第四夜「濃姫の輿入れ ― 情と利の狭間で」
ようこそ、バー〈ゴールデン戦国〉へ。
ママのヨシエよ。今夜はねぇ、月がやけに赤いの。
戦の火が消えたあとに残る“心の痛み”――そんな夜にぴったりの話をするわ。
加納口の戦いのあと、静けさを取り戻した美濃。
でもね、戦よりも厄介なのは“政”ってやつ。
義龍様と道三様、そして濃姫……三人の想いがすれ違う夜の物語よ。
お酒は岐阜の達磨正宗 十年古酒。
時を重ねた深みが、今日の話にぴったり。
おつまみは朴葉焼き味噌。香ばしくて、ほろ苦い――人生みたいな味ね。
では、今宵もグラスを片手に、あの時代の灯りを見に行きましょう。
バー〈ゴールデン戦国〉の灯りが、いつもより赤く揺れていた夜。
氷がグラスの中で小さく鳴って、その音が胸の奥に響くの。
「あんたね、坊や。“戦”は矛を交えるけど、“政”は心を削るのよ」
あたしはカウンターに並べた二つの盃を見つめながら、そっと笑った。
今夜のテーマは、“情と利”。
父と子、そして一人の姫――
それぞれの“正しさ”が、初めてぶつかり合った夜のお話。
今宵のお酒は、岐阜・達磨正宗の十年古酒。
深くて甘くて、時の重みが沁みる。今日の話にぴったりなの。
おつまみは朴葉味噌の朴葉焼き。香ばしくて、ほろ苦くて、人生そのものよ。
──では、始めるわ。
■ 戦後の静けさの裏で
加納口の戦いが終わり、美濃にようやく平穏が訪れたころ。
義龍様――利尚様は、民と共に瓦礫を片付けながら、静かに言ったの。
「戦に勝っても、民の心を守らねば意味がない」
その姿を、濃姫がじっと見つめていた。
彼女の胸に生まれていたのは恋じゃない。
もっと強くて澄んだもの。
“尊敬”と“信頼”。
まぶしすぎて、あたし、見てるだけで泣けたわ。
■ 隼人佐の「利」の進言
一方で、あの影の薄いくせに腹の底が真っ黒な男――
長井隼人佐が、また裏で動いてたのよ。
「殿、尾張の若殿・織田信長。あれは風のような男です。
強く、読めず、利に聡い。道三様にこそふさわしき盟友かと」
道三様の目が細く光る。
「……利に聡い、とな?」
「ええ。美濃の将来のために“情”を捨てられる男。殿と同じ匂いです」
もうね、聞いてて寒気がしたわ。
隼人佐の声って、やたら甘いくせに、底が冷たいのよね。
道三様は低くうなずいた。
「……利か。利を掴める者こそ勝つ、か」
……利尚様にはない“匂い”だと言わんばかりに。
■ そして、信長来訪
信長が稲葉山城に現れたのは、そのすぐあと。
派手な着物に、堂々とした態度。
けれど目だけは鋭くて、冷たくて、何かを測るように光ってた。
「初めまして、斎藤道三殿。お噂はかねがね」
「噂の尾張のうつけ……いや、“化け物”かの?」
信長は薄く笑った。
「利を掴む者が天下を取る。
情に流される者は、足をすくわれますゆえ」
――空気がピシッと凍ったわ。
利尚様が、抑えた声で言う。
「父上、そのような男と手を組まれるおつもりですか」
「情より利じゃ。国を動かすのは情ではない」
利尚様の拳が震える。
「……では、情を捨てても利を選ぶのですか」
「うむ。利を得れば情も守れる」
もうね、見てるこっちの胸が痛くなるほどよ。
「――ねぇ坊や、聞いた?
正しさがぶつかる時、人は一番深く傷つくのよね。」
■ あの夜、あたしは“影”を見た
その言葉を口にした瞬間、胸の奥でざわつく影があった。
利尚様と道三様が言い争ったあの夜――
片付けのため廊下を歩いていたあたしの前で、
ひっそりと灯が揺れたの。
その薄闇の中にいたのが……隼人佐よ。
誰もいないはずの一間に身を寄せ、
小さな灯に巻物を照らして、そっと中を覗いていた。
その目がね……
笑ってるのよ。静かに、満足げに。
巻物の端に、見覚えのない印。
美濃の文様じゃない。
湿った風の国の匂い。
――山の向こう、越前の気配。
でも、あたしはただの侍女。
証拠もない噂なんて言えるわけない。
隼人佐は巻物を懐にしまうと、
天井を見上げ、ぽつりと呟いたの。
「……これで、道は開けましょう」
誰の“道”かなんて――
聞かなくてもわかったわ。
その背中はね、主君より堂々としていたのよ。
あの瞬間から、親子の絆がゆっくり剥がれ始めていたの。
■ そして、濃姫の決断
その夜、濃姫が利尚様のもとに来た。
障子越しの月が、影を美しく映していたわ。
「兄様……信長様との婚儀が決まりました」
利尚様は目を閉じ、短く息を吐く。
「……そうか。民のため、か」
「はい。父上は“利”を選ばれました。
でも兄様が“情”を守ってくださるなら、
私はその“利”を支えます」
利尚様はほろ苦く笑った。
「濃……お前は強いな」
「兄様が、私に“誇り”を教えてくださったからです」
この姫、ほんとに強いのよ。
自分の足で立って、未来を選んだんだから。
■ 輿入れの朝
出立の朝、濃姫の白無垢が朝日に照らされて輝いていた。
道三様は満足げに立ち、信長は静かな笑みを浮かべ、
そして利尚様はただ空を見上げていた。
「兄様、いつかまた……美濃の空の下で」
利尚様は静かにうなずいた。
「必ず。
お前が選んだ“利”を、俺が“情”で支える」
坊や、泣きそうな顔してるわよ?
でもね、この別れがあったから――
あの長良川へと続いていくの。
運命って、ほんと残酷ねぇ。
■ バーに戻る
青年がグラスを見つめながら呟いた。
「“情”と“利”って……結局、どっちが正しいんでしょう」
あたしはニヤッと笑った。
「どっちも正しいのよ。
“情”で人が動き、“利”で国が回る。
どっちかが欠けても、歴史は進まないわ」
青年はゆっくりうなずき、古酒を口に含んだ。
その琥珀の液面に、遠い戦国の炎が揺れていた。
■ 今夜の献立
お酒:岐阜・達磨正宗 十年古酒
深く熟成した香り。時の重みが沁みる“政略の味”。
おつまみ:朴葉味噌の朴葉焼き
香ばしさの奥にほんのり甘み。
濃姫の強さと、利尚様の“情”を支える温もりの味。
ふぅ……濃姫の輿入れ、切ないわねぇ。
戦では血が流れるけど、政では心が裂けるのよ。
利尚様の“情”、道三様の“利”、そして濃姫の“覚悟”。
どれも正しいからこそ、誰も勝てないの。
“情”で人は動き、“利”で国が回る。
その狭間で生きた人たちの姿って、美しくて、残酷で、そして人間臭いわ。
次の夜は――いよいよ、道三様と利尚様の“決裂”が描かれる夜。
涙も覚悟して、いらっしゃい。
あたし、グラスとハンカチを用意しておくから。




