第6話:井戸の底、光の囁き
カフェを出たあと、俺と椿は一度役所に立ち寄った。調査の許可が正式に下りたのは、昼過ぎのことだった。
椿は書類をカバンにしまいながら「急ぎましょう」と短く言い、俺たちは地図に記されていた『旧水源』と書かれた地点へと向かった。
舗装された道路を外れ、山際の林の奥へと進む小道を抜けると、徐々に人気がなくなっていった。
昼の陽射しがやわらかく降り注ぎ、セミの声が遠くから聞こえる。
舗装の切れた道には小さな草花が揺れていて、まるで人の気配から遠ざかっていくようだった。
「ここ……だよね?」
俺が尋ねると、椿は無言でうなずいた。
その視線の先には、ぽっかりと口を開けた古井戸が佇んでいた。
椿はリュックを肩にかけ、いつもの白衣の代わりにシンプルなパーカーを羽織っていた。
その顔には、研究者としての覚悟と、不安を押し隠すような緊張が浮かんでいた。
「ここに、例の通路があるってことか」
俺は井戸の縁を覗き込みながら、さっき見た写真を思い出す。
濡れた石壁の奥に、不自然な直線。
今まではただの古井戸だと思っていたその奥に、何かが眠っている。
「ええ、気をつけて。ロープとライトはあるけど、念のためヘルメットもかぶって」
椿が差し出したヘルメットを受け取り、ぎこちなく頭に装着する。
彼女の準備のよさには、毎度ながら感心させられる。
「じゃあ、降りるね」
ロープを井戸の支柱にしっかりと結び、俺は慎重に足を井戸の内側へと滑らせた。
ひんやりとした石の感触が、背筋を冷たく撫でていく。
下へ、さらに下へ。
闇が濃くなり、懐中電灯の明かりが唯一の頼りになる。
やがて、足が水面に触れた。
浅い水が靴底を濡らす音が、井戸の内壁に反響して不気味に響く。
「見える?」上から椿の声。
「大丈夫。……あった。写真の通路、ここから入れそうだ」
俺は濡れた壁を手探りで確認し、わずかに開いた石の隙間を見つけた。
中からは、ほんのかすかな光が漏れている。
まるで、呼吸するような淡い青白い光。
「入ってみる」
通路の中は思ったよりも広く、足元に注意しながらゆっくりと進む。
壁には藻のようなものが生えており、その一部が光っているように見えた。
湿った空間に、自分の呼吸だけが響く。
そして──ふっと、空気の質が変わった。
視界の先、闇の中に淡く揺れるものがある。
青白い光。
水底から立ち上るようにして、ふわふわと漂っていた。
それは細長く、まるで生きているように身をくねらせ、光を放っている。
一瞬、何かの幻影かと思った。
だが、その光は俺の目を確かに捉え、動いた。
(……なんだ、これは)
意識の奥がざわつく。
体の奥、内側の奥底で、何かが囁いている気がする。
呼吸が、うまくできない。
──ぽた、ぽた。
どこからともなく、水音のような──いや、違う。
それはまるで、コーヒーがドリップされる音だった。
次第に意識がにじみ、染み込まれていく感覚。
熱も香りもないのに、何かが、俺という存在を少しずつ染め上げていく。
深く、静かに、じわじわと。
自分というキャンバスが、透明な液体に浸されていく錯覚。
「……っ」
俺は震える手で瓶の蓋を開けた。
そして、光る『それ』を、そっとすくい取った。
──その瞬間。
頭が、割れるように痛んだ。
目の奥が、光に焼かれるように熱い。
全身の感覚が、一気に遠のいていく。
視界が傾いた。
世界がぐにゃりと歪む。
天井が落ちてくるような感覚。
身体が言うことを聞かない。
手足が、氷のように重くなる。
「あ、ああ……」
俺は意識を失いかけて倒れた。
水の冷たさだけが、意識と現実をつなぎとめる細い糸だった。
その頃、椿は井戸の縁に腰を下ろし、不安げにスマートフォンを握りしめていた。
(そろそろ、連絡が来てもいい頃なのに……)
だが、スマホの画面には何の通知も表示されない。
海からの風が強くなり、雲が空を覆い始めていた。
「……遅い」
そう呟いたその瞬間、ぽつり、と頬に冷たいものが触れた。
空から落ちてきたのは、最初の一滴。
そして次の瞬間には、突然の、まるで空が裂けたようなゲリラ豪雨。
「……嘘、こんな時に……!」
椿は驚いて立ち上がり、スマホ耳に当てる。
「お願い、出て……!」
再びスマホを見つめ、震える指でコールボタンを押す。
1回、2回、3回──
プルルル──……
ようやく、呼び出し音が鳴った。
「……お願い、無事でいて……」
「沈黙の井戸の中、水音が小さく跳ね始めた。」
その底で、瓶を握ったまま倒れた俺の周囲に、再び青白い光がゆらめいていた。
頭が割れるように痛み、意識はゆっくりと薄れていった。
「……ああ……」
呼吸もままならず、身体が重くなっていく。
気づけば、視界はぼんやりと霞み、水面がゆっくりと、しかし確実に近づいていた。
水の冷たさが皮膚を刺し、足元からじわじわと水位が上がってくる。
青白い光が周囲にふわりと漂い、まるで俺の意識を引き留めるかのように揺れている。
だが、身体はもう言うことをきかず、頭の中は真っ白になっていった。
水面が唇に触れた瞬間、完全に意識は途切れた。
冷たい闇の中、青白い光だけが、静かに揺らめいていた。