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第8話:海に呼ばれる午後

 

 私は水原 みずはら・みお


 この間は、街の観光広告のポスター撮影で海に行った。

 ちょっと照れくさかったけど、海風に髪がなびく感じが、案外きれいに撮れてた気がする。


 今日は、家で静かに過ごす日。

 海からの風が、レースのカーテンをふわりと揺らしていた。

 陽だまりのなかでページをめくる午後。物語の続きに夢中になりながらも、ふと、喉が渇いたことに気づいた。


「……あれ、飲み物、切らしてたっけ」


 冷蔵庫を開ける。中は空っぽ。

 そのとき、思い出した。父の部屋。あの部屋にも、小さな冷蔵庫があったはず。


 いつもは避けていたその場所。

 だけど、今日はなぜか、あの扉の奥が気になってしまった──。


 父の部屋はひんやりと静まり返っていた。

 白衣のまま椅子に放り出されたままのジャケット、開きかけのノート、無機質な香り。

 隅に置かれた小さな冷蔵庫を開けると、一本のボトルが目に入った。


 透明な水。

 ただの水に見えるのに、なぜだろう、喉が鳴った。


 一口、口に含んだ瞬間──ピリッ。


 舌の奥に走る微かな痛み。

 体の芯で何かが反響するような、ざらついた違和感。

 それでも、すぐに消えていった。いや、溶け込んでいった、というべきかな。


 気づけば、私は靴も履かず、外へ出ていた。

 堤防へ向かって、足が自然と動いていた。


 肌に触れる風が生ぬるくて、夢の中にいるみたいだった。

 空は青くて、海も青くて、音のない世界のなかを歩いていく。


 そのときだった。


 白い麦わら帽子が、ふわりと舞い上がった。

 風に乗って、誰かに導かれるようにくるくると旋回し──

 堤防の上、誰かの足元へと吸い寄せられるように飛んでいった。


 けれど私は、それを追わなかった。


 ただ、まっすぐに海へ向かった。

 誰かの声に呼ばれるように、吸い寄せられるように──


 堤防の端に立ち、私は海を見下ろした。

 そのとき、風が吹いて、何かが耳元で囁いた。


 バランスを崩す。

 身体が傾く。


 世界が反転して、空と海がひとつになった。


 ──落ちる。


 冷たい水が全身を包み込む。

 でも、不思議と怖くはなかった。

 帰る場所に戻るような、不思議な安堵があった。


 意識が薄れていく。


 ──そのときだった。


 誰かの手が、私をつかんだ。

 しっかりとした、あたたかい手。


 見上げた光の中にいた人の顔は、はっきりとは思い出せない。

 でも、私を引き上げてくれたそのぬくもりだけは、今も胸の中に残っている。


(ありがとう)


 堤防の上。

 濡れた体を風が撫でる。私は膝を抱えて座っていた。


 見上げた空は、まぶしいほど青かった。

 波のきらめきと、さっき飛ばされた白い帽子が、隣に落ちている。

 そして、ひとつ先の段に、ぽつりと置かれた古びたコーヒーミル。


 潮騒の中で、なぜかその姿がとても懐かしく感じられた。

 あの手のぬくもりと、コーヒーの香り。

 忘れていた記憶のかけらが、ほんの少しだけ、胸に灯る。


 私はそれを、そっと拾い上げた。



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