第十六夜「桶狭間の嵐 ― 運命を覆す策」
いらっしゃい。よう来たわねぇ。
カウンター座りなさいな、あたしが温いお茶でも淹れたげるわ。
――えぇ、わかってるわよ。
戦国の空気がずいぶん騒がしくなってきた、って顔してるわね。
利尚様は “六角のお招き” で上洛の段取りが進んどるし、
信長ちゃんは相変わらず「俺は俺の道で行く」って平然としとるし、
浅井家はまだ久政が采配を振り、お家事情も揺れとる。
そんな中で、あたし?
あたしはねぇ……前世の陰キャくノ一時代からの “イヤな胸騒ぎ” ってのが、最近また疼き出してるのよ。
大きく何かが動く前ってのは、
風がまず変わるものなのよ。
目には見えんけど、肌で感じるの。
ほな、今宵の物語――
ちょっと息を潜めて、ついてきなさいね。
静かやのに、どこかざわつく、そんな夜のお話よ。
バー〈ゴールデン戦国〉の夜
雨模様のカウンターって、ほんと人の心を映すのよねぇ。
青年が片手でジョッキの縁をなぞりながら、ぼそっと呟いたの。
「……どうして人って、分かってるのに止められないんでしょうね」
あたしは空のジョッキを下げて、かわりに冷えたビールと
胡椒の効いた唐揚げをそっと置いたわ。
「分かってるのに止められない――
それね、運命の正体よ。
戦でも恋でも、結末を知ってても、人は進んじゃうの。」
青年が目を伏せたまま、「運命……か」と呟く。
あたしは微笑んでグラスを磨いた。
「今夜の話はね、“知っていた者”がいた戦の話なの。
――桶狭間の嵐。」
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戻ってきた美濃の空は、まるで“戦を知ってる空”だったわ。
湿気が肌にまとわりついて、風がどこか止まってるのよ。
評定の間。利尚様が広げた地図の前に、
信長様、浅井久政様、光秀、半兵衛、利家、そしてあたし。
(……やば、超・名だたるメンバーの真横にいるんだけど……
前世の陰キャ補正で息止まる……)
心の中でそんなこと思ってるの、たぶんあたしだけよ。
利家が書状を掲げて、静かに言う。
「今川義元、四万を率い尾張へ侵攻」
信長様がふっと唇を吊り上げた。
「敵が大軍なら、地の利で討つ。
――桶狭間を使おう。」
半兵衛が冷静に地図を指し示す。
「谷は狭く湿っています。
雨を待てば敵は動けません。少数でも勝機があります。」
あたしも、おそるおそる手を挙げて言ったの。
「え、えっと……あの……その……
唐辛子と酒粕で“香の霧”つくれます……。
風向き次第では、敵が自分の煙で目を潰すかも……です……」
(言えた……! つっかえなかった……!)
光秀が浅井久政様へと目を向ける。
「浅井様、いかがでしょう。」
久政様は穏やかに頷かれた。
「信長殿が先鋒なら、我ら浅井も出よう。
風は、美濃に吹いておる。」
利尚様が地図を畳み、信長様をまっすぐ見た。
「――信長。己が信を貫け。
上洛の道筋は、その先に開けよう。」
信長様は深く一礼して、静かに笑んだ。
「承知。嵐の中で道を切り開きましょう。」
その言葉を聞いた瞬間。
あたしの背筋が、ひやっと冷えたのよ。
(あ……いよいよ、“あの瞬間”が来る……)
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春の雨がしとしとと降る駿府。
義元様は白檀の香を焚きしめながら、静かに出陣の支度。
その背後で、藤吉郎と小一郎の木下兄弟が地図を囲む。
小一郎の指が、「桶狭間」をなぞった。
(……ここで義元公が討たれる……歴史では……)
藤吉郎は盃を傾け、豪胆に笑う。
「案ずるな。運命は修正できる。
義元公を死なせなきゃいい。それだけだ。」
小一郎は低く呟く。
「……斎藤利尚。
あの人が生きてるせいで、歴史が歪んだままなんだ……」
藤吉郎の眉がひそむ。
「美濃の怪物……か。
なら、今川が天下を取る前に潰すだけだ。」
そこへ、太原雪斎が静かに現れる。
「木下兄弟。……何を焦っている?」
藤吉郎は膝をついて笑う。
「焦りではありません、雪斎殿。
この戦、必ず勝つために……」
雪斎は二人を長く見つめ、静かに言った。
「策とは、己の誠を通すためにある。
誰かの首をすげ替えるためではない。」
その夜。
雪斎が唱える経の声には、確かな疑念が滲んでいたわ。
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戦場の空は、甘い鉄の匂いがするの。
(……本当に来る……歴史の“分岐”……!)
丘の上で煙の流れを見守りながら、
あたしは緊張で手が汗ばむのを感じてた。
谷間に整然と広がる今川軍。
美しすぎて、逆に不吉なのよ。
信長様は木陰で馬上に立ち、空を見上げた。
「……降る」
半兵衛が呟き、光秀がすぐに動く。
「浅井久政様、利家、備えを。
信長様の合図で一気に攻める。」
信長様が扇を閉じた。
「嵐の中では、声より心が届く。」
ポツ。
最初の雨粒。
そして、土を叩く音が広がった。
──その瞬間、風向きが変わった。
山から吹く湿った風が、
あたしが仕込んだ“香の霧”を今川軍へ押し流す。
唐辛子と酒粕の刺すような香り。
「う、目が……!」「け、煙だ!」
藤吉郎が怒鳴る。
「落ち着け! これは自然の煙だ、しっかり守れ!」
……でも、もう遅いのよ。
信長軍から、雷みたいな鬨の声が上がった。
「――今ぞ、天を裂けぇっ!!」
稲妻が走る。
太鼓が鳴る。
久政様が先陣を切って突っ込み、
利家が槍を振るい、
光秀が冷静に指示を飛ばし、
半兵衛が叫ぶ。
「風よ、味方せよ――!!」
戦場が、嵐の音と人の声と血の匂いで渦を巻いた。
義元様が刀を抜き、雨の中へ飛び出した。
「この義元、天下の礎となる!」
小一郎が必死に追いすがる。
(だめ……! そこへ出れば――!)
けれど運命は、もう動いていたわ。
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あたしはグラスをくるくる回して言った。
「ね、人ってね……知ってても止められないのよ。
運命って、そういう意地悪なの。」
青年が、かすかに息を呑む。
あたしは特製ビールを置いて、ウインクした。
「今夜のお酒は“雷鳴ビール”。
山椒と塩をちょいと入れてね、
嵐の夜みたいに、苦くて熱い一杯よ。」
青年はそっと尋ねた。
「……義元は、そのあと?」
あたしは指を唇に当てて、にっこり。
「ふふ。
それはね――次の夜にお話しするわ。」
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今夜のお酒とおつまみ
〈雷鳴ビール〉
冷えたビールに山椒と塩をひとつまみ。
嵐の夜のような、苦さと熱さの余韻。
〈胡椒唐揚げ〉
黒胡椒強め。
噛むたびに、雷みたいにスパイシー。
ふぅ……読んだわねぇ。
今夜は、どこか胸の奥がひんやりするような展開やったやろ?
歴史ってね、火花が散る瞬間より、
その前の “息を呑む静けさ” のほうが、実はずっと怖いのよ。
利尚様も、信長ちゃんも、浅井も六角も、みんな胸の中にそれぞれの算段を抱えとる。
そしてその隙間に、ひっそりと潜り込むのが――
あたしの前世、あの陰キャくノ一ヨシエちゃん。
もうねぇ、見ててヒヤヒヤするのよ。
あたし自身やのに。
でもまぁ、それが戦国ってやつ。
人の思惑と、ちょっとの勇気と、ちょっとの臆病と、
全部が渦巻いて、歴史は動くの。
次の夜は、もう少し風が強うなるわよ。
覚悟していらっしゃい。




