第12話:残響の工場
音のない空間。
誰もいないはずの研究所に、かすかな薬品の匂いが漂っていた。埃をかぶったコンソール、黴の浮いた壁紙。まるでここが『時間から切り離された空間』であるかのように、すべてが静止していた。
悠は黙々とフラスコの液体を回し、総一は隣で演算結果を確認していた。
言葉は少なかった。だが、必要なやり取りはすべて目線で済んだ。
この部屋にだけは、まだ理性と手順が残っている。だからこそ、希望もまた、ここにしか存在しなかった。
「……中和反応、確認」
総一が短く告げた。
悠は手を止め、試験紙を光にかざした。確かに、変色していた。あの光る水に含まれていた異常な化学物質が、完全に無力化されている。
「やったな……」
「……ああ。やっと、だ」
成果はデータとして保存され、総一のパソコンへ送られた。これだけは確実に記録に残す必要があった。いずれ誰かが、この『鍵』を手にするかもしれない。
安堵のひととき、総一はふと壁際の棚に目を留めた。埃をかぶったコーヒー豆を保存していた瓶。ラベルには、懐かしい文字列が浮かんでいた。
「……これ」
悠も顔を上げて、それを見た。
「まだ、残ってたのか。沙耶がよく使ってた豆だな」
「飲むか。一杯」
儀式のように。
あるいは、名もなき供養のように。
ふたりは古いケトルを見つけ出し、豆をコーヒーミルに移した。
ゴリ、ゴリ。
手回しのミルが、時間を削るように音を立てる。
それぞれの手のひらに残る、懐かしい重さと感触。
手慣れた手つきで丁寧に挽き、蒸らし、ドリップしていく。
コーヒーの香りがゆっくりと研究所に広がっていく。薬品とカビの匂いを押しのけるように、それは確かに『生活』の香りだった。
「……思い出すな。あいつが淹れてくれたやつの方が、ずっとうまかったけど」
「……だな」
椅子に腰掛け、紙コップを手にする。
ひと口。
その瞬間、どちらからともなく、顔をしかめた。
「……味が、しない?」
カップの中を覗き込む。
コーヒーの表面が、静かに揺れていた。
ぽたり。
天井から、一滴の水が落ちた。
コーヒーに、溶けていく。
気づいていれば、止められたかもしれない。
だが、彼らは疲れていた。成功の余韻に包まれていた。ほんのわずかな、油断。
それがすべてを変えるには、十分だった。
それは『あの水』だった。光る水。異常を孕んだ、あの存在。
老朽化した配管の隙間から滲み出たわずかな雫が、コーヒーの中に混じっていた。
そして——
その日を最後に、 伊吹悠と水島総一の姿を見た者は、誰もいなかった。
彼らが残したのは、中和のデータと、ひとつの研究所だけ。
そこに満ちる、微かに焦げたコーヒーの香りと、音のない空気。
何かが終わり、何かが始まったような、そんな静寂が、永遠にそこに残された。