第1話:海辺の白いワンピースの少女
朝、風はまだ眠たげに吹いていた。
俺は堤防の先に腰を下ろし、手のひらサイズのコーヒーミルを握る。
祖母が亡くなって、昔から好きだったこの町に越してきた。
家具もろくに揃っていない部屋にはまだ段ボールが積まれているけど、海辺の空気だけは、確かに前と同じ匂いがした。
その匂いに紛れるように、毎朝こうして海を眺めながら、コーヒーを挽くのが習慣になりつつある。
ゴリ……ゴリ……と、豆が潰れていく感触が、掌から体の奥へと染み渡っていく。
目の前には灰青色の海。どこまでも静かで、どこまでも深い。
そんなときだった。
「……お兄さん、何してるの?」
唐突に声がした。俺は肩越しに振り返る。
そこには、白いワンピースを着た少女が立っていた。
年は……高校生くらいだろうか。髪は濡れていて、足も裸足。
この堤防はザラついたコンクリートで、砂も混じっている。そんな場所を裸足で歩いたら、痛くないはずがない。
「……コーヒーを、挽いてるだけだよ」
「ふぅん。おいしい?」
「まだ、挽いてるだけだ」
少女はつまらなそうに唇を尖らせて、俺の隣に腰を下ろした。
潮の匂いと、コーヒーの香ばしさが、奇妙に混ざり合っている。
彼女の横顔は、どこか虚ろで。視線は俺ではなく、ずっと遠くの沖合を見ていた。
「ねえ、お兄さん」
「ん?」
「さっき、女の人、落ちたよ。あそこから」
少女が指さしたのは、堤防の外れ。ちょうど、海が深くなっているあたり。
「……何だって?」
思わず立ち上がる。少女は、無表情のままこちらを見上げていた。
「本当だよ。どーんって音して、ぷかって浮かんで、でもすぐ沈んだの。……海って、全部、隠しちゃうよね」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
バッグからスマホと一眼レフを取り出して、堤防の端へ向かう。
海を覗き込み、何もいないとわかっていても、反射的にシャッターを切る。
波が繰り返し堤防を舐めているだけ。
──誰も、いない。
戻ろうとして、ふと足元に目をやった。
堤防のコンクリートの上にある砂地──
そこに、彼女の足跡がなかった。
「……君、その人、見たのか?」
「うん」
「……じゃあ、警察に──」
「もう、来てるよ。さっき、向こうにいたもん」
少女の指差す方向。……確かに、遠くの浜辺に、青い制服の影が数人見えた。
だが──何かが、おかしい。
警官たちは堤防ではなく、海岸のほうに集まっている。
そしてその中心には、大きなブルーシートがかけられ、何かを隠していた。
「まさか……」
「ねえお兄さん、知ってる?」
少女がふいに笑った。唇の端が、いたずらっぽく、しかし妙に冷たく吊り上がる。
「この町ではね、毎年この時期、『海に選ばれる』んだって」
「──なんだって?」
「選ばれた人は、何も言わずに消えるの。でも誰も、気にしない。だって、『毎年のこと』だから」
少女の声は、もうすぐ隣にいないように思えた。
風が吹き、挽かれたコーヒー豆の香りが海へと消えていく。
俺は──気づいた。
さっきまでここにいたはずの少女が、もういない。
振り返っても、呼んでも、答える声はない。
なのに、波の音だけが、さっきよりもすぐそばで聞こえていた。
まるで──
誰かがすぐ後ろで、俺を見ているかのように。