第六夜「土岐の落日 ― 父と子の分かれ道」
浅井・六角の和議が結ばれ、美濃にも束の間の春が訪れた。
けれど、その柔らかな風は、まるで“長くは続かない”と知っているようだった。
父・斎藤道三と、子・利尚(義龍)――
ふたりの間に潜んでいた影が、静かに形を取り始めていたの。
今夜は、“父と子の愛と決裂”が胸を焦がす夜。
お供はカベルネ・ソーヴィニヨン。
深紅の果実と樽の煙の香りは、愛と誇りがぶつかるあの夜に、よく似ているの。
照明はふだんより少し落とされて、静かなベースが店の隅を撫でていた。
カウンターの向こうで、若いサラリーマンがぽつりとこぼす。
「……また親父と喧嘩しちゃって。
僕は会社を変えたいだけなんですけど、あの人は“今のままでいい”って……」
あたしはグラスを拭きながら、ひとつ微笑んだ。
「“変えたい息子”と“守りたい父”ねぇ……。
まるで利尚様と道三様じゃないの」
青年が首をかしげる。
その仕草が、あの若獅子の眼差しを少しだけ思い出させたわ。
「……そんな話、あったんですか?」
「フフ。じゃあ今夜は、“親子の愛と決裂”の物語を聞かせてあげる。
このワインにぴったりよ……香りも味わってごらんなさい」
深紅の液体が、ライトを受けて艶めいた。
それは血と情のあいだに立つ父と子のように、息づいていた。
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土岐頼芸様の使者が捕らえられたと耳にしたとき、
利尚様の端整な横顔が、ぎゅっと陰を帯びたの。
「父上は……本当に、頼芸様を追放なさるおつもりなのか」
声は静かだった。
けれど、その奥にある痛みは――
わたしには痛いほど感じられた。
道三様は盃を傾けながら、冷たい声音で言った。
「この国に、二人の主は要らぬ。
わしが守る未来に、あの御仁の居場所はない」
利尚様の瞳が震える。
その揺れは、怒りよりも……悲しみに近かった。
「ですが……あの方こそ、美濃の象徴にございます!
御恩を忘れ、力ずくで奪うなど――!」
(あっ……利尚様……いまの言い方……情が……つよ……)
道三様は、まるで鉄でできたような声で言い放つ。
「恩で国は回らぬ。
利で回せぬ者が国を沈めるのだ」
部屋の空気が一瞬で張りつめた、その時よ。
長井隼人佐が、音もなく一歩前に出た。
「御屋形様……ここでためらえば、いずれ美濃は朝倉に呑まれましょう。
“正しさ”は、時に国を滅ぼしますぞ」
(ひっ……い、いまの目……完全に黒幕ムーヴ……こわ……)
わたし、思わず体が縮こまっちゃった。
隼人佐って、あの……なんていうか……
“史料の行間にいるタイプの人”なのよね。いやな意味で。
利尚様は拳を握りしめ、ふるえる声で言った。
「……父上。
私は、“蝮の子”と呼ばれようと構いません。
ですが、“人の心”を捨てた国主にはなりたくありません!」
(っ……利尚様……っ。
そ、それ……わたし……しゅき……)
道三様は、冷たく笑った。
「情は毒にもなる。覚えておけ、利尚。
“人のため”と言いながら己の理想を押しつける――それを甘さと言うのだ」
(はぁ……もう……どっちも正しい……。
利がなきゃ国は動かないし、情がなけりゃ人は死ぬし……
正しさって、ほんと……人の数だけあるのに……)
その夜、美濃の“主”はひとりになった。
土岐頼芸は追放され、斎藤家の天下は確定した。
けれど同時に――
父と子のあいだに、戻れない距離が刻まれたのよ。
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頼芸様の護送を、わたしと利尚様は遠くから見送っていた。
月の光が淡く地面を照らし、風が冷たかった。
「……父上も、これが正しいと信じておられるのでしょうか」
利尚様の声は弱くはなかった。
ただ、深く痛んでいた。
「え、えっと……利尚様……
正しさって……その……ひ、人の数だけ……あると言いますか……
利尚様の“想おうとする正しさ”も……
道三様の“動かそうとする正しさ”も……えっと……
両方……たぶん……後世で……(ゴニョゴニョ)」
(うぅぅっ……噛んだ……っ)
利尚様は小さく笑ったわ。
その笑顔が、逆に胸に刺さるのよ。
「……ならば私は、“人を信じる”道を往く。
たとえ孤独であっても」
その背中が風に揺れた瞬間、
わたし、思わず言っちゃったの。
「と、としひさ様……っ。
あなたの……そういうとこ……ほ……ほんと……
す、す……すき……っ……!」
あぁもう……言った……!
言っちゃった……!!
風が吹いて袖が揺れた。
それは、ふたりの運命が静かに動きはじめた気配だった。
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青年はワインを飲み干して、ゆっくりとつぶやいた。
「……僕も、父を恨むんじゃなくて、理解してみることから始めてみようかな」
あたしは微笑んで、ボトルを軽く掲げた。
「そうよ坊や。
愛も正義も、片方だけじゃ酔えないの。
利と情――両方をブレンドしてこそ、“人生”ってカクテルになるのよ」
グラスの赤が、稲葉山の夕焼けみたいに揺れた。
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【今夜の献立】
お酒:カベルネ・ソーヴィニヨン
深紅の果実と樽香の混ざる、熱くて苦い一杯。
父と子の愛が憎しみに変わる、その直前にぴったり。
おつまみ:牛ほほ肉の赤ワイン煮とブルーチーズのカナッペ
濃厚で、でもほろりと崩れる。
まるで“情が理に割り切られていく”親子のように絡み合う味。
親を越えるってね、いつの時代も“愛のかたち”なのよ。
利尚様は、父を否定したわけじゃない。
ただ――違う愛し方を選んだだけ。
だけど戦国という舞台は、愛に優しくなかった。
情が深いほど、理は遠ざかる。
あの夜の風を思い出すたび、胸の奥がきゅっと痛むの。
次の夜は――
“決意”が“戦”に変わる瞬間。
蝮と若獅子の絆が断ち切られる、長良川の夜へ。




