第13話:受け継がれた鍵
波の音が遠く、けれど確かに耳に届く。
午後の陽射しが、砂と塩の匂いを孕んだ風に揺らぎながら、彼女の髪をかすめていく。
椿はひとり、町の外れの道を歩いていた。
朽ちたガードレールの向こうに、海が、光の帳をまとって広がっている。
井戸での調査のあと——「ただのコーヒー好き」と名乗った青年が倒れた夜。
病院の白い天井を見上げた彼の顔には、どこか、何かを見透かしたような静けさが宿っていた。
彼女の胸の内には、その夜から消えずに残る、言い知れぬ予感があった。
目指すのは、今はもう人の出入りも少ない一軒の古家。
かつてこの町の水を研究していた総一——その妻が、静かに暮らしているという。
呼び鈴の音が、昼下がりの静けさに吸い込まれていく。
やがて、重たく軋む音と共に、扉がゆっくりと開いた。
「……あなた、椿ちゃんでしょう?」
低くかすれた声だった。
現れたのは、色の抜けたブラウスを身にまとった初老の女性。目元には深い影が宿り、年齢以上に刻まれた疲弊の痕が、長い時間の経過を物語っていた。
「はい。椿と申します」
そう名乗ると、女性は微かに、ほとんど悲しみに近い笑みを見せた。
「来ると思っていたのよ」
彼女が掌にのせて差し出したのは、小さな黒いUSBメモリだった。
無機質でありながら、妙に重たく感じられるその物体に、椿は思わず目を細めた。
「これは……?」
問いかけに、女性は小さく頷いた。
「総一が残していったの。……『メールに椿ちゃんが来たら、これを渡してくれ』って。あの日、彼が送った全データが入ってる。あの夜、旧工場から最後に送信されたものよ」
その言葉に、椿の指先がわずかに震える。
「澪の顔を見ているとね……もう限界なんじゃないかって、思うことがあるの」
女性は視線を窓の外に向けた。
「最近、彼女はほとんど眠ってばかりで、食事も取らなくなって……同じ言葉を、夢の中で繰り返すの」
女性は口元を引き結び、ぽつりと呟くように続けた。
「『また、落ちる』って。まるで、海の底に引きずり込まれるみたいに」
その言葉に、椿の胸に冷たい水が染み渡るような感覚が走った。
あの井戸。あの光。あの得体の知れない“何か”が、澪の中で、今も生きている。
「それから……」
女性はふと思い出したように、ぽつりと口を開いた。
「沙耶ちゃんのこと。総一はよく話していたわ。きっと彼は……研究していた『水の正体』を沙耶ちゃんが突き止めていたと、信じていたのよ」
椿は黙ってUSBを受け取った。
手の中のそれは、まるで封じられた棺のように、静かに、けれど確かに存在していた。
それが澪の命を繋ぎとめる鍵なのか、それとも新たな扉を開く『鍵』なのか。
まだ、それはわからない。
けれど椿の胸の奥には、ひとつの確信が芽生えはじめていた。
——この謎を解かねば、誰も戻れない。
そう、確かに。