第2話:味のないコーヒー
少女が消えた後、堤防の先をしばらく見つめていた。
視界の隅に、まだ彼女の白いワンピースが揺れている気がして──
だが、振り返るたびに、そこにはただ風が吹くだけだった。
俺は、ひとまず海岸に降りた。
パトカーの赤い光が、ゆっくりと回転している。
砂浜の中央にはブルーシート。周囲に数人の警官が立ち、物々しい雰囲気を放っていた。
「……すみません、その……何かあったんですか」
近づいて声をかけると、ひとりの警官がちらりと俺を見た。
年配で、表情の硬い男だった。
「今朝方、通報がありましてね。波打ち際で女性が倒れていたと」
「……亡くなったんですか?」
「……今のところは、そうとしか」
言葉を濁すように、彼は目を逸らした。
背後では、波の音が静かに、だが途切れずに続いていた。
「身元は……」
「まだ分かってません。所持品も水で濡れていて……身元を特定できるものは、今のところないですね」
警官は少し間を置いて続けた。
「ただ、足元が滑った可能性も高い。堤防の先は、よく滑りますから」
その口ぶりはどこか事務的で、けれど──慣れているようでもあった。
──毎年のこと。
白い少女の声が、頭の奥で再びささやく。
「……あの、今朝、堤防で少女を見たんですが」
俺が言いかけると、警官の顔がわずかにこわばった。
「……白いワンピースを着た少女、ですか?」
「……え?」
咄嗟に頷くと、彼はほんのわずかに目を細めた。
「……ここいらじゃ、昔からよく見るって話です。通報の半分くらいは、あんたみたいに“少女を見た”って言うんですよ」
「それって、つまり──」
「幽霊とか、そういうのを信じるわけじゃありません。でも……ここは、そういう土地なんですよ」
警官は、それ以上何も言わなかった。
言えないのか、それとも……言いたくないのか。
その時、俺の背後で、風が一瞬止んだ。
まるで誰かが、黙ってこちらを見つめているように。
俺は礼を言って、足早にその場を離れた。
帰宅後、部屋に入った瞬間、潮の匂いが急に遠のいた。
それでもバッグの中には、今朝挽いたばかりのコーヒー豆の香りが、まだほんのりと残っていた。
俺はキッチンに立ち、ドリップの準備を始めた。
豆はエチオピア・イルガチェフェ。浅煎りで華やかな香りが特徴のやつだ。
この豆は、祖母も好きだった。
記録をつけておく癖がある俺は、ノートを開く。今日のページに銘柄と挽き具合、湯温、抽出時間を記入する。
だが──
いつも楽しみにしていたこの時間に、どこか、妙な違和感があった。
カップに注ぎ、ひと口飲む。
──味が、しない。
水を飲んでいるような感覚だった。香りだけが鼻腔をかすめ、味覚に届かない。
おかしい。俺は慌ててもうひと口試すが、やはり──何の味もなかった。
ふと、思い出す。
味覚の喪失──祖母が最期の頃、何を食べても「味がしない」と言っていた。
「心が何かを閉じ込めようとしてるとき、味も感じなくなるのよ」
そう、祖母は言っていた。
──心が、何かを閉じ込めようとしている?
俺は、もう一度ノートを開き、端に小さく書き加える。
「海に選ばれる──それは、死なのか、それとも別の何かか?」
視界の端で、白いワンピースの裾が、ふわりと揺れた気がした。
俺は咄嗟に部屋の窓を見た。
──何も、いない。
翌朝。新聞を開いた。
昨朝、あの海岸で見た女性のことは──一行も、載っていなかった。
まるで、最初から『いなかった』ように。