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第7話:あの夏の記憶

 ──水の中には、記憶が沈んでいた。


 ただ静かに、深く、ずっとそこにあった。


 波音が遠ざかり、まるで夢のなかに落ちていくように──

 俺の意識は、かつての夏へと、静かに巻き戻されていった。


 あの夏の記憶は、妙に鮮明だった。


 強い日差しが降り注ぐ昼下がり。

 俺はひとり、防波堤の上に座っていた。


 揺れる海面。照りつける太陽。乾いたセミの声。

 潮の香りが、風とともに鼻をかすめる。


 ただぼんやりと海を眺めていただけだった。

 けれど、風が吹いたその瞬間、すべてが変わった。


 ふわり──

 風に乗って何かが舞った。


 麦わら帽子。

 何かを訴えかけるかのように俺の足元に届いた。


 俺は反射的にそれを拾おうと手を伸ばした。

 その瞬間、胸の奥がざわりと騒ぎ始めた。


 息が一瞬止まったような気がして、手先が微かに震える。

 まるで、何かが喉元に引っかかったような──

 思い出せそうで思い出せない、けれど確かに知っている感覚が、身体中を満たしていく。


 何かに引き寄せられるように、顔を上げる。

 心臓が高鳴り、胸の奥が締めつけられた。


 そこに──彼女はいた。


 あの白いワンピースの少女が、海のほうへと歩いていた。

 日差しに透けそうなほど薄い布地。肩に触れるたび、風に揺れる。

 長い髪もまた、波のようにゆっくりと揺れていた。


 まるで夢の中の光景だった。けれど、視線を離せなかった。


「……え?」


 その背中に、かすかな違和感を覚えた。

 ただの偶然──そう思おうとしても、心はそれを拒否した。


 次の瞬間、少女は防波堤の先端へ。

 まるで引き寄せられるように、歩いて行った。


 足取りは軽く、迷いなど一切なかった。


 ──飛び込もうとしていた。


「やめろっ!」


 気づいたときには、もう叫んでいた。

 体が勝手に走り出していた。


 だが、間に合わない。

 少女の体が、青く広がる海へ、すうっと吸い込まれていった。


 波しぶきが上がる。


 次の瞬間、俺も飛び込んでいた。


 冷たい海水が全身を包む。

 視界は濁り、

 鼓膜の中で、自分の心音だけが反響している。


 少女は──どこだ。


 必死に腕を伸ばす。

 泡の向こう、白い布が揺れた。


 掴む。強く引き寄せる。


 その体は、まるで水そのもののように冷たくて、柔らかかった。


 なんとか砂浜へとたどり着き、彼女を抱きかかえながら倒れ込む。

 息が切れて、世界が歪んだ。


 それでも──彼女は笑った。


「ありがとう」


 濡れた髪をかき上げながら、ふっと笑うその姿は、まるで陽だまりだった。

 その微笑みが、心を一瞬でほどく。


 だが──その笑顔はすぐに消えた。


 彼女の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えた。

 その声が、静かに、けれど決定的に響く。


「まだ死ぬ時じゃないよ」


 まるで、それがあらかじめ決まっていたかのように。

 その言葉には、どこか決意にも似た響きがあった。


 背筋に冷たいものが走る。

 理解が追いつかないまま、世界がぐらりと揺れた。


 ──震動。


 胸ポケットのスマートフォンが震えた。


「……っ!」


 現実へと引き戻される。

 重く、冷たい水が胸まで迫っていた。


 井戸の中。

 暗く、湿った空気。わずかに漂う鉄の匂い。


 青白い光が、視界の端をかすめた。


 ──瓶が……!


 先ほど採取した、あの発光する地下水の瓶が、流されている。


「くそっ……!」


 反射的にロープの元へ向かって泳ぐ。

 腕が、足が痺れる。それでも──掴む。


「椿ーーーッ!! 引き上げてくれ!!」


 声が井戸の壁に反響していく。


 地上では、激しい豪雨が辺りを叩きつけていた。


 椿は井戸から少し離れ、顔を両手で覆っていた。

 ずぶ濡れの白いシャツが冷たく、心の中も同じように凍えていた。


「遅い……なんで……」


 不安が胸を締めつける。

 と、その時──


 井戸の底から、微かな叫びが届いた。


「椿ーーーッ!!」


「……!」


 その声。彼の声だ。


 息を呑んで顔を上げる。

 まぎれもなく、本物だった。


 椿はロープの元へ駆け寄り、震える手でウインチのハンドルを掴んだ。

 力が入らない。何度も滑る。それでも構わず、必死に回す。


「無事……生きてた……っ」


 唇から漏れた声は、風にかき消えそうだった。

 涙なのか、雨なのか、視界がにじんでいた。


 それでも椿は、全力で巻き上げ続けた。

 彼が戻ると信じて。あの笑顔で、もう一度会えると信じて──。


 ようやく、井戸の縁から水を滴らせた手が現れる。

 男は全身を濡らし、ロープにぶら下がった状態でようやく姿を現した。


 椿が両腕で引き寄せ、地面に倒れ込む。


「瓶が……採取したやつ……流されてしまった……」


 彼の声は、かすれ、熱がこもっていた。


 椿は目を見開くが、すぐに首を横に振る。


「いいよ。あなたが……無事に戻ってきてくれたなら、それだけで」


 静かな声。それが、胸に染みた。


 そして──

 彼の耳には、まだあの声が残っていた。


「まだ死ぬ時じゃないよ」


 少女の声。

 幻でしかなかったはずの、あの夏の記憶。


 だけど今──

 その記憶が、確かに何かを告げようとしている。


 静かに、しかし確かに、運命の歯車が回り始めていた。



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