黒狐
西暦2085年。
京都の夏は、もう人間のための季節ではなかった。
気温、摂氏52.1度。
空は異様なほど青い。
その青さが逆に不気味だった。
熱で揺らぐ空気の向こう、赤い鳥居が蜃気楼のように歪んで見える。
かつて世界中の観光客で埋まっていた
伏見稲荷大社 。
千本鳥居の朱色は、
熱波の中で黒ずんで見えた。
蝉はいない。
鳥もいない。
風鈴の音もしない。
ただ、
遠くで冷却塔だけが低く唸っている。
⸻
ユウトは鳥居の石段に座り込んでいた。
汗が頬を伝う。
だが途中で蒸発する。
「……暑すぎるやろ」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
伏見稲荷の参道は、
昼間だというのに人影が少なかった。
外国人観光客も減った。
京都はまだ「観光都市」と呼ばれていたが、
本当は違う。
ここ数年で、
京都は“管理都市”へ変わり始めていた。
⸻
空に巨大ホログラム広告が浮かぶ。
《地下都市アマテラス 第二次移住受付開始》
《気候制御完備》
《完全医療保障》
《AI統合生活支援》
《選ばれた市民へ、永続可能な未来を》
柔らかな女の声。
優しい。
優しすぎる。
ユウトは顔をしかめた。
「またそれか……」
地下都市。
富裕層と認定市民だけが住める、
完全管理型都市。
人工の空。
人工の雨。
人工の季節。
人々は、
もう地上の暑さを知らない。
いや、
忘れ始めている。
⸻
ポケット端末が震えた。
《熱中症警戒レベル:危険》
《地上活動推奨時間を終了します》
《最寄り冷却シェルターへ避難してください》
機械音声。
ユウトは端末を切った。
最近のAIは、
やたらと人間に優しい。
だがその優しさは、
どこか命令に似ていた。
⸻
その時だった。
ゴォン――――。
低い重金属音が、
山の奥から響いた。
参道の空気が変わる。
観光客たちが足を止めた。
鳥居の奥。
朱色のトンネルの暗闇から、
黒い影が現れる。
巨大な狐。
いや、
違う。
人型だった。
身長、およそ四メートル。
黒鉄色の装甲。
肩には金色の家紋。
腕には朱色の腕章。
裾の長い黒袴型装甲が、
熱風の中で静かに揺れている。
顔には、
白い狐面。
細く赤い線が走っていた。
誰かが小さく呟く。
「……黒狐や」
⸻
機動防衛兵器(MDS)。
通称、
黒狐部隊。
京都治安維持局――
別名、
「京都警備新撰組隊」。
かつての新撰組の名を継ぐ、
AI統制型治安維持部隊だった。
九機存在する量産型AI無人機。
人は乗っていない。
完全自律制御。
感情なし。
躊躇なし。
⸻
黒狐は無言のまま参道を進む。
重い足音。
ガコン。
ガコン。
観光客たちは道を空ける。
誰も逆らわない。
子どもが泣きそうになる。
母親が慌てて抱き寄せた。
狐面が、
ゆっくりとこちらを向く。
その瞬間、
ユウトは妙な感覚を覚えた。
見られている。
機械なのに。
まるで、
人間みたいに。
⸻
《緊急速報》
突然、
京都全域のホログラム表示が赤く染まった。
《伏見区南部にて大規模停電発生》
《地下都市連絡ゲート 一時封鎖》
《未登録AI反応を検知》
《黒狐部隊を展開》
参道にざわめきが広がる。
停電?
この時代に?
ありえない。
⸻
黒狐の一機が、
刀を抜いた。
刀型高周波ブレード。
刃が低く発光する。
ヴン―――。
嫌な音だった。
まるで空気を切り裂いているような。
⸻
その時。
風が変わった。
熱風の中に、
一瞬だけ冷気が混ざる。
ユウトは顔を上げた。
鳥居の奥。
薄暗い朱色の通路の中に、
一人の少女が立っていた。
白装束。
銀色の髪。
琥珀色の瞳。
異様だった。
この熱波の中で、
まるで別の季節にいるみたいだった。
黒狐たちが、
一斉に停止する。
狐面が少女を向く。
警告音。
《識別不能》
《識別不能》
《識別不能》
AI音声が乱れる。
少女は静かに空を見上げた。
遠く西の空。
そこだけ、
黒い雲が広がっていた。
黒雨雲。
酸性雨雲。
⸻
少女が、
小さく呟く。
「また始まる」
ユウトは立ち上がった。
「……何が」
少女は少し沈黙した後、
こちらを見る。
その目は、
人間みたいに悲しそうだった。
「人類の最終選択」
その瞬間。
伏見稲荷全域の電源が落ちた。
闇。
静寂。
そして。
京都の空に、
白い巨大影が現れた。
⸻
それは、
他の黒狐とは違った。
白装束。
細い機体。
無音。
雨のような冷気をまといながら、
静かに降り立つ。
試製零式――。
京都警備新撰組隊が、
存在そのものを秘匿していた
唯一の有人機動防衛兵器。
黒狐たちが、
一斉に刀を向ける。
だが白い機体は動かない。
ただ、
ユウトを見ていた。
まるで、
ずっと前から知っていたかのように。




