第3話:記憶の波紋
夏の朝は、湿った空気が空を重たくしていた。
海辺のベンチに腰を下ろし、いつものようにコーヒー豆を挽く。
ゴリ……ゴリ……と手を動かす音が、寄せては返す波の音と重なって、ゆるやかなリズムを生んでいた。
豆を挽き終え、次は水を準備しようと冷蔵庫に手を伸ばす。
──しかし、そこにあるはずのピッチャーは空だった。
しまった、と思いながら蛇口をひねってみるも、鉄のような匂いが混じった水が少し出るだけで、とてもコーヒーに使う気にはなれない。
この街に引っ越してからは、祖母がよく通っていたカフェに隣接する、古い水汲み場――通称「コーヒー小屋」へ水を汲みに行くのが習慣になっていた。
「ここで汲む水は、コーヒーがまろやかになる」と、近所の人は口を揃えて言う。
「仕方がない、汲みに行くか」
俺はカメラを肩にかけ、湿った土の匂いと草いきれの中、林の奥へと足を踏み入れた。
木々のざわめきが、朝の静けさをかすかにかき乱している。
やがて現れたコーヒー小屋は、木造の小さな建物だった。
軒先に吊るされた風鈴が、風に揺れて涼しげな音を奏でている。
俺は手押しポンプに手をかけた。
ギィ、ギィと軋む金属音が静かな林に響き、地下深くから水が押し上げられる。
勢いよく注ぎ口からあふれ出た水は、タンクの中で透明な波紋を描きながら、さらさらと心地よい音を立てて溜まっていく。
冷たく、どこか硬質な光沢を湛えた水面がゆらりと揺れ、周囲の緑を淡く映し出していた。
タンクが満ちるのを見届けてから、俺はそっと小さなカップを取り出した。
そこに少しだけ水を注ぎ、静かに唇へと運ぶ。
──一口含んだ瞬間、舌の奥にピリッとした微かな刺激が走った。
いつもとは違う。
冷たさの中に、説明のつかない違和感が混ざっている。
まるで、水の中に、誰かの記憶が沈んでいるようだった。
ふと、小屋の壁に貼られたポスターに目が止まった。
何枚かある中の一枚だけが、妙に色鮮やかで、まるで最近貼られたばかりのようだった。
白いワンピースの少女が、浜辺に立ち、こちらをじっと見つめている。
「……あの子……」
見覚えがあった。
あの日、堤防で出会った、あの少女の姿にそっくりだった。
すると、ポスターの少女が、ふっと微笑んだ気がした。
辺りには誰もいない。
風鈴の音だけが、ゆらりと揺れて響いている。
俺は凍りついたようにその場に立ち尽くした。
そして、肌にまとわりつく湿気が、急に重たくなった。
波音が、心の奥から響いてくる──そんな気がした。
──まるで、もう海の中に揺られているかのように。