第十一夜 『槍と月下の誓い』
今夜はね――少し熱くて、ちょっと切ない夜の話。
迷うことを恐れたら、前には進めない。
でも、恐れながらでも一歩踏み出す勇気こそが、
ほんとうの「強さ」なのよ。
バーボンソーダを片手に、あの熱田の夜を思い出してちょうだい。
カウンターの照明が、グラスの中で静かに揺れていた。
琥珀の光が、夜の迷いをやわらかく溶かしていく。
青年は、いつもより少し沈んだ顔で言った。
「ママ……もし、守りたい人のために、何かを犠牲にしないといけないとしたら……どうしたらいいんでしょう」
あたしはグラスを磨きながら、ゆっくり息を吐いた。
「ふふ……あんた、優しいのね。でもね――迷いながらでも進む人にしか、守れないものがあるのよ」
青年が首をかしげると、あたしは琥珀色の液体を静かに注いだ。
「その話、ちょうどいいわ。
熱田で、あたしたちが“迷いながら進んだ夜”の話をしてあげる」
「今夜はね、ちょっと熱い話になるのよ。
怖くても一歩踏み出す勇気の話。だから、お酒は――これ」
ヨシエはバーボンソーダを差し出した。
「強がってるけど、ちゃんと優しいの。恐れを知ってる男ほど、この香りが似合うのよ」
グラスの横に、湯気を立てる唐揚げの皿を添える。
「おつまみはスパイシー唐揚げ。
熱くて、ちょっと刺激的。でも噛むほどにクセになるの。
人生も同じ――恐れを越えた先に、本当の味があるのよ」
「さ、飲んで。
今夜の話は、利尚様たちが熱田へ向かう途中で出会った、
血の気の多い若者の話――」
清洲炎上から一年。
濃姫様が信長様のもとで危機にある――そう聞いたあたしは、美濃へ戻って利尚様に報告した。
すぐに利尚様、一鉄様、光秀様、そしてあたしの四人で救出に向かうことが決まった。
でも、胸の奥にはずっと引っかかってたの。
──濃姫様と信長様が惹かれ合ってること。
利尚様にとって濃姫様は妹であり、唯一心を許せる家族。
それを知れば、きっと攻めの決心が鈍る。
だから、あたしは黙っていたの。
濃姫様の危機だけを伝えて……真実は、心の底に沈めたまま。
利尚様は決意を固め、軍を率いて木曽川沿いを南へ進んだ。
夜風が冷たく、川面には月が細く光っていた。
その道中――
「おい、そこの一団!」
峠の先に、若い男が立ちはだかった。
肩には長い槍、額の汗がきらきら光っている。
まるで、若さそのものが立っているみたいだった。
「ずいぶん腕の立ちそうな連中だな。俺と勝負してくれ!」
「あ、あの……また……面倒くさいの、出てきちゃったかも……」
あたしは小さくつぶやき、肩をすくめる。
光秀様は静かに微笑んだ。
「面白い。私はこういう若者、嫌いではない」
「なら……えっと、拙者が!」
一鉄様が槍を掴んで前へ出そうとした瞬間――
「え、えっと……ここは、あ、あたしが……や、やるかも……」
「なっ、女だと!? ふざけるな!」
若者が真っ赤になって叫ぶ。
「勝て……たら、次は……利尚様が、あ、相手……してくれる……かも……」
槍が風を裂いた。
瞬間、あたしは身体を斜めにずらし、槍の穂先を紙一重でかわした。
「ほ、ほら……油断してる暇は……ない……わよ……」
突き出されるたびに半歩だけ避け、拳と肘で反撃。
軽く当てただけで、若者は地面を踏みしめてよろめいた。
最後に槍を払って落とし、首筋にそっと手を添える。
「お、終わり……。も、もう一回……や、やる……?」
「……やめだ。完敗だ……」
あたしが手を離すと、彼は土の上に座り込みながら笑った。
「すげぇ……あんな動き、初めて見た。
俺は犬千代ってんだ。腕を磨くために旅してる」
犬千代――その名を聞いた瞬間、胸の奥がチクリとした。
まさか、あの……前田利家? いや、まだ少年のはず。
でも、この気配……まっすぐで、熱くて、眩しい。まさに犬千代よ。
「行き先は?」と光秀様が問う。
「熱田だ。恩人が困ってる。助けに行く途中なんだ」
「……あ、あの……えっと、偶然、というか……あたしたちも、同じ方向なんです……」
しばらく黙っていた犬千代が、やがて頭を下げた。
「姐さん、俺を弟子にしてくれ! 熱田に着くまででいい。
あんたみたいに強くなりたい!」
「弟子……? あ、あたしは忙しいのよ……あんたの相手してる暇なんか……」
「ヨシエ……」
利尚様の低い声が、月下に響いた。
「弟子を持つのもまた学びだ」
……もう、ほんっとに利尚様は真面目なんだから。
「はぁ……えっと、わ、わかった……熱田までの間だけ、だよ……」
「あ、ありがとうございます!」
月明かりの下、犬千代の目が真っ直ぐに光った。
その純粋さが、どこか痛いほど眩しかった。
あたしたちは夜の道を進んだ。
迷いながらも、信じるものを胸に抱いて。
恐れを抱きながらも、守りたい人のために前へ進む――
そんな夜だった。
青年は話を聞き終えると、静かに息を吐いた。
「……守るために、怖くても前に進む。
ヨシエさん、その時、迷わなかったんですか?」
あたしは微笑んだ。
「ええ、迷ったわ。 怖くて震えた夜もあった。
でもね、“怖い”ってことは、守りたいものがある証拠なの。
それを見失わなければ、道は必ず繋がっていくのよ」
「迷ってもいいの。恐れてもいいの。
でもね、歩くのをやめなければ、ちゃんと辿り着けるの」
青年はゆっくりとグラスを持ち上げ、あたしに笑みを返した。
「……僕も、怖くても進んでみます」
あたしは軽くグラスを合わせた。
──恐れを抱く心こそ、誰かを守りたい証だから。
今夜の締めの一杯
バーボンソーダ
琥珀の香りが、静かな夜に寄り添うように広がる。
強さと優しさ、その両方を持つ人に贈る一杯。
スパイシー唐揚げ
カリッとした衣の下に、熱い情。
恐れを越えて掴む“今”の味
あの熱田の夜、あたしたちは「守る」と「恐れる」の境界で揺れてた。
利尚様も、光秀様も、一鉄様も。
そしてあたしも。
でもね――犬千代のまっすぐな目を見たとき、
あたしは気づいたの。
「恐れ」は、ただの弱さじゃない。
それは、誰かを思う心の裏返し。
時代が変わっても、人の強さと優しさは同じ。
迷いながら、進めばいいのよ。
今夜もその一歩を、あなたのグラスに注いでおくわ。




