第十四夜 「蒸留の香り、越後の風」
いらっしゃい、今夜もようこそ私のバーへ。
ここではね、琥珀色の灯りと少しばかりの湯気の中で、過去と未来がひそやかに混ざり合うの。
あなたが手にするグラスの中の液体――それはただのお酒じゃない。
戦国の夜、稲葉山の城下で、誰かが夢見た“未来のお酒”の香りかもしれないし、あるいは、今この瞬間に私が試作した合法のフレーバーかもしれない。
バーに足を踏み入れたあなたは、知らず知らず歴史の中に足を踏み入れる。
そして、耳を澄ませば、誰かのささやきや、遠い国の風の音が、ほんの少しだけ届くの。
今夜も、私はあなたに語りかけるわ。
「歴史はね、信じる人の心の中で動く」――そう、誰も知らない物語を。
さぁ、グラスを手に取り、目の前の灯りの下で、過去と未来の香りを感じてちょうだい。
そして心のどこかで、静かに笑ってくれれば、それだけで十分よ。
カウンターの灯りが、静かに琥珀を照らしていたわ。
あたしは小鍋を火にかけながら、くるくると木べらを回す。
もちろんねぇ、あたしは法律には逆らわない女よ?
だからこの鍋の中にあるのは、バー向けの“香り抽出用フレーバー”。
お酒そのものじゃなくて、蒸留酒の香りをイメージした合法的な試作用シロップ。
飲み物に数滴落とすと、ふわっと米の香りが広がるって寸法よ。
青年が鍋を覗きこんで言った。
「……それ、蒸留酒じゃないんですね?」
あたしはウインクして答えた。
「そりゃそうよ。密造なんてしたら、うちのお店、一発アウトだもの。
でもねぇ、“香りの物語”くらいは作っても、誰も怒らないわ。」
湯気と一緒に、ちょっとだけ“戦国の夜”の気配がよみがえる。
「これはね、あたしがあの頃に作ってた“天の滴”の香り。
あなたにも、味じゃなくて“記憶”で楽しんでもらうお酒なの。」
青年は興味深そうに笑った。
「……ヨシエさんの過去って、どこまで本当なんです?」
「さぁねぇ。過去なんて、信じた人の胸の中で形になるのよ。」
――そして、湯気の向こうで、あの遠い越後の風が揺れた気がした。
六角義賢を迎えた“上洛の評定”から幾日かが過ぎた。
稲葉山城の中は、どこもかしこも忙しなく、
兵糧、銭、兵の配置……
男たちの息が白むほど、策が乱れ飛んでいた。
利尚様は軍勢の再編、
信長様は尾張の兵の調整、
浅井は――まだ久政が城主で、北近江の備えを固めていた。
六角は幕府へ根回しを仕掛け、
京畿の空気を揺らしていた。
そんな男たちが天下を動かそうとしている横で、
あたしは……また別の“天下”を動かしていたわけ。
城下の古い蔵。
銅鍋、竹管、桶、臼。
日がな一日、蒸留器と睨み合い。
火加減を誤れば、すぐに焦げて全部やり直し。
それでも――
「……来た。」
ある瞬間、
ふっと澄んだ甘みが鼻を抜けた。
焦げる寸前の米の香りと、蒸気の熱い息。
「これ……これだわ……!」
米の魂が別の姿に変わった瞬間。
歴史のスイッチが“カチッ”と入ったみたいで、
陰キャの胸がドキドキ震えるのよ、ああいう時はもう。
⸻
評定の合間、利尚様がひょっこり蔵へ現れた。
「ヨシエ、また奇妙なものを生み出しているな。」
「き、奇妙じゃ……ない、です……よ……っ。
あ、あの……これ、“未来の酒”なんです。
兵の慰めにも、商の呼び水にも、国の潤いにも……
利尚様の……治める国に、ひ、必要……な……っ。」
(……あたしなに噛んでるのよ……!
いやでも近いと緊張するんだもん……
利尚様イケメンなんだもん……!)
利尚様は、湯気の向こうできゅっと目を細めた。
その微笑み、ほんと心臓が持たないのよ……ファン殺し。
盃に注ぐと、彼は一口含み、静かに言った。
「……舌の奥に熱が残る。
まるで“燃える水”だな。」
「でしょ……? でもほんと飲みすぎ注意なんで……
信長様あたり絶対“危険なほど旨い!”とか言って……」
すると本当に、信長様が背後から現れたの。
「ならばなおさら良い酒よ。」
……何そのタイミング。
昔から危ないものほど好む男なのよ、ほんと。
⸻
夜。
伊勢商人が稲葉山の麓で“新酒の試飲会”を催した。
提灯の明かりに人々の笑い声。
盃を掲げる商人、兵士、町娘たち。
そのざわめきの中で――
ひとり、違う空気の旅人がいた。
黒髪をきつく束ね、口元を薄布で隠し、
目だけが、冷たい雪みたいに静か。
あたしは近づいて声をかけた。
「お客さん、見かけない顔ね。どちらから?」
「北のほうから……雪国です。」
声は柔らかいけれど、
その盃の持ち方――完全に武人。
戦国オタクのレーダーが鳴る鳴る。
「味はどう? 改良した方がいいかしら?」
男は盃を回し、静かに微笑んだ。
「冷たく澄んで、あとに炎が残る。
“雪の中の焔”のようだ。
……武田も今川も策を巡らせているが……
この酒のためなら、北の風も、じっとはしていない。」
その言葉が、
ヨシエだけの耳に残る。
盃を置いた瞬間、
男は雪のように静かに闇へ消えた。
⸻
翌朝、城に噂が飛び込む。
「昨夜の旅人、越後の使者とか!」
「いや、あの眼……まさか――上杉謙信!
越後の“龍”が来ていたのか!」
利尚様は目を細め、静かに言った。
「……越後の龍が、こちらを見ているか。」
その声音には、
“これから天下が大きく動く”
そんな気配が宿っていた。
⸻
その日を境に、
あたしは利尚様の許しを得て、
試作した蒸留酒をこっそり“越後への贈り物”に紛れさせた。
伊勢商人の荷、
越前を抜ける旅僧の箱、
時には加賀の商家の荷に忍ばせたり。
(謙信公……絶対気に入ってたよねあれ……
あの目、完全に“推し酒見つけた顔”だったし……)
越後の雪に包まれた誰かの盃で、
あの熱が灯っていたのかと思うと――
陰キャの胸がまたドキドキするのよ。
小さな一滴が、
どこかで“風”の流れを変えていくかもしれない。
そんな未来を、あたしだけが知っている。
⸻
「ヨシエさん……
その時代に、ほんとにそんなお酒、あったんですか?」
青年が琥珀色の液体を見つめて呟いた。
あたしはウインクしたの。
「ふふ。あったかどうかは――
あんたが今、飲んで確かめなさいな。
“過去”ってね、信じた人の記憶の中で形になるのよ。」
――この一杯の香りが、
未来と過去をつなぐのよ。
⸻
今夜のお酒とおつまみ
◆ 天の滴・香りのエッセンス
米の蒸気が残した甘さを再構成した、ヨシエ特製のフレーバー。
ハイボールやソーダ割りに数滴落とすと、戦国の夜へタイムスリップ。
◆ 炙り銀杏と鶏の味噌漬け焼き
香ばしい苦味と旨味が、蒸留酒の熱に寄り添う。
“冬の始まり”をそっと照らす静かな一皿。
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ふぅ……今夜も、歴史の深い霧の中で、少しだけ手を伸ばしてみたわ。
戦国の世の義龍さま――いや、利尚さまの思惑も、商人たちの策も、そして越後の龍の気配も、全部グラスの中に閉じ込めたつもりよ。
現代の私は、あなたと同じで、試作と想像の中でしかその味を楽しめない。
でもね、だからこそ想像力が生きるのよ。
密造なんて怖いことはしなくても、歴史の香りは、私たちの心の中で蒸留されて、いつでも飲めるの。
読んでくれたあなたには、ぜひ覚えていてほしい。
歴史は刀や戦術だけじゃ動かない。
お金や力だけでも動かない。
人の信じる心と、少しの勇気、そして香りや味の記憶――それが小さな波紋を広げ、やがて大河のように時代を動かすのよ。




