第十三・五夜 「利尚と三姫の縁 ― 芳・千代・お市、揺れる夜」
カウンター越しに青年が座ると、
あたしはグラスを磨く手を止め、ふっと微笑んだ。
「今夜のお話はね――ちょっと危険で、ちょっと甘くて……
でも深いのよ。利尚様が“三人の姫”に向き合った夜」
青年は目を丸くする。
「さん、三人……?」
「そう。浅井の千代、六角の芳、そして信長の妹・お市。
それぞれが“利尚様を選んだ”夜なの」
青年の喉が小さく鳴った。
「……そ、それは大変ですね……」
「だから最初の一杯はね、あなたの心をあたためてほぐすお酒にしたわ」
棚から琥珀色のボトルを取り出し、
静かにグラスへ注ぐ。
甘い香りの奥に、スパイスの熱。
口に含むと味が変わる――三姫の心みたいに。
次に木皿を出す。
白味噌豆腐 ― 千代のやさしさ
塩だけの鶏ロースト ― 芳の静かな気品
梅香る野菜巻き ― お市の芯の強さと可憐さ
「ね? 今夜のお酒もおつまみも、利尚様の“揺れた心”そのものなのよ。
これで、あなたも少しは大人になれるわ」
青年は息をのみながら頷いた。
「……聞かせてください。三人の姫が利尚様を選んだ夜を」
「任せて。今夜は“利尚様から聞いた話”をお届けするわ」
あたしはカウンターの灯りに火を落とし、
物語の扉をゆっくりと開いた。
春の光が稲葉山城を照らす頃、
私は熱田から戻ったばかりだった。
千代は、廊下の角で私を見つけるなり駆け寄ってきた。
「利尚さま……! ご無事で……ほんとうに……!」
その声は震え、
小さな手が私の袖をぎゅっと掴む。
胸の奥に、暖かいものが溶けた。
「ただいま、千代。
お前の顔を見ると……帰ってきたと実感が湧くな」
千代の笑顔はやわらかくて、あたたかかった。
だがその日の夕刻、
私は六角義賢殿からの急ぎの呼び出しを受けた。
義賢殿の部屋に入ると、
そこには静かな香がたちこめていた。
「利尚、来たか。……座れ」
義賢殿は穏やかな笑みを浮かべた。
「そなたの才は、観音寺の頃より格段に冴えておる。
六角家はそなたを“家の柱”と見ておる」
そう言い、
義賢殿は一枚の巻紙を差し出した。
「六角の娘――芳を、そなたに娶らせたい」
私は息を飲んだ。
千代の姿が脳裏をよぎる。
「……しかし、私の心はすでに千代に――」
「わかっておる。正妻は千代でよい。
だが戦国の世、縁は力となり、家を守る盾にもなる。
芳は清い娘だ。そなたの才を支えよう」
私は答えられなかった。
そこで――
ヨシエが、なんの前触れもなく口を開いた。
「利尚様。
男はね、守る家が大きくなればなるほど“抱える想いも増える”の。
強くなるってことよ」
やれやれ、あの女は……。
その夜、私は千代に縁談のことを話した。
千代は一瞬だけ寂しそうに俯いたが、
すぐに顔を上げた。
「利尚さま……
美濃を守るためなら、私は……受け入れます」
「千代……無理をしているのではないか?」
「無理、してません。
だって、利尚さまが選んでくれたのは私です。
正妻は私……それで十分です」
その目はまっすぐで、強かった。
「それにね……ヨシエさまにも言われました」
ヨシエ、また何を吹き込んだ。
「“利尚様は立場的に、いずれ側室も持つわよ。
千代ちゃんが認めてあげないとダメ”って」
……ヨシエめ。
私は千代の手を取った。
「千代……すまない。
お前がそこまで言うなら――」
「はい。利尚さまの決断を支えます」
彼女は笑った。
その笑顔が、胸に刺さった。
数日後、六角家から芳が到着した。
控えめで、けれど芯のあるまなざし。
声は静かだが、ひとつひとつの言葉が丁寧だ。
「斎藤利尚殿……この縁、務めを果たす覚悟で参りました」
その礼儀は、
まるで柔らかな布がそっと胸に触れるようだった。
千代とお市と違う、落ち着きがあった。
三日後。
ヨシエに強引に連れていかれた先で、
私は奇妙な空気を感じていた。
香の匂い。
低い話し声。
……部屋の中に、
千代・芳・お市――三人が揃っていたのだ。
「利尚さま、来てくれてよかった……!」
千代がぱっと笑い、
お市は腕を組んでむすっと私を見た。
芳は静かに一礼した。
ヨシエが悪い笑顔で言う。
「はい、三姫会議はじめまーす」
やはりこの女が仕組んだか。
「……利尚さま。
芳さまはとても聡明で、礼儀もしっかりした方です。
私としても……利尚さまを支えてくれるなら心強いです」
千代は真剣だった。
嫉妬よりも、利尚の家を守る覚悟があった。
芳は静かに口を開いた。
「千代さま。
私は……あなたのように明るく、
利尚様に寄り添える方を尊敬しております」
「わ、わたし……?」
千代は頬を赤らめた。
「私もまた……利尚様を支えられるよう努めます。
三人であれば、守れる範囲も広がるでしょう」
芳は謙虚で、だが一本の芯があった。
お市は唇を噛み、
恥ずかしそうに――けれど強い目で言った。
「わたし……利尚さまが好きです。
兄上以外にこんな気持ちになったのは初めて。
姉さまたちが認めてくれるなら……
わたしも……あなたのそばにいたい」
千代と芳は顔を見合わせ、
そして――ゆっくりうなずいた。
「……いいと思います」
「はい。お市さまも利尚様を想っておられます」
お市は涙ぐんだ。
三人とも、
私よりよほど強かった。
三人の視線が私に集まる。
私は深く息を吸った。
「……三人とも。
私の力不足ゆえ、心を揺らせてしまった。
だが――皆の想いを、責任をもって受け止める」
千代が涙をこぼし、
芳は静かに頭を下げ、
お市は小さく息をついた。
「これより先、苦楽を共にしてくれ。
どうか……私のそばにいてくれ」
三人の返事は、ほぼ同時だった。
「はい……利尚さま……!」
あたしは語り終え、
青年の前のグラスをそっと押しやった。
「ね? 今夜は心が揺れる夜だったでしょ」
青年はグラスを持つ指がわずかに震えていた。
「……すごい話ですね……利尚様……本当に……」
「ふふ、恋も政も、混ざりきらないから面白いのよ。
さ、迷いの味がする一杯をゆっくり楽しんで」
カウンターの灯りが、琥珀色の酒を柔らかく照らしていた。
今夜のお酒とおつまみ
● 三姫のカクテル
甘み・酸味・スパイスが順に来る、不思議で複雑な一杯。
千代・芳・お市――三つの心の重なり。
● 三姫のおつまみ皿
白味噌豆腐(千代)
塩鶏ロースト(芳)
梅香野菜巻き(お市)




