第4話:青白い残像
ポスターを撮ろうと、俺はカメラを構えた。
ファインダー越しに、少女の瞳がこちらを見返している気がした。
──何も言わず、ただそこに立っている。
紙の中の存在であるはずなのに、風鈴の音に合わせて白い裾が揺れているように見えた。
躊躇いながらも、シャッターを切る。
──ピカッ。
フラッシュが瞬き、耳の奥で「キィン」と余韻のような音が響いた。
その場に何かを焼きつけてしまったようで、俺はそっと目を伏せた。
「……帰ろう」
だが、足がそのまま家へと向くのを拒んだ。
鼓動がどこか浮ついている。
心を落ち着かせたくて、小屋に隣接するカフェへ向かった。
カフェには数人の常連がいた。
木製の壁には夏の午後が柔らかく射し込み、空気に豆を煎った香ばしさが溶けている。
カウンターの端に座った俺の近くで、年配の客がカップの中の砂糖をゆっくりとかき混ぜながら、ぽつりとつぶやいた。
「魚もな、浜のほうで浮かんでたって話だ。若いもんが言うには、山のほうの工場が何か流したんじゃねぇかって」
スプーンがカップの内側を小さく叩くたびに、不穏な空気が静かに広がっていく。
俺はカップの中の黒い液体を見つめた。
その中には、答えも説明もなかった。
──翌朝。
俺はカメラのデータを確認していた。
何気なくページをめくるようにファイルを開いていく。
そして──目が止まる。
そこにあった一枚。
小屋の内部、ポンプの奥に据えられた井戸の蓋。
それが半ば開いていて、そこから──
淡く、青白い光が水面から立ち上っている写真。
「……え?」
ぞわりと、背筋に冷たいものが這い上がる。
撮った覚えが、ない。まるで夢の中の映像を誰かがカメラに入れたような、現実感のない一枚。
でも、見覚えはあった。
──いや、あのあと、俺は……もう一度、行った?
記憶が曖昧だ。
寝ぼけていたのか、それとも……。
記憶が掠れながら蘇ってくる。夜の気配の中、小屋へと続く林道を歩いていた光景。
草いきれ、虫の音、ライトに照らされる朽ちた木の壁。
そして──
気づけば、俺は井戸の前に立っていた。
夜の空気は張り詰めていて、虫の声さえ遠ざかっている。
懐中電灯の光が、かろうじて足元と木の蓋を照らしていた。
蓋は、少しだけずれていた。
わずかな隙間が、闇の奥へと誘い込むようにぽっかりと開いている。
喉が渇いているのに、唾が飲み込めなかった。
鼓動が耳の奥で響いている。
──やめろ。開けるな。
そんな直感が、脊髄を逆流してくる。
けれど、手はもう蓋にかかっていた。
そして、ゆっくりと押し開ける。
ギィ……ギィ……
鈍く軋む音が、やけに生々しく耳に刺さる。
蓋がわずかに滑り、黒い闇が露わになる。
覗き込むと──水面が、あった。
静かに、しかし確かに、青白い光がたゆたっている。
細かな粒子が、炎のようにゆらゆらと揺れている。
目が離せなかった。
それらは無秩序に漂いながらも、どこか一定のリズムを刻んでいた。
その光が、こちらへと近づいてくるような錯覚すらあった。
そして、思わず──シャッターを切った。
ピカッ。
フラッシュが一瞬、世界を真白に染めた。
その刹那、水面の奥から『青い目』がこちらを見返していた──ような気がした。
ぞくりと、全身の皮膚が逆立つ。
幻か、それとも何かが本当にいたのか──
その目は、まるで意志を持っているようだった。
下から、覗き返されている。
そんな逆方向の視線が、背骨に沿って這い上がってくる。
意識が、吸い込まれていく。
頭の奥でぎしりと軋むような音がする。
世界が歪み始める。
このままではいけない──なのに目を逸らせない。
そのときだった。
「そこ、立ち入り禁止じゃないけど……あまり長居はしないほうがいいですよ」
声が、闇を裂いた。
まるで夢の中でしかけた崖から現実に引き戻されたように、俺は反射的に後ずさった。
振り返ると、ライトの向こうに女性が立っていた。
白衣の上に、くすんだ紺のカーディガン。
首からはネームタグのようなものが下がり、片手には小型のセンサー機器のようなものを持っている。
声は柔らかいが、芯がある。
冷静さの中に、経験の重みが宿っていた。
「……地元の方?」
「最近越してきたばかりで。水を汲みに来ただけです」
「ああ、コーヒーの人ね」
彼女は小さく笑った。
でも、笑っていない目だった。
「地下水に何かが混ざってる可能性があります。自然由来か、人為的か……まだ断定できません」
腕時計が、かすかに光を反射した。
「椿です。伊吹 椿。環境科学を専門にしています」
そう言って、手を差し出してくる。
俺は少し戸惑いながらも、手を取った。
「……ただのコーヒー好きです」
椿はまた笑った。
その笑顔には、どこか諦めに近いものがあった。
「こういうの、よくあるんですよ。見たはずのものが、記憶の中でどんどん歪んでいく。
見たことがあやふやになる前に──メモしておいた方がいい」
彼女はポケットから小さなメモ帳を取り出し、何かを書いて千切って差し出した。
「これ、私の連絡先。あとででいいので、さっき感じたこと、見たもの、なるべく詳しく書き留めておいてください。
忘れるより前に、書くことで記憶が形になります」
俺はその紙を受け取って、そっと胸ポケットにしまった。
何か重たいものを託されたような感覚が、指先に残っていた。
「じゃあ、また。何かあれば連絡を」
彼女はそう言って、機器のスイッチを入れる。
ピッと鳴った音が、夜に吸い込まれていった。
俺は、もう一度井戸を見返すことはなかった。
ただ、背を向けたまま小屋を離れた。
けれど──
あの井戸の奥に浮かんでいた青い目の残像だけは、いつまでも、瞼の裏に焼きついていた。