第5話:封じられた水脈
朝の光の中で、再びカメラのデータを見返していた。
昨夜の、あの井戸の写真──青白い光と、そこにあった目。
記憶のどこかが、じわりと染み出すように刺激されていた。
でも、まだぼんやりしている。
まるで夢を掴もうとしているような、そんな感覚だった。
ページをめくるように写真を眺めながら、ふと胸ポケットに手をやる。
──紙だ。
小さく折りたたまれた一枚のメモ。
椿という名の女性から渡された連絡先だった。
(……そうだ。会ったんだ。あの井戸の前で)
昨夜のことが、少しずつ思い出されていく。
水面の光。フラッシュ。あの声。彼女の目。
どこか現実感がなかった。けれど、確かにそこにいた。
俺はそのメモを取り出し、スマホに番号を打ち込んだ。
一瞬、指が止まる。電話をかけるのは気が引けて、メッセージにした。
おはようございます。昨日、井戸のところでお会いした者です。
少しお話したいことがあって……お時間いただけませんか。
送信ボタンを押したあと、妙に息を詰めてしまっている自分に気づいた。
まるで、告白でもするみたいだ。いや、違う。これはそういう話じゃない。
でも、どこか「人と繋がること」を久しぶりにしている気がしていた。
数分後、返事が届く。
今日の午後、調査でまた小屋の近くに行きます。
そのあと少し時間を取れますので、カフェで会いましょう。
午後、カフェの木の椅子に座っていると、ドアの音がして椿が入ってきた。
白衣ではなく、シンプルなシャツにジーンズ姿。
研究者らしさを残しながらも、どこか休日の空気をまとっていた。
「……あ、コーヒーの人だ」
彼女は俺を見つけるなり、口元をわずかにゆるめた。
「椿さん」
「伊吹でいいですよ。でも、椿でもいいです。好きなように呼んでください」
俺は軽く会釈をして、向かいの椅子をすすめた。
「昨日、ありがとうございました。あの……メモ、ちゃんと受け取りました」
「そう。ちゃんと覚えてたんですね。それなら、少し安心です」
椿はアイスコーヒーを頼むと、鞄からノートを取り出した。
中には手書きのメモや図、地図らしきものが貼られている。
「地下水のサンプル、今日も採ってきました。……やっぱり通常とは違う成分が出てます。
自然にしては不自然すぎる。外部からの何か、もしくは……」
「昔からこの町は、何かを抱えてるんでしょうか」
思わず言葉が漏れると、椿は少しだけ視線を逸らした。
「……うちの母がね。十年前、この町で失踪してるの。未解決のまま」
言葉が詰まる。
「科学的に答えを出したいんです。
何が人を狂わせて、どこに消えてしまうのか」
カップを見つめたまま、彼女はふっと自嘲気味に笑った。
「笑っちゃいますよね。理系の私が、まるで幽霊を追ってるみたいで」
「……俺は、分かる気がします」
「ふふ、ありがとう」
「俺は……何かを思い出しそうなんです。
昔、誰かを助けた記憶がある。
でも、顔も名前も思い出せない。
それでも、あのとき──助けなきゃって、そう思ったんです」
椿の手が、ノートを閉じる音に重なった。
「覚えてるんですね。身体が」
「……たぶん」
「それなら大丈夫。忘れたものも、誰かとの出会いで戻ることがある。
科学だって、過去の観測データが鍵になることがあるんです」
カップに口をつけながら、彼女はふと遠くを見た。
「この町には、きっとまだ隠れてる真実がある。
それにあなたが気づいたなら──それは、偶然じゃないと思います」
椿がノートを閉じたとき、ふと視線を上げた。
「……ところで、役場には通報しておきました。あの井戸、水質に異常がある可能性が高いって」
「えっ、もう?」
「対応が早いほうがいいと思って。もしかしたら、住民の健康にも関わることだから」
彼女の目は、静かだけど決意を含んでいた。
「一時的にでも、あの水の使用は禁止になるはず。調査が進めば、何かがわかる」
椿の言葉は、俺の中の霧を少しだけ晴らしてくれる気がした。
次の瞬間、椿はバッグから一枚の地図を取り出した。
開かれた地図には、「旧水源」と記された赤い印。
山際の林の奥、住民にも忘れ去られたような場所に、それはあった。
「この井戸、昔は湧水の源だったらしいの。でも今は……封鎖されてるここのコーヒー小屋とつながっているはず」
カフェの片隅、湯気を立てるマグカップを手に、椿は静かに言った。
「この水、どこかおかしい。……本当に自然由来のものだと思う?」
彼女の眼差しは真っすぐだった。冷静で、でもその奥にある切実さを感じ取った俺は、気がつけば頷いていた。
「正直に言うと、まだよくわからないんです……。」
少しだけ笑ってから続けた。
「ただ、普通じゃないのは確かで……調査が進めば、何か見えてくるかもしれません」
そう言うと俺はマグカップを静かに置きながら続ける。
「椿さん……俺も、この調査に協力させてほしい」
言葉に出すと、不思議と胸の奥が少し軽くなった。
「何か、引き寄せられるような気がして──あの井戸で感じた何かは、俺だけの幻じゃないはずだ」
椿は驚いたように目を見開き、やがてゆっくりと頷いた。
「……ありがとう。そう言ってくれるのは心強いです」
彼女の声に、熱い決意が込められているのを感じた。
「私たちが真実を見つけ出さなければ、きっと誰も救えない」
俺もまた、いつのまにか覚悟を決めていた。
どこからか静かな気配が俺の背中を押すように感じた。
「じゃあ、井戸の調査に同行してくれる?」
カフェのテーブル越し、椿の声が静かに響く。
その瞳はまっすぐで、迷いの色がなかった。
「井戸の調査……?」
「ええ。サンプルを採りたいの。昨日の現場の下、もっと深い場所に何かがある気がする。
でも危険もある。だから、私ひとりで行くつもりだった」
俺はマグカップを置き、少し息を整える。
胸の奥に残る、あの青白い光の残像が蘇る。
「俺が行きます」
椿が驚いたように瞬きをした。
「あなたが?」
「昨日の夜、あそこで感じたこと……ただの好奇心じゃない。
見過ごせない何かがあった。俺にも確かめたいんです」
一瞬の沈黙が落ちる。
カフェの空気が、ふっと引き締まるような気がした。
そして、俺は言った。
「大丈夫。コーヒーを淹れるときみたいに、慎重にやります」
椿は小さく笑った。
それはどこか、覚悟を理解した人の微笑みだった。
「……わかりました。じゃあ、任せます」
彼女はバッグの中から折りたたまれた地図をもう一度広げた。
指先が、旧水源の印に触れる。
「ここが、次の目的地です。気をつけて。何が待ってるかわからないから」
立ち上がったとき、カップの底にはもう冷めたコーヒーが残っていた。
カフェを出ると、まだ少し冷たい風が頬を撫でていく。
夕暮れが町を静かに包み始めるなか、俺はゆっくりと歩き出した。
まだ見ぬ真実が、きっとこの先に待っている──。