第五夜「観音寺城の和議 ― 銭と知恵と若獅子の志」
いらっしゃい、坊や。
カウンターの明かり、少し落とすわね。
今夜はね、“血を流さずに天下を動かした夜”のお話。
戦を止めたのは刀でも槍でもなく、
若き利尚様のまっすぐな志と、
それから――あたしの“夜の水商売の知恵”よ。
銭が流れ、情が交わり、縁が結ばれる。
春の気配がほんのり漂ってた、あの観音寺の夜。
でもね坊や。
和を結ぶってことは、何かを得る代わりに、
必ず“何かを手放す”ってことでもあるの。
あの晩の杯が、
やがて父と子を裂く一滴になるなんて――
当時のあたし、まるで気づきもしなかったわ。
氷がひとつ、カランと静かに落ちた。
深夜の照明がグラスの縁を金色に揺らして、
その光が坊やのネクタイの皺に反射していた。
「……ママ、俺、今日またやっちゃってさ……」
就活帰りのスーツ姿の坊やは、少し苦笑い。
部下――いや同期かしらね?――と揉めたらしい。
あたしはグラスの縁を指でなぞり、微笑んだ。
「坊や、正しさって刃物なのよ。
振り回せば誰かが傷つくし、
しまい込みすぎれば錆びつく。
ちょうどいい“間”を見つけられるのが大人の証よ」
坊やはうつむいて、ぽつり。
「……でもさ、引いたら負けみたいな気がして。
やめ時が分からないんだよ」
「戦国でいちばん難しいのは、“戦うこと”じゃなくて“やめること”よ」
そう言って、あたしは琥珀色のボトルを取り出す。
「今夜はね、利尚様が“戦をやめさせた夜”のお話。
ちょっと背伸びした坊やには、ちょうどいい酒よ」
カラン。氷がまた鳴った。
その音の向こうで、物語は静かに美濃へ溶けていく――。
夜の美濃はね、坊や。
風よりも“陰口”のほうが早く走るのよ。
浅井亮政が六角と衝突して北近江がざわついてる――
そんな噂とともに、浅井の使者がひっそり稲葉山へ。
扇をパチンと閉じた道三様は、冷えた声で言い放つ。
「和議? それで――わしに何の得がある?」
背筋がぞわっとしたわ。
この人にとって“和平”は慈悲じゃなく商談。
しかし、その沈黙を破ったのは利尚様。
半ば座敷に射す月光を背に、まっすぐ立っていた。
「父上。浅井を救うべきです!」
その声、空気を切り裂いたのよ。
父は利、子は情。
まさに“正しさ”がぶつかる瞬間だったわ。
「民が苦しむのです。浅井が滅べば近江が荒れます!」
「……情に流されておるだけではないか、利尚」
「情があってこそ国は動きます!」
その場の空気が一瞬ひび割れたの。
――そのときよ。
あたしの視界の端で、影がすっと揺れた。
柱のそば、薄暗い場所にひとり佇む男。
長井隼人佐。
表情は見えないのに、
その気配だけが鋭くて、背筋が寒くなった。
利尚様と道三様の会話に耳を傾けながら、
彼だけはまるで“別の計算”をしているようだったわ。
利を語る道三。
情を掲げる利尚。
その二つがぶつかるほど、
隼人佐は――静かに、楽しそうに見えたのよ。
何を企んでいたかなんて、
あの時のあたしはまだ深く考えなかった。
ただ、ぞわりとした嫌な風だけが胸に残ったわ。
あたしはそっと扇を広げ、場をひと呼吸だけ緩めた。
「まぁまぁ、道三様。利尚様の言葉にも“投資価値”がございますわ。
浅井に貸しを作っておけば、後々“銭も縁も”動きますもの」
光秀も力を添える。
「六角・浅井・京極の均衡が保たれれば、美濃の商い路は安泰。
利はむしろ増えるかと」
道三様はようやく目を細め、
「……よかろう。利があり、義があり、情もある。
利尚の志、見届けてみよう」
そのときよ。
ふと視線の端に、隼人佐がいたの。
他の者が安堵の息をつく中、
ただ一人だけ、“悔しさ”を隠しきれない顔で、じっとあたしを睨んでいた。
その眼はね、火の粉みたいに冷たいのよ。
まるでこう言っているようだったわ。
「余計なことをしおって……」
「殿と利尚殿の溝を、勝手に塞ぐな」
でもすぐに、その表情は水面みたいに静かに戻った。
なんにもなかったように、影へすっと溶けていくの。
……ああいう男よ、隼人佐って。
利も情も超えて、“自分の位置”だけを守り続ける影の人。
こうして――物語は観音寺城へ向かうのよ。
六角定頼が上座に座り、石壁が冷ややかに音を返す。
京極の使者、浅井亮政。
そして美濃の面々――道三、利尚、光秀、そしてあたし。
「浅井よ。主家を逐電させた貴様が、和を乞うとはな」
六角の声は、冬の刃物みたい。
浅井は深く頭を下げ、静かに応える。
「六角様。すべては民のためでございました。
これ以上の戦は……」
そこで道三様が前へ出た。
「ならば血の代わりに“銭”を流せばよい。
北近江の関銭三割を、六角へ――どうじゃ?」
六角が鼻で笑う。
「銭で天下が動くなどと」
あたしはにっこり笑って一歩前へ出た。
「銭だけではございませんの。
浅井久政殿に京極家の娘君を――娶らせましょう。
縁が戻れば名も形も整いますわ」
六角はしばらく黙り込み――
やがて杯を見ながら、小さく笑う。
「銭と縁か……蝮らしからぬ策よ」
道三様がさらりと言う。
「息子の提案よ。若いが、筋が通っておる」
六角の視線が利尚様へ。
「……良い後継を持ったな、道三」
杯がカラン、と鳴った。
その音がね、坊や。
あたしには“戦の終わり”の合図みたいに聞こえたわ。
すべてが整い、宴が静まったころ。
浅井亮政が深々と頭を下げる。
「道三殿、利尚殿、ヨシエ殿、光秀殿。
この和議、浅井家は決して忘れませぬ。
証として……我が娘を、利尚殿へ嫁がせとう存じます」
あたし、つい手を口に当てたわ。
「まぁっ! 利尚様ったら、やるじゃないのっ」
利尚様は真っ赤になって、
「そ、そんなつもりでは……!」
と狼狽える。
かわいいったらない。
道三様は杯を掲げ、満足げに言う。
「利も義も、そして縁も――悪くない夜だ」
――だけどね坊や。
その灯の裏で、またひとつ影が揺れた。
利尚様の晴れやかな横顔を、
長井隼人佐が遠くからじっと見ていたの。
祝言の話が出た瞬間、
彼の目の奥が一瞬だけ、
“冷たくすぼんだ”気がしたのよ。
何を思っていたのか、あたしにはまだ分からなかった。
でもあの眼差しは――
“父と子が近づくほど、裂け目が広がる”
そんな未来を見て笑っているように見えた。
【今夜の一杯とおつまみ】
お酒: シーバスリーガル18年 ゴールドシグネチャー(スコッチウイスキー)
まろやかなコクと深い余韻。銭と義と情――その三つが調和した夜にぴったり。
「勝つことより、譲る強さを選んだ夜」にふさわしい一杯よ。
おつまみ: 鴨のスモークと黒無花果のブルーチーズ添え
燻製の香りに果実の甘みと塩気が重なって、
“取引と情”の絶妙なバランスを舌で感じられるわ。
この夜、利尚様の志は初めて実を結んだ。
銭と情と縁。
それらが絡み合って、春の兆しが美濃に訪れた。
でもね坊や――
光が強ければ影も濃くなる。
観音寺で鳴ったあの杯の音は、
実はもう“長良川の夜”へ続いていたのよ。
人が和を結ぶとき、
その裏では必ず、誰かが“利”を動かし始める。
歴史って、本当に皮肉なものね。
さ、今夜の物語はここまで。
お代わりは……そうね、ぬる燗にしましょ。
戦の余韻を、舌の奥でやさしく転がしてね。




