第9話:眠りから覚める水の影
父の部屋で飲んだ、あの水のことが、澪の頭から離れなかった。
コップに口をつけたときは、ただの水に思えた。無味無臭で、どこまでも透明な、何の変哲もない液体。
けれど、あとになって幾度も思い返すたびに、あの無機質な感触が、逆に喉の奥で異物のように引っかかっていた。
まるで何かを抜き取られたような──、心の深層を撫でられたような、そんな不可解な感覚が残っていた。
澪は、机に両肘をついたまま、じっと視線を落として考え込んでいた。
父に尋ねようにも、あの人は最近、目の奥がどこか焦点を失っているようで、声をかける隙がなかった。
……このままじゃ、また、わからないままで終わる。
澪は顔を上げた。
何の拍子だったか、記憶の底からふと一つの名前が浮かび上がる。
「伊吹先生……」
確か、何度か父に連れられて訪れたことがある人物だ。
無口だったが、どこか穏やかで、話すときには優しげな声音を持っていた。
まるで夢の中で見た風景のように、ふんわりと心に残る声を残す人だった。
名前は──伊吹 悠。
澪は、学校帰りに町の外れへと足を向けた。
坂道を登った先、小高い丘の斜面に寄り添うようにして建つ、古びた洋風の一軒家。
外壁の塗装は風雨にさらされて褪せていたが、そこには不思議と温もりがあった。
ひと気のない場所なのに、ふと懐かしい空気が漂っている。
軋む木の階段を上がると、扉の奥からかすかにコーヒーの香りが漏れ出していた。
インターホンは見当たらず、代わりにドア脇に取り付けられた真鍮の呼び鈴を、澪はそっと押した。
指先がわずかに震えていたのは、冷えた空気のせいだけではなかった。
数秒の静寂ののち、木の扉がぎい、と音を立てて開く。
「……こんにちは。伊吹先生、いらっしゃいますか?」中から落ち着いた声が聞こえた。「どうぞ、中へ。少し座って待っていてくれ」
扉は半ば開いたまま、まるで澪の訪問を受け入れる準備が整っていたかのようだった。澪は一礼し、そっと靴を脱いで、静かな空気の中に身を滑り込ませるようにして室内へと足を踏み入れた。
中はひんやりとしていて、しかしほんのりと香ばしいコーヒーの匂いと、紙の匂いが混ざり合っていた。
壁際には天井まで届く古い書棚が並び、机の上には書きかけのノートと、湯気の消えたマグカップが置かれている。
まるで誰かの思考がそのまま部屋に残されているような、不思議な静けさ。
澪は机の傍に置かれた椅子に腰を下ろし、ふと、机の隅に立てかけられていた一枚の写真に目をとめた。
白衣を着た、少し年上のお姉さんが、まぶしそうに笑っていた。
理知的な印象と、どこか子どもっぽい無邪気さが同居する、そんな笑顔だった。
──先生の妹さんだろうか?そのとき、廊下の奥から、かすかな足音が聞こえてきた。 規則正しく、しかし慎重に床を踏みしめるような、静かな歩調。
低く落ち着いた声とともに、扉の向こうから姿を現したのは──伊吹 悠だった。
以前と変わらぬ穏やかな風貌。けれどその瞳には、どこか翳りを帯びた影が宿っていた。
澪は静かに深呼吸し、父の部屋で見つけた奇妙な水のこと、
そして堤防で体験した不可解な出来事を、途切れ途切れに語りはじめた。
悠は黙ってそれに耳を傾けていたが、やがて澪の瞳を見据え、静かに問いかけた。
「……その水、まだ残っているかい?」
「えっ……?」
「もしあるなら、僕に預けてくれないか」
言葉の裏に、探るような色がわずかににじんでいた。
戸惑いながらも、澪はうなずいた。
悠は立ち上がると、部屋の奥の書棚から一冊の厚いノートを取り出した。
その表紙は日に焼け、角がすり減っていたが、中には細密な文字でびっしりと記録が綴られていた。
「これは、かつてこの町で起きた、いくつかの出来事の記録だよ。
原因不明の集団幻覚、地下水の不透明化、生態系の異常な変化……。あの頃、僕は君のお父さんと共に、静かにその真相を追っていた。」
ページをめくるたび、紙のすれる音が静寂を切り裂いた。
「詳細はまだ伏せておきたい。でも、何かが……また、静かに動き出している気がするんだ」
悠の声は低く、しかし確信を含んでいた。
澪はページの文字を見つめながら、ふと足元の空気がひんやりと冷たくなるのを感じた。
まるで──知らなかった歴史が、この足元から立ち上がろうとしているかのように。
──沈黙の奥に息を潜めている、もう一つの街の顔。
それが今、澪のすぐそばで、ゆっくりと姿を見せ始めていた。