力よ」
彼女は可児ジュリアと名乗った。その名前を聞いて思い出した。我がEクラスでさえも、彼女の名前は「見た目は天使、中身は悪魔」として知られている。いわく、告白してきた男を辛辣な言葉で罵って再起不能にしたとか、担任の弱みを握って授業をサボり放題だとか、それを注意した学年主任の先生を逆に責め立てて登校拒否に追い込んだとか、とにかくろくなウワサを聞かない。
第一印象のせいで俺にはちっとも可愛く見えなかったが、確かに言われてみればジュリアは、「天使」と呼ばれるのも納得できるくらい整った顔立ちをしていた。彫りが深く鼻筋の通った、「かわいい」というよりは「綺麗」という言葉が似合うタイプだ。
「というわけで、あんたのその使えない能力を、私が有効活用してあげようって言ってるの」
「はぁ……」
それにしても、どうしてこんなことになってしまったのか。
いま俺達は、花壇が見える場所にあるベンチに座って話をしている。ハタから見れば華やかな光景かもしれないが、相手がこの女では嬉しくもない。
「まさか断るなんて言わないわよね? Eクラスの分際で」
「ジュリアちゃん、そのくらいにしてあげようよー。ミノルくんも困ってるよ」
口を挟んできたのは、三年生の臼井キナコ先輩だ。百五十センチに大きく満たない身長、サイズがなかったのかだぶだぶの制服、ツインテールにした淡い色の髪と、どこからどう見ても小学生。しかし緑のリボンをしている以上、間違いなく俺のふたつ上の先輩である。ちなみに、緋神学園に飛び級の制度はない。
「って、元はと言えば先輩のせいじゃないですか!」
そう。そもそも、ジュリアが屋上から降ってくることになったのは、このキナコ先輩の能力のせいらしい。
《天罰下せし雷神の鎚》。小柄なキナコ先輩の身の丈ほどもあるハンマーを呼び出し、相手に叩きつける能力。いったい何を願ったらそんな能力が手に入るのだろう。ちょうどシティハ○ターのアニメでも見ていたのかもしれない。
そのハンマーを使い、屋上で模擬戦をしていたら、うっかりジュリアを柵の向こうに打ち出してしまったのだそうだ。
どうしてそんな危ないことをしていたのかといえば、話はいま俺がここにいる理由に戻るわけで。
「うるさいわね、男がぐちゃぐちゃ言わないの。協力するの? しないの? 『はい』か『イエス』で答えなさい」
「拒否権ないの!?」
「返事は?」
「……はい」
観念して両手を挙げる。
蛇に睨まれたカエルというのは、きっとこんな気分なのだろう。逃げても抵抗しても無駄なのだと、彼女の赤い瞳を見ただけで本能的に直感した。
それに、ジュリアはともかく、キナコ先輩は俺の花壇を見て「わぁ、きれいだねー」と純粋な笑顔で言ってくれたのだ。花を愛する人に悪い人はいない。
「よし。これであんたも一蓮托生よ。さあ、始めましょう――理事長の暗殺計画を!」
ちなみに、暗殺、というのは比喩ではなく、本当に殺すということらしい。
「あの、それって、警察に捕まるんじゃ……?」
「ちゃんと本人の口を封じて、証拠を隠滅すれば捕まらないわ。たとえ捕まったとしても、あんたに迷惑はかけないから安心しなさい」
「どういうこと?」
「私がひとりで捕まってやるって言ってるの」
キナコ先輩の表情を窺うが、特に反応はない。もう事情は承知しているということなのか。
「そうまでして、どうして理事長を?」
「あいつはね――私の両親の仇なのよ」
ジュリアが太腿の上に置いた拳を強く握る。
「十年前、私が五歳のときだったわ。私の父親はあいつに殺されたの。そのせいで、母親もすぐに後を追った。私の能力が目覚めたのはそのとき。だけど、両親を救うにはもう手遅れだったわ」
両親の揃った家庭で育った俺には、こんなとき何を言えばいいのか分からない。代わりに、ひとつ気になったことを訊ねる。
「なあ、理事長ってまだ若いよな? 十年前って……」
いかにも若手の青年実業家といった雰囲気の、門木サトル理事長の姿を思い浮かべる。
「あいつの実年齢は、もう六十を過ぎてるんじゃないかしら。あいつはね、私の両親から《生命の果実》を奪って食べたのよ。知ってる? ひとたび食べれば若返り、あるいは病が癒えるという果実」
「そんなすごい力を持つってことは、誰かの超能力で作ったアイテムなのか?」
「半分正解。強い力を持った苗木を、それを育てるのに向いた超能力者が育てれば、その実は《生命の果実》となる。……私の母は病気でね、父は何とかそれを治そうとして、大枚はたいてその苗木を買ったの。相手はあの男。もともと、本当に実がなるなんて思ってなかったみたいなんだけど、父の足元を見て法外な値段で売りつけたのよ」
そしてジュリアの父は、藁にも縋る思いでその苗木を育てたというわけだ。
「どうやら母には能力があったようで、苗木は実をつけたわ。でも、あと少しで熟すというところで、あいつが現れた。本当に《生命の果実》がなったと聞いて、手放したことが惜しくなったのね。あいつは私の父を殺して、《生命の果実》を奪い去り、自分で食べ尽くした。母は病気を治す最後の手段を失ったことと、なにより父が死んだショックで、間もなく息を引き取った」
淡々とした口調ではあったが、時折目を閉じ、深呼吸をしながらジュリアは語る。
「でも、それっておかしくないか? お前の母親を生かしておいた方が、たくさん《生命の果実》が手に入るんじゃ……」
「さっきも言ったとおり、あいつは父に、苗木を相場の何百倍って値段で売りつけてた。父はそれを知ってしまっていたから、もう自分には協力してくれないと思ったんじゃないかしら。あるいは、そんなことさえ想像できないほど耄碌してたか」
「それで、他人に渡すくらいなら……ってわけか」
「ええ」
頷いたジュリアの瞳の奥には、昏い情念の焔が燃えていた。
「父の日記や色々な話から、この学園の理事長が犯人だと知った私は、この学園に入学して仲間を集めることにしたわ。私の力は暗殺には不向きだから。七ヶ月かけて、なんとか信頼できる仲間を三人集めたけど、まだ足りない。あいつの能力、《混沌なる理の蹂躙者》を破る手段がなかったの」
「三人? 先輩の他にもいるのか」
「ええ。さっき連絡したから、もうすぐ……ああ、来たわ。あれが栗山チカ」
ジュリアの視線の先を追う。
タッタッタッ、とリズミカルな足音を響かせ、ひとりの女子生徒が走ってくるところだった。茶色の髪をショートカットにした、活動的な雰囲気の一年生だ。ワイシャツの上には、制服のブレザーの代わりにジャージを羽織っている。
「とうちゃーく! どうした親分、急に呼び出しなんて珍しいな」
親分、というのはジュリアのことらしい。徽章はご丁寧にジャージにつけ直してある。もしかすると、普段からいつもこの格好なのかもしれない。ちなみに徽章は銀色、つまりBクラスだ。
「あ! もしかしてこいつ、新入りか? うおっ、Eクラスじゃん! なんでまた」
珍獣を見るような目を向けられる。なまじ悪意が感じられないだけに傷つく。俺はこう見えてけっこう繊細な性格なのだ。自分で言ってりゃ世話はないが。
「いいの。彼の能力が必要なのよ。あなたの力も見せてあげて、チカ」
「あいあいさー!」
ジャージのポケットに手を突っ込み、取り出したのは……この場所には不釣り合いに見える、銀色のオイルライター。何をするつもりだ。まさかタバコを吸うわけではないだろう。
チカは慣れた手つきでライターを着火すると、反対の手を前方に突き出す。
「《灼熱の炎は告げる》!」
その声と共に、ライターの炎が大きく躍り上がる。
なるほど、炎を操る能力というわけか。ライターから離れた炎はチカの手の中で野球のボールのように凝る。チカはピッチャーのように腕を引き、炎の玉を――
ふと、イヤな予感がした。
「《天界の門扉は開かれた》!」
俺の詠唱はすんでのところで間に合い、チカの足を掴んだ風の手は彼女を仰向けに転倒させる。
「わわっ!?」
チカの手から放たれた炎のボールが、空中で爆発した。
「おいこらテメェ! いま何するつもりだった!」
「何って、アタシの力を……」
「あんな技ここで使ったら火事になるだろ! ふざけんな!」
ベンチの周囲は緑にあふれている。花壇はもちろん、近くにはようやく咲き始めたサザンカの木もあるのだ。引火でもしたらシャレにならない。
「そ、そしたらホラ、親分に直してもらえば」
「親分も親分なら子分も子分だな、おい。治せばいいってもんじゃねえだろ! 自分の身に置き換えて考えてみろよ! 『どうせ治るから』なんて言って、罪もないみんなを痛い目に遭わせて平気なのかよ!」
どうやら後先を考えずに行動したらしいチカは、「ごめん」と頭を下げる。素直でよろしい。
「謝る相手は俺じゃなくて、そっちだろ」
言い添えると、チカは文句を言うでもなく、サザンカや菊の花に「ごめんな」と声をかけた。
「それからもう一つ。……テメェ、スカートの下にスパッツ穿いてやがったな!? 卑怯だぞ!」
「見たのか!?」
はっ、とスカートの裾を押さえるチカ。いや、スパッツがあるなら隠す必要ないだろうが。
「仕方ないわ。それが彼の能力なのよ。女の子のスカートをめくってパンツを見る力」
「うわー……一瞬でもいいヤツかと思って損したぜ……」
チカの指先に、再び炎が灯る。いや待て待て、まさかお前、それは!
「親分。後始末はよろしくな」
「殺さないように気をつけてね。私、蘇生はできないから」
「ああ。努力する」
……その後何があったか、詳しく描写するのは控えることにする。
ただ、お花畑の向こうで、死んだひいばあちゃんが手を振っているのが見えたことだけは確かだ。
「気がつきまして?」
この世のものとは思えないほど美しい、そしてたぶんまだ見てはいけなかったお花畑から戻ってきた俺が目を開けると、そこにはひとりの女子生徒が微笑んでいた。
綺麗なひとだ。
ジュリアが戦女神なら、こちらはさしずめ聖母マリア。慈愛の眼差しに、しばし見とれてしまう。
リボンは臙脂色、徽章は金色。つまりジュリアと同じ一年Aクラスだ。
「お初にお目にかかります、畑山ミノルさん。わたくしは蜂屋姫華と申します。先ほどは、仲間が大変な失礼をいたしました。代わってお詫びいたしますわ」
上品な声に聞き惚れ、一瞬返事を忘れる。
「おい姐さん、そんなヤツに謝る必要ないって!」
「お黙りなさい。今回の件、反省すべきはあなたのほうですわよ、チカ」
穏やかだがどこか有無を言わせないその言葉に、チカはむくれながらも口を閉じた。
姿だけでなく、性格までお美しいとは。天は彼女に二物をお与えになった。いや、Aクラスの超能力者というのだから、それだけで三物か。
「それに、わたくしは常々言っていますでしょう。男なんて皆ケダモノ。触れる機会がないのならばせめて下着だけでも見たいと願うのも、哀れな男の性なのです。許しておやりなさい」
あれ。気のせいかな、なんだか微妙に罵倒されてる気がするぞ。
寝かされていたベンチから身を起こす。たしか数分前、チカに色々と人道的にアウトなことをされたような気がするのだが、俺の制服には焼け焦げひとつなく、身体も健康そのものだ。それどころか、持病の腰痛――園芸という趣味は腰への負担が大きいのだ――までもが楽になっているような気がする。
こんな奇跡を起こした当の本人たちはと見れば、ジュリアは隣のベンチでスマホの画面を睨んでおり、チカはそのかたわらで不機嫌そうにライターをいじっている。キナコ先輩はなぜか、そばの校舎の雨どいを登ろうとがんばっていた。
「あの、仲間ってことは、蜂屋さんも……その、暗殺計画の一員なんですか?」
声を落として訊ねると、蜂屋さんは「ええ」と慈母の笑みで頷いた。
「ジュリアの話はお聞きになりまして? 事情を知って、わたくしもジュリアの力になりたいと思いましたの」
たおやかな白い手が胸元に当てられる。あの可児ジュリアに、こんな優しい友人がいたとは。てっきり、Aクラスの中でも孤立しているのかと思っていた。
「すでに集まっている仲間の力を合わせれば、討ち果たせない敵などそうはいないでしょう。ただ……あの標的は、そのわずかな例外のひとりですわ。わたくしたちの能力はみな、標的が持つ能力との相性が良くありませんのよ」
「能力?」
言われて初めて気づいた。こんな学校を経営するくらいだから、理事長も超能力者であることくらい、少し考えれば想像できることだ。
「標的の能力《混沌なる理の蹂躙者》は未来予知の力。四秒先の危機を知り、備えることができますの。臼井先輩の能力は強力ですが機動力に欠けますから、まず間違いなく見切られてしまいますわ。チカの能力も、ライターの炎を固めて投げるまで、それなりに時間がかかります。たとえばあらかじめ、標的が大きな炎のそばに立っていてくれれば、チカはそれを操って攻撃することもできるのですけれど……それでも奇襲は叶いませんから、何とか工夫をしなければなりません」
言われてみれば、最初に能力を見せられたときも、チカが詠唱を始めた後でこちらが対応するだけの時間の余裕があった。
「わたくしの力も、標的の暗殺には不向きですわ。速さには自信がありますから、未来を見て動いた標的の反応を見て、そこからさらに手を変えることによって、予知を無効化することはできます。ですがわたくしの能力には、臼井先輩やチカのような強さはありません。奇襲ができないのは先ほど申し上げた通りですけれど、正面から挑んだのでは、浅い傷を負わせるのがせいぜいでしょう。……ですから、わたくしたちは、他にも仲間を必要としていたのです。たとえば、危機を予知できたとしても避けることができないよう、標的を足止めしておく力のような」
「あ……それで、俺を?」
「そうよ。あんたのそのゴミクズみたいな能力を、私が有効活用してあげようって言ってるの」
ジュリアが口を挟む。彼女のスマートフォンには、いつの間にかどこかの家の間取り図が表示されていた。
「――作戦を立てたわ。聞いてちょうだい」
夜空はどんよりと曇っていて、月どころか星の光も見えない。
標的である理事長の家は、人里離れた山の中にあった。広い敷地を贅沢に使った白亜の豪邸は、太陽の下でこそ本来の魅力を発揮するのだろう。夜闇の中では、どこか存在が場違いな印象を受ける。窓からリビングを覗けば、暖炉のそばに揺り椅子が置かれている。ガラスの扉を隔てて、庭には水をたたえたプール。この季節だから泳ぐわけでもないだろうが、わざわざ水を張っているのは趣味なのか、それともメンテナンス上の理由でもあるのか。
そんな豪邸の庭に、俺はジュリアと共に潜んでいた。覆面で顔を隠した黒ずくめの姿は、どこからどう見ても立派な不法侵入者である。見つかったら最後、社会的に死ねる。
「今さらビクビクしないでよ。もし失敗したら、おそらくもう同じ手は通用しないんだから。練習通り、よろしくね」
「分かってるよ……」
作戦の説明を受けたあと、俺達は数日をかけ、入念にリハーサルを繰り返した。Eクラスの俺がジュリア達と一緒にいる理由は、表向き、俺の花壇にジュリアが興味を持ったからということになっている。心にもないことをよく言うよ、とは思ったが、口にしたらまたこんがりウェルダンにされそうなのでやめておいた。
「安心なさい。もしバレたって、あんたのことは、私が無理やり従わせただけってことにしておくから。ま、この学校には居づらくなるかもしれないけど、あんたなんか普通高校のほうがずっとマシな生活できるでしょ。だいたい、そんな能力持ちで、どうして緋神に来ようと思ったの?」
そんな話してる場合じゃないだろ――と言いかけたところで、ジュリアの膝がかすかに震えていることに気付いた。何のことはない、こいつもこいつなりに緊張しているのだ。暗闇の中、黙って待つのが耐えられなかったのだろう。なんだ、少しは可愛いところもあるじゃないか。少しは。
「……初恋の人が、たぶんこの学校にいるんだ」
「たぶん?」
「ああ。その時はまだ、俺もその子も超能力には目覚めてなかったから。でも、その子は潜在能力がすごく高かったみたいだし、まず間違いなく緋神に来るくらいの超能力者になってると思う。……俺さ、両親も能力者だから、小さい頃から検査とかしてたんだ。そのときに知り合ったのが、同い年のその子。母親同士が仲良くなったみたいで、機会があるたびに一緒に遊んでた。それまで嫌いだった検査も、あの子に会えると思ったら楽しくなって……たぶんあれが、俺の初恋だったんだと思う。小さい頃の話だから、顔もろくに覚えてないんだけど、会ったらきっと思い出すさ。ああ、お前ではないから安心しろ。あの子はお前みたいなひねくれた性格じゃなかったし、なにより花が大好きだったからな」
もしあの子なら、踏み荒らした花壇をそのままにして立ち去るようなことは絶対にしない。燃え移りそうな場所で火を放つようなことも、それを看過することもしないだろう。
「へえ。でもその女の子も、あんたの能力見たらさすがに幻滅するかもね。怖くはないの?」
「そりゃあ、怖いよ。少なくとも、女の子に好かれるような力じゃないのは分かってるしさ。でも、たったそれだけの理由で俺が諦めるのはおかしいだろ。これは今さらどうにかできるものじゃないんだから、正直に言うしかない」
暗闇に慣れた視界の中で、ジュリアが呆れたように肩をすくめる。
「あんたは強いのね。少しだけ尊敬するわ」
「はぁ? なんでお前が。どう考えたって、お前の方がずっと強いだろ」
「それはクラスが上、っていう話?」
「なんでそうなるんだ。あの三人見てりゃ、あいつらがどんだけお前を信頼してるかよく分かる。お前は確かにウワサ通りのイイ性格だが、ただそれだけの女なら、仲間集めて仇討ちなんてできねーよ。遊びに行くのとは違うんだぜ」
屋根の上で機を窺っているキナコ先輩は、手をマメだらけにして高い場所によじ登る練習をしていた。窓のそばに身を潜めているチカは、少しでも炎のコントロールを良くしようと、こっそり陰で特訓していた(隠しているつもりだったのはチカ本人だけかもしれないが)。プールのそばで四つん這いになって茂みの裏に隠れる蜂屋さんの姿は、普段の上品な彼女を知る者が見ればさぞかし驚くだろう。どういう経緯で彼女達が仲間になったのかは知らないが、少なくとも脅されて仲間になっているようには見えない。
「……あんたは? どうして来てくれたの?」
「もう痛い目は見たくないし、それに……お前の言うとおり、クソみたいな能力だからな。女子に使えるって言われたのは初めてだったから、その、……嬉しかったんだよ、ちょっとは」
おい、ここで「うわぁ……」って顔すんなよ! どうせ俺はかわいそうな生き物だよ! でもここは普通、もっといい雰囲気になるシーンだろ!
「――しっ、来たわ」
不意にジュリアが表情を引き締め、唇の前で指を立てる。遠くで車の音がした。理事長が帰ってきたのだ。
ジュリアが立てた作戦は、俺たちの能力をフルに使った波状攻撃。しくじって逃げられることは何としてでも避けたい。あいつは何をしでかしてもおかしくない相手だとジュリアは言った。ジュリアの両親を殺している以上、今さら襲撃者を殺すことに躊躇もあるまい。夜が明けたとき、俺はどうなっているのだろう。復讐を果たして逃亡しているのか、警察のお縄についているのか、はたまた死体になっているのか。今さらながらに悪寒が背筋を這い上る。
リビングに電気が点いた。俺とジュリアは息を殺しつつ、いつでも出られるように構える。視線を向けるのは窓の下、壁に耳を寄せ、目を閉じているチカだ。聞き耳を立てているわけではない。彼女が探っているのは、室内の暖炉にある炎の気配。自分の周囲、半径およそ三~四メートルの範囲なら、チカはそこにある炎の存在を認識し、自由に操ることができる。火勢を強めることも弱めることも、任意の方向に広げることも。
秋になり、理事長が暖炉を使い始めたことは分かっていた。ジュリアがどうやってそれを調べたのかは聞いていないが、おそらく今日のように不法侵入したのだろう。なにせ侵入は随分と手慣れていた。
やがてチカの手元で小さな光が点り、すぐに消える。蜂屋さんやキナコ先輩からも、その光はよく見えたはずだ。オイルライターによる合図は、暖炉の火が充分に燃え上がったことを示すもの。
そして、俺たちの作戦が始まる。後戻りは、できない。
ぱちぱちと穏やかに燃えていた暖炉の炎が、不意に爆発するように膨らんだ。否、それは彼が予知した四秒後の未来。門木サトルは跳ね上がるようにロッキングチェアから立ち上がり、暖炉から距離を取る。そこで四秒が経過。予知したビジョンに現実が追いつき、暖炉の炎が爆ぜてロッキングチェアを呑み込む。再びの予知。炎のラインが走り、部屋をぐるりと取り囲む。即座に逃げるならどちらか。プールが目に入る。咄嗟にそちらへ走った。背後から炎が追ってくる。逃れられない。迷わずプールに飛び込んだ。これでもう炎は怖くない。
だが一息つく間もなく、門木の脳裏に新たな予知が閃く。
「くそっ」
あの炎そのものが陽動か。水の中では動きが鈍る。濡れて重くなった服に動きを阻まれながら、門木はプールサイドに這い上がる。間髪入れずに襲ってきたのは銀色に輝く細い刃たち。だが水を吸った上着は逆に頑丈な盾となり、次々と飛来する刃を逸らし、あるいは受け止める。弾かれた刃は地面に落ちると同時に砕けて消えた。門木は腕で顔と胸元をかばいながら周囲を見回す。新たな刃がベルトごとズボンの腰のあたりを切り裂いた。ずり下がったズボンが足に絡みつく。足を狙ってさらなる攻撃。傷は浅い。だがその頃には、門木は闇に潜む襲撃者の姿を見つけていた。
「そこか!」
ズボンから足を引き抜きながら、上着の内側に留めてあった拳銃を抜く。近ごろ自分の周囲を嗅ぎ回っている者の存在に気付いていた門木は、護身のため裏ルートで銃を手に入れていたのだ。薬莢は密閉されているから、水に濡れたところで撃てなくなる心配もない。期待通り、爽快な音と共に弾丸が発射された。周囲に民家のない場所に住んでいるメリットのひとつは、少々派手に暴れても他人に気付かれないところだ。
「当たるものですか」
黒ずくめの人物が物陰から姿を現す。
「銃身に水が入れば、弾丸はその抵抗を受けます。思うさま飛ぶはずがありませんわ。使い慣れていないのがよく分かります」
覆面をしてはいるが、それが女性であることに間違いはない。だが先ほどの様子からして超能力者だ。学園の生徒か、と考えるが、在校生だけで数百名、卒業生を含めれば門木が知っているだけでも数千人に上る超能力者たちの能力など、いちいち覚えているはずもない。
「この剣でわたくしと勝負なさい。ただし、そのみっともない下着は隠してくださいまし」
言いながら、女はフェンシングに使うような細剣と、バスタオルを放って寄越す。女の手にも同じ細剣があった。
じわり、とその声が脳髄に染み渡る。まるで傷口から毒が回るように、その命令が思考に染み込む。精神操作系か、と考えたが、この程度ならば簡単に抵抗できる。とはいえ、ここは素直に従ったふりをして、相手を油断させるのも悪くない手だ。
女の視線はぴたりとこちらに向けられているが、いざ手を出すつもりならば、その四秒前に門木はそれを予知できる。女の様子を窺いながらバスタオルを腰に巻き、剣を拾い上げた。
とはいえ、門木にフェンシングの心得はない。ならばここは逃げるまで。見れば室内の炎は既に消えている。一方で、庭には他にも侵入者が潜んでいる気配を感じた。そのうちの一人は、おそらく先ほど暖炉の火を操った炎使い。だが、その攻撃は門木の予知能力で充分に回避可能だ。ならば向かうべきは、家の中にあるセーフルーム。本来は強盗に襲われたときなどのためにある、耐火・耐衝撃の設備を備えた小部屋。中には食料も武器もあり、通信機器で警察を、あるいは他の掃除屋を呼ぶこともできる。
襲撃者の素性については、正直なところ、心当たりがありすぎて分からない。ゆえに相手の狙いは不明。
四秒後に女が動く。それを察知して門木は家の中へと動いた。未来が変わる。新たな襲撃があれば、さらなる予知があるはずだ。
だが、その足が唐突に、何者かによって掴まれた。
「なに?」
風でできた手のようなものに足首を絡め取られ、転倒する。他の侵入者の能力か、と舌打ちした。予知できなかったのは、能力の発動速度の問題か、あるいはこの足止めが脅威として認識されなかったのか。
そんな思考と同時に、さらなる予知。
「!」
屋根の上。避けようとしたが、立ち上がる傍からあの忌々しい手が湧き上がり、門木を放さない。
「覚悟!」
その声と共に背中に強い衝撃を感じ、門木の意識は途切れた。
「や……やった……!」
肩で息をしながら、キナコ先輩が頬を緩める。先輩のハンマーが直撃したことで、門木はぐったりと気絶していた。
「まさか、こんなに思い通りに動いてくださるとは思いませんでしたわ」
蜂屋さんが小さく首を振る。最も予想外の展開に見舞われたのは蜂屋さんだろうに、この冷静さは大したものだ。蜂屋さんの能力、《死と疾風の輪舞曲》は思った以上に濡れた服に弾かれてしまったし、まさか標的が拳銃を常備しているとも思わなかった。ちなみに、ただあの程度の刃を撃ち出すだけの能力でAクラスにいられるとも思えないのだが、その辺りを訊ねたときには「女には秘密がつきものですわ」とはぐらかされてしまった。実のところ、名称と外見はブラフで、本質はもっと恐ろしい能力なのかもしれない。
さらに言えば、俺の能力が効くかどうかは、門木の服装にもかかっていた。きっちりズボンを穿かれていては能力が発動しない。もしもズボンを穿いていた場合、それを脱がせてからタオルを巻かせてスカート代わりにする、というのが作戦だったが、見事にかかってくれたことにはほっとした。あれがなければ、俺の能力は発動条件を満たせず、キナコ先輩の奇襲の成功率はずいぶん下がったことだろう。
「でも、どうして俺の能力はあんなにあっさり効いたんだ? 予知されてたんだよな?」
「されなかったんじゃないかしら。あんたに転ばされたとき、ちっとも痛くなかったのよね。チカもそう言ってたから、きっとあんた、相手の女の子を傷付けないように気を遣ってるんじゃないかと思って。男がパンツを見られたって気にもならないだろうから、あんたの能力は危機として認識されず、結果として予知されなかった――と私は見ているわ」
なるほど。「あんたはとにかく能力を使い続けさえすればどうにかなる」と事前にジュリアに言われていた意味が、何となく分かった。
「さて、と」
ジュリアは覆面を外し、持参したナイフを鞘から抜く。理事長は気絶している。今なら殺せるだろう。
「両親の仇、取らせてもらうわ」
理事長の腰に片足を載せたまま、キナコ先輩がハンマーを消す。ジュリアは包丁を振り上げた。思いきり振り下ろせば、きっと理事長を殺せるだろう。
蜂屋さんとチカ、そして俺はそのそばで、ジュリアの様子を見守る。そうだ。とどめを刺すのは彼女であるべきだ。これは彼女の復讐なのだから。
しかし。
「……親分?」
ジュリアの腕は震えたまま、一向に振り下ろされる様子がない。
そして彼女の双眸から、脈絡なく涙がこぼれ落ちた。
「なんで……」
か細い声。
「なんでよ……私はこいつを殺すのよ、そのために……皆にだって……」
ジュリアは顔をゆがめる。
要するに――ここへ来て、ためらっているのだ。彼女は。
結果的にはこうして捕縛する形になったが、チカの炎が理事長を焼き焦がす可能性はあった。蜂屋さんの刃が急所を貫く可能性もあった。キナコ先輩のハンマーが理事長の頭を叩き潰す可能性もあった。俺……にはおそらく無理だったと思うが、彼女達の誰が殺人者になっても、おかしくはなかった。
だというのに、肝心のジュリアが尻込みするのは、あまりにも無責任な行為と言える。
そう思う一方で、ジュリアに同情する気持ちもあった。そもそも、ジュリアだって普通の女の子だ。殺人なんて、ためらうのが当然じゃないか。チカ達を否定するわけではないが、しかし、彼女はきっと、根は優しい子なのだ。
ひとつため息をつく。こんな女のために気を遣ってやるのは癪だが、乗りかかった船だ。
「ジュリア」
俺は落ちていた理事長の拳銃を拾い、空いた手でジュリアの手首を掴む。びくりとジュリアが震え、その手からナイフがこぼれ落ちた。
「お前がやらないのなら俺がやる。嫌ならそう言え」
「ちょっ……なに言ってんの!? あんた、自分がなに言ってるか分かってんの!?」
「お前こそ、自分が何をしようとしてるのか分かってないんじゃないのか? 親が死んだときに目覚めた力は、人を癒すための力だったんだろ? 相手を殺す力じゃなくて、生かすための力だったんだろ? それがお前の、心からの願いだったんだろ? そんなお人好しに、最初から復讐なんて向いてねえんだよ」
「そっ……それはあんたも同じでしょ! あんな人畜無害な能力! 知ってるわよ、あんた潜在能力は相当なんでしょ、それなのにそんな、人に傷ひとつ付けられないような力……」
俺は理事長のこめかみに拳銃を押し当てた。銃身に水が入ってどうこう、とかなんとか蜂屋さんが言っていたが、この距離ならそれでも絶対に外さない。
「もう一度言うぞ。嫌なら、嫌だと言え。俺はお前に従う。お前が殺せと言うなら殺すし、殺すなというなら殺さない」
ここで力ずくで彼女を止めても、どうせ意味がない。俺が問答無用でこいつを殺しても、やはりきっと意味がない。どちらにせよ、ジュリアは全てを俺のせいにしながら、いつまでも後悔を続けるだけだ。だからと言って、ぐだぐだとジュリアを悩ませている時間もない。理事長がいつ目を覚ますか、分かったものではないのだ。
「親分」
チカが困った顔をしながら頬を掻く。
「アタシは別に、どっちでもいいんだぜ。親分の好きなほうでさ」
「ジュリアの気が済むのなら、わたくしもどちらでも構いません。調べた限り、この男は生きている価値も感じられない屑ではありますけれど、制裁の方法はなにも暗殺だけではありませんわ」
「え、えっ? わ、わたしも、ジュリアちゃんの好きなほうでいいとは思うけど……」
俺とジュリアの顔を交互に見ながら、おろおろとキナコ先輩が言う。蜂屋さんが何か怖いことを言っている気がするが、細かいことは後で考えよう。
「みんな……」
しばらくの沈黙の後、ジュリアは震える声で言った。
「こいつのことは、殺さない。制裁は、違う形で受けさせてやるわ。……ごめんなさい、ありがとう」
ベンチに腰かけて花壇を眺める。咲き誇る花々は、今日もみんな綺麗だ。心が癒される。
足音がして視線を向ければ、そこにはしおらしい表情の可児ジュリアが立っていた。
「よう。もういいのか」
あれから数日、ジュリアは学校を休んでいた。蜂屋さんは「ホッとして気が抜けたのでしょう。心配は要りませんわ」と言っていたが、やはり気になっていたのだ。
「平気よ。いろいろ迷惑かけて、悪かったわね」
「ま、結果オーライだな。……お前は、あれで良かったのか?」
結局あのあと、俺たちは理事長を縛り上げ、蜂屋さんの先導で家捜しをした。見つかったキナ臭い計画書や薬品や武器を、すぐに見つかるような場所に並べた上で、警察に通報して逃走。蜂屋さん曰く、「あの男の証言からわたくしたちの素性がばれれば、多少のお咎めはあるかもしれませんけれど、上手く握りつぶせるでしょう。あの男には敵が多いので、皆さん良くしてくださると思いますわ」とのことだ。幸いなことに、まだ俺のところに警察は来ていない。
「そうね。色々考えたけど……きっと、ああするべきだったのよ。みんなに危険を背負わせて、自分だけ逃げるなんてダメだって思ってたのに。みんながあんな風に思っててくれたなんて、私、全然知らなかった」
空を見上げ、ジュリアは自嘲めいた笑みを漏らす。
「良かったな。お前の気が済んだって言うんなら、きっとみんなも喜ぶよ。あいつら、きっとお前のこと大好きだからな」
「そうかしら」
「そうだよ」
殺さない、とジュリアが告げた瞬間、チカも蜂屋さんもホッとしたのが分かった。キナコ先輩だけはしばらく不安げにしていたが、それは単に、ジュリアが俺に言われてしぶしぶ手を引いたのではないかと疑っていたためらしい。その後のジュリアの様子を見て、その疑惑も払拭されたようだった。
「さて、もうこれで俺に用はないだろ。もう無理して来なくていいぜ、Eクラスの俺なんかに構うことはないし、そもそも花は大嫌いなんだろ?」
「……嫌いだったわ。花を見ると、母のことを思い出すんだもの。《生命の果実》だけじゃなく、どんな花も木も、母の庭では本当に綺麗に咲いたわ。私も父も、そんな母の庭を見るのが好きだった。あの頃は、本当に幸せだったわ……」
呟くジュリアの顔には、門木への恨みの代わりに、どこか寂しげな、けれど優しい笑みが浮かぶ。
「ねえ、ひとつ聞いてもいいかしら」
「ん?」
「あの日言ってた、初恋の人のこと……今でも、好き?」
「どうだろう……会ってみないと分かんない、かな。俺もあの子も、ガキの頃とはすっかり変わってるんだろうし」
「そうよね。十年も経てば、お互いすっかり変わって……向こうの女の子だって、あんたのこと、分からなくても仕方ないわよね」
「何が言いたいんだ?」
話が見えずに首を傾げると、ジュリアはくすりと笑う。
「さあ、なんでしょう」
――あれ?
不意に懐かしさを覚えて、俺は目を瞬く。
ジュリアの笑顔はどこか、遠い記憶の中にある少女のものと、よく似ているような気がした。
(完)
今さらご説明するまでもないかと思いますが、「さるかに合戦」はサルに騙されてカニが殺され、カニの子供が栗と蜂と臼と牛糞を仲間にしてサルに復讐するお話です。牛糞は話によって昆布だったり小石だったり、はたまた省略されていたりしますが、今回は牛糞をイメージして書いています。要するに主人公は牛糞です。ジュリアがクソだクソだと言ってるのはたぶんそのせいです。
初投稿なので、お見苦しいところなどありましたら申し訳ありません。読んでくださってありがとうございます。