第十五夜「嵐の地図、上洛の刻」
いらっしゃい、よく戻ってきたわねぇ。
雨の夜って、なんだか人の表情が“影”を抱えてるように見えるのよ。
あんたもその顔ね。胸の奥で、まだ言葉にならん嵐みたいなんが渦巻いとる。
でもねぇ……
嵐って、あんたを壊すために来るんじゃなくて、
進むべき道を一度、ぜんぶ洗い流すために来ることもあるの。
戦国の頃にもね、似たような“嵐前の静けさ”ってのがあったのよ。
表は落ち着いて見えるのに、国の底の方でギリッと音がして、
ちょっと触れたら崩れ落ちるような、危うい空気。
今夜はね、そんな“戦の匂いがまだ形にならん頃”のお話。
利尚様、信長ちゃん、久政殿……
みんなが、それぞれの胸に嵐を抱えてた時代よ。
さ、グラス置いて。
静かな夜ほど、深く沁みる話になるから……覚悟しときなさい。
バー〈ゴールデン戦国〉の夜。
雨が静かにガラスを叩いていた。
青年はネクタイを緩めて、ふぅっと息をついた。
「最近、全部がうまくいかないんです。
どこを立てても、別のところが崩れて……まるでドミノ倒しですよ。」
あたしはカウンター越しに微笑んで、
琥珀のボトルから一滴、グラスに落とした。
「それはね――“嵐の前”によくあることなの。
どんな人でも、すべてを立て直す瞬間が一度だけある。
今夜は、そんな“決断の夜”のお話をしてあげる。」
あたしはグラスを傾けて、琥珀の泡が弾けるのを見つめた。
「……今夜のお酒はね、“嵐待ちの琥珀”。
ウイスキーに山椒をひとしずく。
静かな夜ほど、心の奥で雷が鳴るものよ。」
青年が香りを確かめながら笑う。
「ピリッとしてるけど、落ち着く味ですね。」
「そう、決断ってのはね、恐れを越えたあとの静けさに似てるの。
嵐を怖がるよりも、その前に自分の足をどこに置くか――
それが生き残る人の嗅覚よ。」
あたしは椎茸の味噌あえを一口つまみ、しっとりと笑った。
「おつまみは、焼き椎茸の生姜味噌あえ。
素朴だけど芯がある。
噛むたびに、“待つ強さ”ってやつを思い出す味よ。」
美濃・稲葉山城 春の雲が溜まるころ
あのねぇ──あたし、越後で妙な蒸留騒ぎに巻き込まれたあとでしょ。
戻ってきたら、美濃の空気がもう湿ってるのよ。
雨が来る前って、風がふっと止まるでしょ?
ちょうどあれ。“戦の前の静けさ”ってやつ。
その静けさの中で、利尚様は地図を広げてたの。
斎藤家と織田家、浅井家の顔ぶれが並ぶと、
そりゃ空気もピリッと締まるわよ。
でもまぁ、今回の評定ね──
あたしが十三夜でこっそり提案した“伊勢の商人筋の操作”と
“一向宗の内側割り”の結果が、まず議題に上がったわ。
利家が書状を広げて、さらっと読み上げるのよ。
「まず、一向宗の動き。
近江と尾張の門徒の間で意見が割れたことで、
当面の蜂起の気配はございません」
あらまぁ、うまく割れたみたいで何よりだわ。
信長ちゃん──あ、違ったわね、“信長様”。
でもこの人、どこにいても態度はデカいのよ。
その信長様が腕を組んで、ふっと笑ったの。
「ふむ。これで宗徒を気にせず、兵を動かせるというわけだな。
ヨシエの策……見事と言っていい」
……な、なんか褒められたけど、なんかこう、
この人に褒められると背中がザワッとするのよね。
けどね、成果が出たのは宗徒だけ。
伊勢の商人筋に流した“別筋の金”については──
これがねぇ、見事に効きすぎたのよ。
浅井久政様が、眉間にしわを寄せながら地図を指したの。
「伊勢・美濃を経由する銀が滞ったことで、
今川方の兵糧買い付けが削がれた……そうであったな?」
利尚様がうなずく。
「うむ。だが結果として、今川義元は“足りぬものを取り返す”ために、
三河へ兵を伸ばした。織田の西三河の諸勢が、
次々と併呑されておる」
そう。
金の流れを弱らせたら、逆に“力ずく”で取りにくるわけよ。
あの義元様、見た目は雅だけど中身は“超現実主義”。
足りなければ奪う。奪ったら次へ進む。
京へ行くなら、尾張は踏み台。
その踏み台が、もはや目の前ってわけ。
信長様は一歩すすみ、利尚様に向き直って言った。
「利尚殿。
いかに宗徒が静まり返ろうと、今川が尾張に迫っておる。
織田は抗う。それが我が道だ。
だが……勝とうと負けようと、京へ向かう“旗”だけは挙げていただきたい」
なんなの、この人。
上から目線なのに、言ってることが妙に澄んでるのよ。
こういうタイプ、上司は苦労するけど、部下は好きになるのよねぇ。
浅井久政様も続けて、言葉をつなぐ。
「六角家の威光を掲げて上洛するなら、
その前に尾張の憂いを絶たねばなりませぬ。
我ら浅井も出ます。」
そして利尚様が、静かに地図の“京”を指でなぞった。
「私は義賢殿とともに京へ向かう…
だが、まずは今川を退ける!」
その声音には、迷いがちらりと混じっていた。
けどね──それでも前を向こうとしてる。
あたしの目にはそう映ったわ。
あの瞬間よ。
歴史の歯車が“ガチッ”て音を立てたのは。
評定のあと、あたしはひとり小部屋で帳簿と地図を広げてたの。
「……桶狭間……もうすぐ、来るわね……」
夜の窓の向こうで、雲がゆっくり形を変えていく。
その雲がまるで、「覚悟しなさいよ」って言ってるみたいだったわ。
⸻
「……で、結果的にどうなったんですか?」
青年が、グラスを傾けながら言った。
あたしは微笑んで、答えを濁した。
「歴史の結末はね、誰が見ているかで変わるの。
でも一つだけ言えるのは――
あの夜の決断が、“上洛”への扉を開けたってこと。」
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今夜のお酒とおつまみ
“嵐待ちの琥珀”
ウイスキーにほんの少しだけ山椒を落とした特製ソーダ。
緊張と静けさの狭間に灯る、決断の香り。
焼き椎茸と生姜味噌のあえもの
土の香と辛味が、嵐の前の夜にぴったり。
静かに、心を研ぎ澄ます一
ふぅ……戦国の空気、しっかり胸に残ったでしょう?
嵐ってのはさ、いつだって“遠雷”から始まるのよ。
利尚様の上洛が迫り、
信長ちゃんはまだ虎の子を抱えた若武者みたいな気配で、
浅井の久政殿は、父として、国持ちとして、揺らぎを隠せず。
そしてその向こうから、今川の足音が土を踏み鳴らして近づいてくる。
誰もが分かってるの。
ひとつ間違えば、全員まとめて呑まれる嵐になるって。
でもねぇ――
人間って不思議なもので、
追い詰められた時こそ、いちばん冴えた決断をするの。
あんたも多分いま、
人生の“嵐の地図”を広げとる最中なんだろうけど……
迷っていいのよ。
立ち止まってもいいわ。
大事なのはね、どこに足を置くか、ちゃんと自分で選ぶこと。
じゃあ、今夜はここまで。
次の夜話では、いよいよ嵐が形を取って襲いかかってくるわよ。
覚悟して、またおいで。




