中編
宿に用意された一室で、一息つく間もなく、すぐに支度に入る。化粧と着替えを担当してくれる支度担当の女官が、本日はどうしましょうかと鏡の前で微笑みかけてきた。私はさっき馬車から眺めた、真っ青に輝いていた美しい海を思い出し、長い髪をひとまとめにして、上の方でくくってくれないかと提案した。女官はひとつ頷くと、可愛らしい髪結い紐で整えてくれる。米神あたりから両側の髪の毛はゆるく垂らして、快活な髪型であっても、エレガントさは忘れない。
ふと壁に掛けられた、薄い橙色のマーメイドラインのドレスが目に入った。これが今回の舞台での聖女衣装。古くからの習わしで、聖女として各拠点を巡る際、聖女はひとつとして同じ衣装は着用しないことになっている。聖女の舞台は、その地域の国民にとって一大行事。生涯で一度、見れるか見れないかくらいの貴重なものなのだ。だからこそその日その土地のための衣装を誂える。その話を聞いた時、費用の無駄遣いではないかしら、と頭によぎったのは言うまでもない。私はしっかりと、衣装の仕立てに関する金銭に対しては厳しくチェックするようにした。「無駄な経費は使わない」が、私の聖女としてのモットー。おかげで予め定められた聖女としてのお勤めの費用内で納めてもらっている。我儘言って贅沢したら本末転倒だもの。
仕立て上げられたドレスは、細やかで繊細な蔦模様の刺繍が、胸元にあしらわれている。肩と背中を惜しげもなく晒すこのデザイン。一見聖女としては派手かもしれないけれど、太陽の恵みをいっぱいに受けて、潮風が巡る豊かな土地、海辺の街には思っていた通りぴったりだった。
「ヒール……」
ドレスだけじゃない、靴だって、ドレスに合わせて素敵なものを誂えて貰った。目を惹くのは、人差し指の長さほどの高いピンヒール。真っ白な靴に丁寧に加工された薄橙色の宝石が片足三個ずつ。宝石周りに小粒の、銀宝石が散りばめられている。
化粧を終えてドレスに身を通し、靴に足を通した私は、壁に立てかけられた姿見で、自分の姿を覗き込む。
うん、いい感じ。
にっこり鏡の前で笑っていると、馬車の中で見た、幼い頃の記憶の夢がふわりふわりと蘇ってきた。
――母様はローズピンクの華やかな髪の毛と、サファイアのような輝く青色の瞳の持ち主で、舞踏会や茶会に赴けば、誰もが振り返るほどの美貌の持ち主だった。母様に限らず、父様もそう。豊かに実った小麦のような金髪に、エメラルドグリーンの大粒の宝石のような美しい瞳。対して私は、畑の土のような焦げた茶色の髪の毛に、深い新緑のような暗い影のある緑色の瞳。この国のどんな民たちと比較しても、私が生まれ持った色は、地味な色合いであることに変わりなかった。それだけではなく、背丈も女性としては少し低い方で、私には、世の中において目立つ要素が少ない。もちろん、それが悪いわけではないけれど、どうしても民たちは“聖女”に容姿の華やかさを求めてしまうもの。そして時としてそれが武器になるのは間違いない。だからこそ、私は少々自分の容姿がコンプレックスだった。
そんな複雑な心は聖女になる前から抱いていた。どうしても履いてみたくて母様ピンヒールを履いた、あの時。背の高い靴を履いただけで、足の甲がきちんと見えるから、こんなに脚がすらっとして見えるんだと、驚いたし嬉しかった。華やかさが私にも宿ってくれたような気がして、高揚した。ほんのちょっぴり、大人に一歩近づいたような、甘酸っぱい感覚。
それでも……こんなヒールに頼らなくても、もう少し背が高かったらなと少しだけ思ってしまった。すらりとしたスタイルを持っていたなら、地味な見た目だったとしても、きっとひとつの武器になっていたはずだもの。
過去を振り返り、もしも、とありえない仮想を重ねていくうちに。鏡の中の私の顔が、みるみると曇り空になっていく。いけない。こんなにまったくもって“キレイ”じゃないわ。なにがあろうと私は私よ、私らしくあるのが美しいの。それが聖女よ。
ぱしっと、気合を入れて両頬を叩いた。
幼い頃は、自分の体を支えられなくて、ぐらついていたピンヒール。今では揺らぐことなく、私は私の体重を支えられるくらい成長していた。
◆
「ケーミャと申します。本日は皆さま、よろしくお願いいたします」
全ての準備を整えた後、私は海辺へ用意された舞台へと従者と共に向かった。舞台裏には、厚手の布で作られた仮設の天幕が建てられており、本番までの間、舞台裏で休める様になっていた。本日の舞台を準備してくれた地域の役人の方たちと、最終調整を行う。もっとも、役人方と直接会話をするのは、舞台音楽を手掛けてくれる楽団の方や、取り仕切る従者の人たち。私は口を挟まず、あらかじめ耳に入れていた内容がやりとりされているのを、黙って耳を傾けた。
聖女がこの地に降り立つことを、きっとさぞ楽しみにしていたのだろう。海辺には、私が予想していたよりも立派な舞台が組み立てられている。今回一回限りで取り壊すにしては惜しいくらいに素晴らしいものだ。そして、舞台の周囲には、私の舞台、私の歌声を目の当たりにするのを、今か今かと待ちわびている領民たちが沢山押し寄せていた。
波の音に紛れて、舞台の裏から、集まった国民たちのざわめき声が聞こえる。
「聖女様、まだかな」
「どんな歌声を聞かせてくれるんだろう」
「この日を一年前から楽しみにしてたのよ!」
「今日の仕事を明日に回したんだ、それくらいの価値のある舞台だよ」
段取り、舞台回りの備品の確認、歌の響き加減や護衛、民衆の誘導。本番前の打ち合わせは短い時間でやることが盛りだくさんだ。事前に書簡でやりとりしていたとはいえ、いざ本番の舞台を見ると想像と違う部分もあったり、相互の認識に相違があったりする。そういった細かいことを詰めて、当代聖女がその領地で行う、たった一度きり舞台を最高の物へと作り上げていくのだ。
そうして、打ち合わせは順調に進んでいた、そんなときだった。
「――あっ」
誰の声だったのだろう。叫び声にも似た単音が聞こえた。
その声が上がってから間髪おかず、大粒の雨が海辺に降り注いだ。ぽつぽつ、と最初は数滴の雫だったのに、雨がやがて嵐のような音を立てて、ごうごう降り注ぎ始めた。きゃあきゃあ、人々は悲鳴を上げながら、雨宿りできる場所へと避難していく。
「さっきまであんなに晴れていたのに……」
「この地域では珍しいことではないです。恵みの雨ではありますが、気候は瞬きしている間に変わることが専らで」
だが、いくら突発的な悪天候の到来に慣れているといっても、役人側としてもこの雨は不慮の事態だったのだろう。大慌てで舞台に飾り付けられていた燭台や花を、舞台の裏へと避難させるために次々と人が飛び出していった。できることなら何か手伝いたいけれど、生憎ドレス姿では足手まといになるだけ。だけど天蓋のど真ん中に座らせてもらっているのはさすがに邪魔だろう。私は椅子を動かしてなるべく隅の方へと移動しようと立ち上がった。
けれど、急な対応は周囲への視界を狭めてしまう。きっと、普段ならばこんなことにはならなかっただろに、予想外の出来事が起きて。
「――聖女様!」
「っ!!」
雨脚が強くなり、まるで槍のように強く降り注いでいる。そんな最中、舞台から急ぎ足で戻って来た役人は、視界のほとんどを手荷物で隠されながらよろめき歩いていた。そんな役人と、立ち上がった瞬間の私は、正面から衝突してしまった。
ぐらりとよろめく。だが、ここで転んではいけない。聖女という立場は周囲の人間の処遇を簡単に変えてしまう。もしここで私が傷でも負ったら? きっとぶつかってしまった彼はなんらかの処罰を受けてしまう、それだけは避けなければならない。悪意が無かったとしても、非のすべては彼が背負うことになってしまう。私はぐっと片足で踏ん張った。だけれど、吹き込んでくる雨によってぬかるんだ地面に足を取られる。
(――うそでしょ)
絶対に倒れない。強い意志を持って、私は足を取られなかったもう片方の足で、改めで地面を踏みしめた。周囲にいた従者が、そうこうしている内に素早く私の腰回りを抱えてくれた。ほっと、大きく息を吐きながら肩をなでおろす。
なんとかなった。転ばずに済んだ。けれど安堵もつかの間のことだった。
ぼき、と嫌な音が足元から鳴った。自分の足には何一つ痛みは襲ってこない。何かが壊れた音が鳴ったのに。
私は恐る恐る、視線を下へ向けた。
「あ……」
ヒールが、根本からぽっきりと折れていた。
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