第八夜「清洲炎上 ― 理と情の橋 ―」
理で橋を断ち、情で門を開く――。
その夜、美濃と尾張の境に立つ二人の若者が、
“戦”という名の炎の中で、それぞれの正義を選んだ。
今宵は、利尚様のもとに集う知略と情熱の夜。
その夜のバー〈ゴールデン戦国〉は、いつもより静かでね。
雨が細かく降って、街の灯りがグラスの縁で揺れていたわ。
常連の青年が、小さな声でこぼしたの。
「間に立つのって、しんどいですね。
上司の理屈もわかるし、後輩の気持ちもわかる。
でも片方を立てれば、もう片方に刺されるんです」
あたしは琥珀色の酒を注ぎながら、ほんのり肩を揺らした。
「それはね、“橋の役目”ってやつよ。
理と情、片方だけで立とうとすると、折れちゃうの。
今夜は、その橋を渡った者たちの話をしてあげるわ。
墨俣では“理”が橋を落とし、清洲では“情”が門を開けた。
戦で人を繋いだ、ふたりの若武者の物語よ」
グラスを差し出して、ささやいた。
「今夜のおすすめは“熱燗のにごり酒”。
芯があって柔らかい――理と情の間みたいな味よ。
おつまみは“炙りエイヒレと山椒の佃煮”。
噛むほどに深くなるわ。人の縁もそうでしょ?
さ、物語の橋を一緒に渡りましょ」
◆
稲葉一鉄が眉をつり上げた。
「橋を壊せば、民が困る!」
半兵衛は、静かに筆を置いた。
「……理解されぬか。やはり凡俗の戦だ」
その時、利尚様が低く問われた。
「待て。その策、どこまで“壊す”つもりだ?」
半兵衛は迷いなく答えた。
「完全には落としません。
夜明け前に支柱を緩め、流れに任せて橋板を落とす。
敵を渡らせぬ“時間”を得るだけ。
橋は後に再建できます」
利尚様は深く頷かれた。
「理に叶っている。橋を殺さぬ戦、よいではないか」
稲葉は息を詰め、深く頭を下げた。
「すまぬ、早計だった。そなたの理、見事だ」
その瞬間、半兵衛の肩がわずかに震えた。
「……初めて、“理解された”気がします」
墨俣の川辺に火が揺れた。
雨上がりの空気の中、燃え落ちる橋が水面に伸びて、
まるで時代そのものが軋んでいるようだったわ。
“理の橋”はたしかに崩れた。
けれど、あれは破壊ではなく、次へ渡すための“理の手”だったの。
◆
風向きが変わる頃、尾張・清洲には油と火薬の匂いが流れていた。
あたし――ヨシエは、織田信友の前に立っていたのよ。
あの人の目、誇りと恐れを一緒に抱えてる、不器用な光だったわ。
「このままじゃ、尾張は若造の信長に呑まれるわよ」
信友の視線が鋭くなる。
「貴様、美濃の者か」
「ええ。でもね、利口な人は“敵の理”すら味方にするの。
利尚様は“国を護る理”。
信長は“国を呑む欲”。
あなたは、どちらに従う方が誇りなの?」
信友の握った拳が震えた。
「尾張の弾正忠の若造に屈するより……
室町に名を持つ守護代・斎藤家に従う方が、まだ武士の面目が立つわ!
それに……信長は己の邪魔と見れば、叔父すら斬る男だ。
ならば、斬られる前に――こちらが道を選ぶまでよ!」
あたしは扇を軽く開いた。
「なら、門を開けなさい。誇りを選ぶなら、今よ」
夜明け前、清洲の門が重く軋いて開き始めた。
三つの松明が掲げられ、利尚軍の旗が闇を割った。
炎が上がり、清洲の空は赤く染まる。
信長方の兵が叫び、散っていった。
轟音の中で、利尚様はふっと立ち止まった。
「父上……あなたの“利”は、ここにあったのか」
あたしはその背に、そっと言葉を落とした。
「違うわ。あなたが“情”を持ったから、皆が動いたのよ」
墨俣の理が橋を守り、清洲の情が門を開けた。
理と情、その二つが一つの勝利をつくった夜だった。
◆
そして、夜が明けた。
焼け跡の向こうで朝日が昇り、焦げた風が頬を撫でる。
利尚様のマントが、薄い光の中でゆらめいた。
その背中はもう、“戦う人”ではなかった。
“築く人”になっていたのよ。
「父上の理、私の情――
その橋を渡って、天下を見せてやる」
遠く、川辺には半兵衛の姿。
その瞳には、初めて“人の温度”が宿っていたわ。
理と情。
どちらが正しいかなんて、たぶん一生わからないわねぇ。
けれど、どちらかだけを選んだ瞬間に、人は不器用になっちゃうの。
“理”で繋ぎ、“情”で歩く――それが、人と人の橋の渡り方。
さあ、今夜の一杯をもう少しだけ。
熱燗のにごり酒をもうひと口。
冷めかけたエイヒレをあぶり直して、山椒の香りを足しましょうか。
ほら、湯気の向こうに見えるでしょ。
燃える城、そして――夜明けを見上げる利尚様の背中が。




