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第14話:希望の雫

 水を受け止めるフラスコの中で、青白い粒子がゆっくりと沈んでいく。

 ガラス越しに差し込む午後の陽光がその粒子を淡く照らすたび、まるで生命を宿したかのように、かすかに瞬いた。

 研究室の中には、器具のかすかな軋みと時計の針が進む音だけが響いている。


 椿は顕微鏡を覗き込んだまま、静かに息を吐いた。

 総一、沙耶、そして兄の悠が懸命に追い求め、あと一歩で辿り着こうとしていたもの——。


 椿はそのバトンを受け継ぎ、さらに人が口にしても安全な形へと、自然な方法で完成させ、今まさにひとつの「解」として手の中に収めようとしていた。


 顕微鏡の視野の中。

 青白い結晶が、静かに、しかし確実に反応していく。

 椿は慎重に、希釈した中和試薬をスポイトで吸い上げる。

 それは、ほんのわずかな誤差で毒にも薬にもなる代物だった。

 だからこそ——まず、自分の手で確かめなければならない。


 指先に、一滴。

 冷たさが肌を滑り、じわりと馴染んでいく。

 ——異常なし。


 次に、ごく少量を舌の上へ。

 苦味と、金属のような渋み。

 喉を通り過ぎる感覚を、椿は冷静に観察した。


 数秒の沈黙が流れる。

 目眩も、吐き気もない。痺れも、異常もない。


「……影響なし。成功よ」


 わずかに揺れた声。けれど、それは確かな確信に満ちていた。

 椿は試験管をホルダーに戻し、深く息を吸う。

 総一と沙耶が未完成のまま遺した式。

 そこに、彼女自身の経験と知識を重ねて完成させた中和剤。


「これで……彼と澪を助けられる」


 その呟きは、まるで灯火のように彼女の胸に灯った。

 これは、科学の力だけでは辿り着けなかった。

 皆の想いが重なったからこそ、今ここに答えがある。


 再び訪れた、コーヒー小屋の水汲み場。

 夕暮れの空は茜色に染まり、水面に映る影がゆらりと揺れている。

 その下に、かつて彼が落とした瓶が、青白い光を放ちながら静かに眠っていた。


 瓶の中には、ゆらりと揺れる細い影。

 糸のようで、まるで何かが変異した、青白く光るハリガネムシのようだった。

 それは、どこか不自然な、得体の知れない違和感を纏っていた。


 椿は瓶を静かに手に取り、確かめるように見つめる。

 ——これはもう、ハリガネムシではない。

 脳に作用し、『還る』という衝動を誘導する、異常な化学物質を生み出す何か。


「これが……澪を蝕んでいたもの」


 瓶を胸に抱き、椿はそっと立ち上がる。

 中和剤と、この『答え』があれば——まだ、間に合う。


 彼女は海辺の小道を駆けた。

 風がスカートを煽り、遠く波の音が耳を打つ。

 夕日が水平線に沈みかけ、空と海の境が橙と群青のグラデーションに染まっていた。

 この町の景色も、どこか静かに息をひそめ、運命の一瞬を見守っているようだった。


 やがて、澪の家が見えてきた。

 その白い壁は薄暗くなった空の下でかすかに輝き、どこか儚げな雰囲気を漂わせていた。


 椿は扉をそっと開けた。

 潮の香りがわずかに漂うその部屋で、澪は穏やかな寝息を立てていた。

 カーテン越しの風が、彼女の髪をやさしく揺らしている。


「……来てくれたの、椿さん」


 弱々しい声。けれど、それは確かに希望の兆しだった。


 椿は静かに微笑み、ベッドの脇に膝をつき、澪の手をそっと握った。


「待たせてごめん。でもね、ようやく完成したの」


 スポイトに吸い上げた中和剤を、澪の唇に添える。

 ごくわずかに、彼女の喉が動く。


「もう、還らなくていい。

 ここが、あなたの居場所だから」


 澪は目を閉じ、小さくうなずいた。

 その瞼の裏に、やがて穏やかな光が宿るような気がした。


 瓶の中で、青白い光が静かに滲んでいく。

 それは、還るべき場所を見失った命が、ようやく『とどまる』ことを許された瞬間だった。


 ——こうして、青い水を回る科学者たちの戦いの終わりが、静かに、しかし確実に近づいていた。」



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