勇者は何も知らず
一癖も二癖もありそうな王女殿下が、何やら不穏な動きを見せていた、その頃。
神聖王国レザリスがある世界とは異なる世界にある地球、日本では、とある住宅街に埋もれたある家で、食卓に着いた七瀬鉄男が、夕食に舌鼓を打っていた。
本日のメニューは、焼き肉である。
国産の黒い牛さんを、テーブルの大部分を占拠したホットプレートで焼き、辛めのタレに浸して口へと運ぶ。肉の旨味とタレの甘辛さが絶妙にマッチして、噛み締めたそばからあふれ出る肉汁が、じんわりと広がり舌を蹂躙する。至極幸せそうに頬をゆるめる鉄男は、反抗したりする気配は一切見せず、むしろ白旗振って降伏する事こそ至福である、というような表情で黙々と咀嚼した。
一思いに食べきってしまうのもいい。だが、肉単体の味はすでに一口目と二口目でしっかり堪能したので、今はあえてそこを堪え、急いで炊き立ての白いご飯を掻き込む。熱々のご飯がタレの辛さを際立たせ、かつ米の甘さが肉の旨味を引き立たせる。
魚にはご飯。肉にもご飯。
日本人に生まれてきて良かった、と強烈に思わせてくれる一瞬である。
始終満ち足りた様子で肉を食らい、米を頬張り、食べ頃の肉や野菜を見定めては休まず己の皿へ、そして口へと運ぶ鉄男は、当然ながら、存在を知りもしない遠い異世界の情勢や不穏な動きなど、まったく感知していない。彼の頭の中は今、終わりゆく一日への充足と、それを締めくくるに相応しい焼肉の事だけでいっぱいなのだ。
―――うん、カボチャも甘い。これは当たりだ。
ご満悦の様子で、少々行儀は悪いがカボチャを運んだ箸をそのまま銜え、ニッコリと微笑む鉄男は、だから、気付くのが遅れた。
いや、気付くのが遅れたのは、何も鉄男の意識が目の前の鉄板に集中していたからだけではない。異変は、鉄男の足元から――ホットプレートとそれが乗ったテーブルの真下から、始まったのだ。…つまり、完全に遮られて、視界に入らなかったのである。
ダイニングテーブル付属の椅子に腰掛けた鉄男の足元、イボ付きスリッパを履いた足の真下に、何の音もなく、小さな図形が現れた。記号のようなもので装飾された円形のそれは、突然現れただけでは飽き足らず、奇妙を重ねるように赤く発光していた。
少しでも知識のある者が見れば、それがいわゆる《魔法陣》である事に気が付いたかもしれない。だが、テーブルの下を覗き込みでもしない限り、到底気付けるような大きさではなかった為、鉄男はまったく、微塵も、1ミクロン程も気付く事なく、いい具合に油の染み込んだ茄子に箸を伸ばしていた。そろそろ玉ねぎも頃合いである。
鉄男が熱々の茄子をタレに浸し、焼き立て具合に嬉しそうに苦戦している間も、謎の魔法陣は沈黙を守ってテーブルの裏側を赤く照らしていたのだが、しかし次の瞬間、驚くべき性急さでその紋様を拡大させた。正確な大きさをいえば、スリッパ2足分から、ダイニングテーブルを丸々一つ乗せて余りある程である。
ここに至って…テーブルの真下から赤い光がはみ出るに至って、ようやく鉄男は己の身に降りかかった超常現象に気が付いたのだ。
「ん?」
とは言っても、自宅という安全地帯での【幸せお食事モード】だった鉄男の頭が、わからないなりにも状況の異常さに警戒を抱く【臨戦モード】に素早く移行する事は、現実的に無理で、そもそも戦争を体験していなければ喧嘩もあまり好まない鉄男に【臨戦モード】なる物騒なものは最初から設定されていないので、つまる所、結局鉄男は、焼肉と白米の素晴らしき共闘をもぐもぐ堪能しながら、何を理解する間もなく、赤い光の渦に呑み込まれたのである。