第十夜 「熱田残照 ― 言えぬ情の行方 ―」
いらっしゃい、バー〈ゴールデン戦国〉のママ・ヨシエよ。
今夜も、あたしの黒髪にまとわりつく戦国の香り……その一房を、あなたのグラスに落としてあげるわ。
美濃では、利尚様と道三様が“親子の覚悟”を燃やし、
信長様はただ孤独な炎の中で前だけを見つめていた。
そしてあたしは――利尚様と信長様という、まったく違う強さを持つ男たちに惹かれながら、光秀ちゃんと共に「人の心の行き先」を追ってきた。
今夜の舞台は美濃を離れ、熱田。
家中が割れ、味方が消え、商人たちは背を向け、
それでも前に進もうとする信長様の“静かな夜の決断”よ。
孤独、愛、誇り、そして……言えない情。
あたしが立ち会ったその夜を、ゆっくり覗いていきましょ。
バー〈ゴールデン戦国〉。
磨かれたカウンターに、グラスの影がふるえていた。
青年がいつもより深く沈みこんで言った。
「……僕、間違えてるんですかね。
良くしたくて動いているだけなのに、誰もわかってくれない」
あたしはくすっとして、グラスの縁を指でなぞった。
「坊や。
信念を持つ人はね、必ず一度は置いていかれるものよ。
でも、その孤独の先に残ってくれる人が――本物の味方」
青年が少し迷って聞く。
「……利尚様や信長も、そうだったんですか」
「あら、両方よ。
利尚様は“誇り”の孤独。
信長様は“未来”の孤独。
どちらもね、背中にひとり分の風を受けて歩いていたわ」
あたしはジャックダニエル・ブラックラベルを注ぐ。
「煙の香りが強いでしょう?
孤独な夜ほど、こういう芯のあるウイスキーが身に沁みるのよ」
青年の肩の力が少し抜ける。
──さぁ、物語の扉を開くわね。
◆
天文二十三年(1554年)。
清洲炎上から一年。
炎は消えても、尾張の暮らしにはずっと生き灰が降り続いていた。
六角家が関所を押さえ、
浅井家は北の米と塩を締め、
斎藤家は街道を監視し、
さらに一向宗は
「信長と商う者は仏敵」
と触れを回した。
戦で滅ぶんじゃない――
“生活が立ちゆかなくなる”とき、人は心から敗れるのよ。
信長様の背中に漂う疲れを、あたしは何度も目にしたわ。
◆
その頃、美濃・稲葉山城。
黒塗りの軍扇を手にした利尚様が、あたしを呼びつけた。
「ヨシエ。熱田情勢を探れ。
信長が静かすぎる。静けさの裏は、決してただの沈黙ではない」
ヨシエは、少し及び腰になりながらも、
「え、えっと……よ、よろこんで……あっ、い、いえ……ち、ちが……
と、とにかく行ってきます……っ」
と噛み倒して答える。
利尚様は苦笑のような、哀れみのような目をして言った。
「……心配なら光秀をつける。好きにせよ」
(す、好きって……そういう意味じゃ……いや、そうかもしれ……いやいやいや……)
と頭の中で高速回転しつつも、美濃忍として出立した。
利尚陣営の空気は張りつめていた。
道三亡きあとの美濃を整えつつ、
六角・伊賀・尾張の動きを注視し、
光秀ちゃんは軍議の控えで静かに情勢をまとめていた。
「熱田は“信長の心の影”を見る場所になる」
光秀のその言葉が、胸に刺さって離れなかった。
◆
津島の古い商家。
あたしは、すすけた羽織の商人と向き合う。
「……昔は、信長様と新しい世を作れると思っとったんだがねぇ」
指先は痩せこけて、震えていないのが逆につらかった。
「六角は税を上げ、浅井は値を縛り、
斎藤は道を閉ざす。
そのうえ一向衆は“信長の味方は仏敵”と触れを出して……
もう、荷が動かんのですわ」
そこへ信長様が静かに現れた。
あの人は、商人の前では決して威圧しない。
「戻ってこい。……必ず、だ」
願いだった。
虚勢も威厳もつけず、ただ一人の家臣としての声。
◆
その夜、熱田に早馬が割り込み、空気を裂いた。
「急報ッ!!
織田信勝様、挙兵!!
今川より兵糧二百余俵、兵五百!
前田利昌殿ら古参勢は三百!
犬山・楽田の土豪がこれに続き、
総勢、三千六百にて熱田へ進発!!」
信勝軍の構成は、
・今川の支援兵と兵糧
・古参の織田譜代
・信勝派の土豪衆
・親今川の国人
これらが一気に肩入れしたものだった。
「……家中が割られたか」
信長様は目を伏せ、ひとつだけ深い息をした。
濃姫がそっと腕を取る。
「殿。私は――」
その先を言わせず、信長様は静かに遮った。
「濃。逃げよ。そなたは道三殿の娘。
私と共に沈む必要はない」
けれど濃姫は、ただ一歩踏み込み、言葉を置いた。
「殿は、わたしの“選んだ人”です。
父の娘としてではなく……“妻”として。
殿を置いて逃げることなど、できません」
その瞳は、涙ひとつ浮かべていなかった。
あの人は、泣くよりも“覚悟”が先に立つ女なのよ。
そして、お市。
子どもの声なのに、不思議と強さがあった。
「わたし、お兄ちゃんをひとりにしないよ」
信長・濃姫・お市――家族の灯火が、
今にも風で消えそうなほど、儚く燃えていた。
◆
あたしは、美濃へ走った。
利尚様の間に飛び込み、全てを告げた。
「利尚様!
信勝様、信長へ挙兵。今川・古参勢あわせ三千六百です。
熱田は……もう、戦の口火が!」
利尚様は、地図に手を置いたまま、ゆっくり瞳を細めた。
「……濃は」
「申し訳ございません。
連れてこられませんでした。」
利尚様の息が、一瞬だけ止まった気がした。
けれど、その次の瞬間――
「行く」
たったそれだけで、全てが決まった。
光秀は黙って頷き、
半兵衛は静かに兵の数を計算し、
美濃の空気が、ひとつの意志で満たされていく。
あたしは――
ひとつだけ、言わなかった。
濃姫が“信長様のそばを選んだ”ことを。
言えば、利尚様は迷う。
迷いは戦で命を奪う。
愛はね、言わないことで守る夜もあるのよ。
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【今夜の一杯とおつまみ】
◆ジャックダニエル・ブラックラベル
燻る樽香が、折れそうな心の芯をそっと支えるわ。
◆スモークサーモンとアボカドのタルタル
強さのあとに、やわらかな余韻が残る味。
人は「正しい方」じゃなくて、
「本当は誰を、何を守りたいか」で動くの。
利尚も、信長も、濃姫も。
そして、あなただって。
迷いは弱さじゃない。
誰かを大切にしてる証拠よ。
今夜は飲んで、少し泣きなさい。
それでいいの。
涙のあとに見える景色が……人を前に進ませるんだから。




