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後編

「ごめんなさい、私……」

「お気になさらず、聖女様。お怪我が無くてなによりです」


 私の手の中にあるのは、踵のヒールがぽっきり折れた、壊れたピンヒール。この日のために用意した、自分を美しくさせてくれるきらきらの魔法の靴。それが泥で薄汚れて、背伸びのできる魔法がとけて、ただの靴になってしまった。

 あわや大事故を防ぐことはできたから、最悪の事態を免れることはできた。それでも私にぶつかったと気づいた否や顔を真っ青にした役人には、必死に頭を下げられてしまった。気にしないで、と私は極力穏やかな笑顔で声をかける。役人は周囲に厳しいお叱りを受けながらも、特にお咎めはなさそうだった。ほっと胸をなでおろした私の安堵は、きっと周囲の人にはほとんど分かり得ないだろう。私の怪我ひとつで、簡単にあらゆる人を価値ある立場から引きずり降ろしてしまう、その恐怖を。


「雨――しばらく止まないみたいです」


 天蓋の外に行って様子を見てきた従者は、そう言って首を横に振った。両肩がぐっしょりと雨水で濡れている。私はその声に何も答えることができなくてただ、俯いた。そんな子供みたいな態度の私を窘めるように、従者は言葉を続ける。


「――残念ですが、本日の舞台は延期にしましょう」

「そん、な!」


 そんなことはあってはならない。私はすっかり外面を取り繕うのも忘れて、聖女らしくなく、大きな声を上げてしまった。思わず立ち上がりそうになったけれど、ぎゅっとドレスの膝元辺りの布を握り締める。


「楽しみにして、来てくれている人もいるんでしょう。今日という日のために、予定を作ってくれた方もいるのに、そんな……」

「ですが聖女様、この雨です。このままでは、予定していた舞台の実行は不可能です。貴方を雨の中に放り出すわけにはいきません」


 それは最もな意見だと思う。そして、この天蓋の中のすべての人が――つまり私も含めて、延期を受け入れなければならないことを納得しつつあった。

 できることならみんな、舞台は予定通り開催したいに決まっている。けれど、身を削るような延期の判断は私の身を案じてのこと。冷たい雨の中、聖女様を立たせるだなんてそんな不敬なことできません。それならば大人しく延期を飲み込みます。そんな心の声が耳をふさいでも聞こえてくるようで。皆、私のことを心から思いやってくれているんだろう。


(そうよ、分かってる……それに)


 煌びやかで、穏やかで、神々しく。「聖女」はそうあるべきで、それを満たすためには、この舞台において必要なものがあった。それは海を照らす日の光、そして日光に照らされた美しいドレスと、高いピンヒール。そのすべてが欠如している中、雨の中必死に飛び出して、なんとかパフォーマンスをしても、それが民衆の期待に応えられるものになるのか、私にはわからない。

 きゅっ、と握りしめた壊れたピンヒール。

 もしもだけれど、私が……私が、雨の中に飛び出しても、その場にいるだけで人の目を引いてしまうほどの圧倒的なオーラや、容姿を持っていたのなら。……きっと私は周囲の引き留めなんて、気にもせずに舞台を強行できるのに。

 祈りの力なんて、結界を張る力なんて。稀有な力が私に備わっていても意味ないじゃない。それが聖女像と釣り合っていないなら、私はなんでここにいるのよ。

 つきりつきりと私は私の棘で私を突き刺した。


「さあ聖女様、一度宿に引き上げましょう。本日は早く湯あみをなさってください。体を温めて頂かなければ――」

「……でも」


 従者の言葉に素直に頷けない。これが酷く周囲を困らせる、わがままだと分かっているけれど、椅子から立ち上がれない。重い腰を上げられない。裸足の私に差し出された予備の靴は、万が一にももう一度体勢が崩れることが無いよう配慮された、踵の平たい靴。それに足を通せば、舞台を諦めたことになる。

 本当にいいのかな。私、このまま今日の舞台を諦めてもいいのかな。でも、私の中の何かが、帰りたくないって呼応している。我儘聖女様に手を焼かせたくなんてないのに、私の中にある、聖女としての小さな自尊心が、私を椅子に縛り付けている。硬直した体は、雨風で冷えてカチンコチンに凍り付いてしまった。

 どうすればいいの。私、なにもゴールが見えないのに、何かにしがみつく子供の様になってしまったようで。どうしようもなくて。


(わたしは……わたしは)


 ――その時だった。


「聖女様―!」


 天蓋の外から、声が上がった。

 それも一人や二人ではない。舞台を待ち望んでいたはずの国民たちの声。私を聖女と呼ぶ声が、舞台裏の天蓋まで届いてきた。

 雨足は弱くなったとはいえ、未だ天蓋の天井を、ぽつぽつと雫がぶつかり、音を立てる程度には降っているというのに。ざあざあと降り注ぐ水音にも負けない声で、声を張り私のことを呼んでくれている。従者も、役人たちも、そして当然私も、何が起こったのか分からずひたすら皆で顔を見合わせて困惑した。


「俺たち、全然気にしてませんよー!」

「こんな田舎まで来てくださっただけでありがたいですからー!」

「私は一週間仕事休みですから、いつでもやり直して頂いて大丈夫です!」

「今日しか宿取ってないから正直残念だけど、来てくれただけでありがたいっす!」

「お会いできなくても、来てくれたことだけで感謝しかないですからー!」


 雨よりも強く、声が降り注いだ。暖かく、けれどうねりを上げ。

 その声に狼狽えていた者たちも、手を動かしていた者たちも、思わず立ち止まって声がする方へと皆顔を向けた。

 私は目を瞑り、胸元に両手を当てた。

 これまでの旅路。どんな場所での舞台も、どんな歌声も、領民の大半は皆歓喜の声を上げ、時には涙してくれた。皆をがっかりさせたくなくて、その分舞台に磨きをかけていた自分としては、頑張りが実っていることがただひたすらに嬉しかった。

 それでも、こころの中にどこか燻っていたコンプレックス。それが今、するすると解けていく。


(――そうよね)


 私は立ち上がった。

 目の前に置かれていた予備の靴は履かない。泥となった土の上に裸足で立ち上がった。ずるり、と少しだけ足が泥の中に沈んで、冷たい地面がつま先をつんと冷やして。


「……聖女様?」


 私の行動に驚いた、隣に居た従者が声をかける。けれど私はゆっくりと首を振った。


「聖女としての役目は、皆に希望を与えることだわ――そのためには、見てくれも人並み以上に、神々しくあるべきだと思っていたけれど」


 外見を煌びやかに見せること、神々しさを感じさせること。それを民も期待しているかもしれない。

 万が一にもそうではない、地味でつまらない姿を見せて落胆させては、この祭事は意味を為さないのかもしれない。

 それでも、それでもだ。


「せ、聖女様!?」


 背後からの静止の声も聞かず、私は天蓋から飛び出した。ドレスの裾を指先で掴んで、万が一にも転ばないように、舞台の階段を駆け上る。舞台は雨でびしょびしょで、裸足だからといって滑らないわけじゃない。慎重に慎重にと思いながら、それでも衝動が強く私を動かしてくれる。

 舞台に上がった途端、見慣れぬ女性がびしょぬれになりながら舞台に飛び出たことに民衆は驚き、指をさした。私が聖女だって、わかるのかしら。せっかく綺麗に結ってくれた髪の毛は、辛うじて一括りになっているだけだろうし、化粧だって剥がれかけだわ。なにより身分のある淑女が、裸足で雨の中飛び出すなんて、みんなはきっと頭には無いでしょうね。


 すうっと息を吸いこんで、目を瞑る。


「――!」


 両手を大きく広げた。この場に居るすべての人を包み込めるように。できることなら、この国のすべてを両手で抱えて支えてあげたいな。そんな思いを歌に込めて、喉を震わせる。

 本来は、今回の舞台では鍵盤楽器にも初挑戦するつもりだったのに。結局、今私にあるのはこの喉を震わせる歌声だけ。雨音でかき消されないよう、精一杯の音響魔法を駆使するけれど、最奥にいる人たちまでこの声が届いているか、分からない。

 雨で前が、ろくに見えない。どんな反応をしているのか確認したくても、雨音によって邪魔をされる。じれったくて仕方がないわ。瞼に雨粒が乗って、雫が目の中に入って、ぼやけて。それでも真っ直ぐに手を伸ばす。遠く、遠くまで、指先を、はるか遠く先のみんなまで伸ばす。

 一小節、二小節、必死になってアカペラで歌い通した。最終節に入る頃、ぼやけていた視界がクリアになってきた。最初は気のせいかと思っていたけれど、私の瞳をぼやけさせる雨粒が減っていく、つまり雨脚が弱まってきたってことだわ。そこで私はようやく舞台をしっかり見下ろせた。観客の一人一人と、初めて目を合わせる。

 ――見下ろした舞台からは、沢山の領民たちが歓喜の声を上げていた。全員驚きつつも笑みを浮かべ、私と同じように雨に濡れ、それなのに両手を上げて私に向かって、同じように手を差し伸べてくれている。昂り、体中から熱が放たれていく。嬉しくて嬉しくて、雨の勢いも落ち着いてきたというのに、再び視界がにじみそうで、慌てて目頭を押さえる。

 ふと、背後から差し込む光を視界に受けて、私は振り向いた。


「見て……!」


 もはや聖女としての威厳なんてもの、存在していないかもしれない。でもそんなの、でもどうだっていいわよね。私は去り行く雨雲の隙間から除く、沈む夕日の差し込む光、そのあまりの美しさに背後を指さした。

 橙が青い海へとゆっくりと沈んでいく。

 広い空を染め上げたオレンジが、深い海に溶け込んでいく。



 美しい夕日が聖女様を照らしている。あまりに眩しくて、我々は思わず目を細めて、舞台上の聖女様をただ、眺めていた。聖女様は、雨粒が飛沫となって飛び散るたびに、まるで宝石を散らすように輝いた。ぱしゃん、と水を張った舞台を裸足で踏みしめて跳ねるその光景。まるで子供の水遊びのような無邪気さと、清廉された美しさが混じりあったようで。


「聖女様――綺麗」

「美しいですね、本当にお綺麗だ」

「我が国の至宝とは、まさにこのことですな」


 役人たちは皆、口々にそう言い、朗らかな顔で聖女様を見つめていた。私は聖女さまの従者として、その言葉に、自分の手柄でもないのに満たされていくものを感じた。

 歴代聖女の中でもひときわ真面目で、職務を果たすことに真摯だった聖女様。だが、いつもどこか自信のないように見えた、一人の乙女。だからこそせめて、彼女が気持ちよく仕事ができる様にと、せっせと裏方業務に回っていた。それが従者として選ばれた自分の使命だと誇っていたからだ。

 きっと今日の舞台が、領民たちの声が、彼女の心を強く鎖で縛っていた何かを、解き放ったのだろう。それは最後のお勤めのその時まで、終の際までお傍に仕えると誓った従者として、ひどく嬉しく、喜ばしいことだった。

 さて、最後まで聖女様の舞台を見届けていたいが、さてここからは私の本分だ。私は天蓋の中に引っ込むと、近くに居た一人の役人に声を掛けた。


「改めて我々は、明日の舞台の準備の打ち合わせをしましょうか」


 声を掛けられた役人は、私の言葉にひどく驚き、狼狽えていた。


「明日……? こんなにも素晴らしい舞台を、予定通り披露して頂いたのですよ。ですから、聖女様のこの領地での舞台は、これで終わりなのでは」


 私はふっと柔らかく笑って、首を横に振る。


「いいえ、まさか。聖女さまなら必ず仰いますよ。『明日は完璧に予定通りの舞台を実施しましょう』とね。本来の演出の舞台をぜひ領民たちに披露したいのだと、舞台から降りるなり主張なさるはずです」


 そういう方ですよ。あの方は。

 今もただ、領民に向かって、天候さえも味方につけて歌い、国のために幸を願う彼女は、ひいき目なしに恐らく、歴代きっての類まれなる素晴らしい聖女に違いない。そのために、裏方たる自分は職務を全うするまでだ。

 背後では舞台上で歌い切った聖女様へ、割れんばかりの拍手が送られている。歓声、感謝の声、聖女様をひたすらに呼ぶ声。さざ波のように、すべてが聖女様に向かっていく。

 彼女のお顔を見ずとも、どんな表情をしているか目に浮かぶ。きっと満ち足りて、それでいて慈愛に溢れた優しい瞳で、領民たちを見渡してくれていることだろう。

 そうして、心からの聖女様のお声が、舞台上から響いてきた。



「――私は今日も明日も歌い続けるわ! 他でもなく、愛する貴方がたのために!」

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