表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/15

第13話:受け継がれた鍵

 

 波の音が遠く、けれど確かに耳に届く。

 午後の陽射しが、砂と塩の匂いを孕んだ風に揺らぎながら、彼女の髪をかすめていく。


 椿はひとり、町の外れの道を歩いていた。

 朽ちたガードレールの向こうに、海が、光の帳をまとって広がっている。


 井戸での調査のあと——「ただのコーヒー好き」と名乗った青年が倒れた夜。

 病院の白い天井を見上げた彼の顔には、どこか、何かを見透かしたような静けさが宿っていた。


 彼女の胸の内には、その夜から消えずに残る、言い知れぬ予感があった。


 目指すのは、今はもう人の出入りも少ない一軒の古家。

 かつてこの町の水を研究していた総一——その妻が、静かに暮らしているという。


 呼び鈴の音が、昼下がりの静けさに吸い込まれていく。

 やがて、重たく軋む音と共に、扉がゆっくりと開いた。


「……あなた、椿ちゃんでしょう?」


 低くかすれた声だった。

 現れたのは、色の抜けたブラウスを身にまとった初老の女性。目元には深い影が宿り、年齢以上に刻まれた疲弊の痕が、長い時間の経過を物語っていた。


「はい。椿と申します」


 そう名乗ると、女性は微かに、ほとんど悲しみに近い笑みを見せた。


「来ると思っていたのよ」


 彼女が掌にのせて差し出したのは、小さな黒いUSBメモリだった。

 無機質でありながら、妙に重たく感じられるその物体に、椿は思わず目を細めた。


「これは……?」


 問いかけに、女性は小さく頷いた。


「総一が残していったの。……『メールに椿ちゃんが来たら、これを渡してくれ』って。あの日、彼が送った全データが入ってる。あの夜、旧工場から最後に送信されたものよ」


 その言葉に、椿の指先がわずかに震える。


「澪の顔を見ているとね……もう限界なんじゃないかって、思うことがあるの」


 女性は視線を窓の外に向けた。


「最近、彼女はほとんど眠ってばかりで、食事も取らなくなって……同じ言葉を、夢の中で繰り返すの」


 女性は口元を引き結び、ぽつりと呟くように続けた。


「『また、落ちる』って。まるで、海の底に引きずり込まれるみたいに」


 その言葉に、椿の胸に冷たい水が染み渡るような感覚が走った。

 あの井戸。あの光。あの得体の知れない“何か”が、澪の中で、今も生きている。


「それから……」

 女性はふと思い出したように、ぽつりと口を開いた。


「沙耶ちゃんのこと。総一はよく話していたわ。きっと彼は……研究していた『水の正体』を沙耶ちゃんが突き止めていたと、信じていたのよ」


 椿は黙ってUSBを受け取った。


 手の中のそれは、まるで封じられた棺のように、静かに、けれど確かに存在していた。


 それが澪の命を繋ぎとめる鍵なのか、それとも新たな扉を開く『鍵』なのか。

 まだ、それはわからない。


 けれど椿の胸の奥には、ひとつの確信が芽生えはじめていた。


 ——この謎を解かねば、誰も戻れない。


 そう、確かに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ