第七夜 「長良川の別れ ― 父と子、利と情」
いらっしゃい、坊や。
あら、今日はずいぶん顔が硬いじゃない。
先代と揉めた? それとも、信じてた人に裏切られたのかしら。
……そういう夜はね、あたしも胸の奥がざわつくの。
だって――あたしが“利尚様”に仕えてた頃も、
“信じたい心”と“譲れない正しさ”がぶつかってたんだもの。
戦国でいちばん難しいのは、“戦うこと”じゃなくて“やめること”。
誰もが勝ちたがるけど、誰も譲りたがらない。
そしてその果てに、父と子が刃を交える夜が来たのよ。
今夜はね、美濃を揺るがせた――“情と利の最終章”。
長良川の雨の中で散った、あの親子の物語を聞いてちょうだい。
利で国を護ろうとした父と、情で人を救おうとした子。
どちらも間違ってなんかいなかったのにね……。
バー〈ゴールデン戦国〉の夜は、しんと静まり返ってたの。
外は雨。店の灯りがグラスの底に滲んで、まるで涙みたいに揺れてた。
青年がぽつりと漏らしたのよ。
「……僕の上司、変化を嫌うんです。新しい提案をしても、“昔ながらでいい”って。
どうして分かってくれないんでしょうね」
あたしはシェイカーを止めて、にやりと笑ったわ。
「フフン、坊や。それはねぇ、“守る側”の愛と、“変えたい側”の情がぶつかってるのよ。
まるで――利尚様と道三様、長良川の夜みたいじゃないの」
「……長良川の夜?」
「そうよ。今宵の一杯はその夜にぴったり。
グレンモーレンジィ18年。スコッチの女王って呼ばれる逸品よ。
蜂蜜みたいな甘みと深い余韻が、父と子の愛憎にぴったり。
おつまみは“トリュフ香るマッシュポテトとローストビーフのミニプレート”。
柔らかさの奥にちょっとだけ苦みが潜んでて……まるで人生よ〜」
青年はうなずいた。
「あの夜、聞いてみたいです」
あたしはグラスを傾けて、静かに笑ったの。
「じゃあ聞かせてあげるわ。長良川の雨の夜――“利と情”がぶつかった、父と子の物語をね」
夜明け前の長良川。
霧と雨が混ざり合い、世界の輪郭がぼやけていた。
利尚様の陣には、冷たい風が吹き抜けていた。
「父上を討たねば、民はまた争いに巻き込まれる……」
その声には、強さと迷いが同居していた。
あたしは胸の奥で小さくつぶやく。
(あ、あの……そ、その……殿って……やっぱり……情の、かたまり……ですよね……)
あたしには、利尚様の言葉が深すぎた。
「……ヨシエ。震えているのか」
利尚様が横目でこちらを見る。
その声音は優しいのに、あたしの胸の奥が、なぜかひゅっとつまった。
「い、いえ……っ。あ、あの……っ……緊張、です……。
こ、これからの……その……史書にも残る……か、可能性が……っ……」
「史書…?」
利尚様が苦笑を漏らした。
ああ、またやってしまった。
陰キャの歴史オタクみたいな口ぶりを、利尚様の前だと抑えきれない。
「……あなたは本当に、不思議だな、ヨシエ。
皆が恐れる戦場で、歴史の心配をするとは」
「そ、そそそ……そんな……っ……っ
利尚様が……こうして……前に立ってくださるから……です……」
自分で言っておきながら、顔が熱くなるのがわかった。
利尚様はふっと目をそらし、同じくあたしに気づかれまいとしているようだった。
その一歩後ろで、隼人佐が黙って利尚様を見ていた。
その視線は、これまでと違っていた。
どこか、焦りの色がにじんでいた。
利尚様の“志”を、彼は完全に見誤っていたのだ。
夜が明けはじめた瞬間、道三様の陣から檄が飛んだ。
「出るぞ。美濃の未来は、この一戦で決まる」
「おおおおおっ!」
兵が雄叫びを上げる中、利尚様は馬上で短く息を整えた。
その背はまっすぐで、恐れも迷いもない。
あたしは、その横顔を見るたびに胸が苦しくなる。
「利尚様……っ、その……あの……
あなたの……こう……ぶれないところ……っ……
ほ、ほんと……尊くて……っ……」
利尚様の肩が小さく揺れた。
「……戦が終わるまで、その言葉は預けておこう」
対する道三様の陣には、年若き竹中半兵衛がいた。
まだ若いのに、瞳の奥が湖みたいに静かで澄んでいる。
「殿、利尚殿は“情”で動くお方。
そこを突けば勝機はございます」
道三様は冷たく笑った。
「情に縛られる者ほど、策には弱い」
しかし、この策を巡り、陣内の空気は張りつめていた。
古参の武将たちが半兵衛を嘲り、怒鳴りつける。
「若造が机上の戦を語るな!」
「道三様も落ちたものよ、こんな青二才を……!」
その空気は、戦よりも危うかった。
だから、あたしは“風の矢”を放った。
(こ、これ……言ったら絶対荒れる……でも……半兵衛、つぶされる……)
「ねぇ皆さん、聞いた?
道三様ね、次の戦で手柄を立てられない武将を“用無し”って言ってるらしいの。
重用されてるのは……もちろん、半兵衛よ」
ざわめきが走った。
嘲る顔が一気に焦りへ変わり、陣がざくりと揺れた。
追い詰められた古参たちは、半兵衛の指示を無視して突撃した。
「見ておれ、わしらの槍で敵を討つ!」
だが――
利尚様と光秀様が、それを見逃すわけがない。
側面を崩し、川沿いのぬかるみに誘い込み、道三軍は総崩れになった。
「なんという……! わしの軍が……!」
雨と血で濡れた道三様の頬は、奇妙に静かだった。
利尚様は濡れた髪を払って叫ぶ。
「父上! なぜ……この国を割るような真似を!」
道三様は傷を負いながら微笑んだ。
「国は“情”では回らぬ。“利”でしか保てん」
「利で……人の心が動くとお思いですか!」
「人は心で生きる。だが国は利で回る。
おぬしが“心”を選ぶなら、それでよい。
わしは“利”で死ぬ」
遠くで地鳴りが響いた。
木曽川の方から土煙が上がる。
道三様は目を細めた。
「……ほれ……婿殿の援軍だ」
利尚様の顔が、怒りと失望で強張る。
「信長を……使ってまで……!」
「……尾張が……留守ぞ」
その一言とともに、道三様は息を引き取った。
(あ……あの……道三様……最後まで……えぐい……です……)
利尚様の瞳には、涙ではなく尊敬の光が宿っていた。
長良川の戦いが決し、利尚様が勝利した瞬間。
混乱の中、隼人佐は落馬した兵を踏み越えるようにして後退していった。
彼は振り返りざま、唇を噛みしめながら吐き捨てた。
「……まさか、あの若造にここまで……。
道三様も利尚も、どちらも私の掌で転がると思っていたが……。
こんなはずではなかった……!」
その声は、敗北に怒り狂うというより、
“自分の読み違いを認めざるを得ない男の、乾いた絶望”に近かった。
そして彼は、味方のふりをした兵を連れ、そのまま朝倉の方角へと姿を消した。
迷いも、振り返りもなかった。
まるで――美濃という土壌が、もう二度と自分を受け入れないと悟った者のように。
あたしは、その背を見つめながら、そっとつぶやいた。
「……隼人佐殿。あなたの正しさも、あなたの野心も、
利尚様の前では、すべて読み違いになってしまったのね」
風が吹き抜け、戦場の残り火を揺らした。
戦が終わった夜明け、霧の中で利尚様は静かに誓った。
「父上……あの世で見ていてください。
私は、あなたの“利”と私の“情”で、この国を守ります」
あたしはそっと肩に触れた。
「……殿の、その……優しいとこ……っ……
国、変えます……よ……きっと……」
稲光が走り、時代の幕開けみたいに美濃を照らした。
利尚様は立ち上がった。
「光秀、信長を引き付けろ!
一鉄、ヨシエ、我らは尾張を突く!」
「は、はい……っ、殿……!」
光秀が織田軍を陽動し、
利尚様と一鉄様、そしてあたしは木曽川を越えた。
補給線を断たれた尾張は炎に包まれ、
美濃全体の士気が蘇った。
その時、川の向こうから半兵衛が叫んだ。
「利尚殿!
道三様の志を継ぐおつもりか!」
利尚様は即座に否定した。
「違う!
私は……人を生かすために戦っている!」
半兵衛の目が細くなる。
「ならば、証を。
“人の戦”ができる将かどうか、今ここで示していただく!」
利尚様は頷いた。
「いいだろう。
策で勝つのではない、人を救うための戦だ。
その証を見せる」
半兵衛も馬首を返し、
利尚様の軍と合流するように川辺へと走った。
尾張へ踏み込む直前、
利尚様は突然、槍を持った農兵たちの横に立ち止まった。
「その槍……持ち慣れていないな」
震える農兵が答える。
「へ、へえ……父も兄も徴兵で……死にまして……
わししか働き手がおりませぬ……」
利尚様は槍を取り、そっと返した。
「その槍は捨てよ。
ここは戦う場所ではない。
私が生かすべき者は、まずお前だ」
農兵は膝から崩れ落ち、泣いた。
その姿を見た半兵衛が、息を呑む。
「……利尚殿。
いや……利尚様。
あなたこそ“人のために戦う将”だ」
利尚様は答えなかった。
ただ、前を向いた。
あたしは震えていた。
寒さじゃなくて、胸の奥が熱くて。
(と、としひさ様……っ……
こ、こういう……ひとの……救い方……するから……っ……
ほ、ほんと……すき……です……)
霧が晴れ、尾張の大地が見えてきた。
戦が終われば、また新しい道が始まる。
ここから――
利尚様の“情”の時代が幕を開けるのよ。
【今夜の一杯とおつまみ】
お酒: グレンモーレンジィ18年
ねぇ坊や、
父と子がぶつかった夜って、
ウイスキーで言うなら“深い甘みと静かな苦味の両立”なのよ。
この18年はまさにそれ。
一口目は優しいのに、
後からじんわり芯の強さが来る。
殿の情と、道三様の利、
どっちも否定しない味ね。
【今夜のおつまみ】
おつまみ: トリュフ香るマッシュポテト&ローストビーフ
ふわっと香って、しっとり包んで、
でも噛めばしっかり返ってくる。
まるで“支えたい者”と“越えたい者”が
同じ皿の上で寄り添ってるみたい。
今夜の物語の締めにぴったりよ。
長良川の夜――父と子が国のかたちを賭けてぶつかった夜。
利尚様の“情”と道三様の“利”。
どちらも間違いじゃなかった。
でも、情を貫く者はいつだって孤独なの。
愛されたい、認められたいほど――深く傷つく。
それでもあの人は進んだ。
だから、あたしはいまでも“殿”と呼ぶのよ。
さ、今夜はマッカラン12年で締めましょ。
琥珀の色が、あの親子の想いみたいに静かに胸に染みてくるわ。




