悪魔憑きのリリアーナ
硬い床に描かれた禍々しい魔法陣の中央で眠っているのは侯爵令嬢のリリアーナである。その表情は苦悶に満ちており、血の気が引いている。
「バストンよ、悪魔召喚の黒魔術は本当に成功するのか」
「ドロイア公爵、魔法陣から放たれる邪悪なオーラを感じるでしょう。術は発動されております。次に目覚めたらもうかつてのリリアーナはもういない…私の呼び出した悪魔に精神を塗り替えられております」
「フフフ…この小娘が王太子と結婚し王家の地盤は安定すると思っているであろう。まさか悪魔を王家に迎え入れることになろうとはな」
ドロイア公爵の顔は薄明かりの中醜く愉悦に歪む。
ドロイア公爵家とリリアーナの家であるレオフィリア侯爵家は政敵といえる関係だ。
王宮の魔導省で要職に就くドロイア公爵は黒魔術の研究をしクビになったバストンを秘密裏に匿っていた。黒魔術は重犯罪なのである。
全ては自分の思い通りにならない王家と格下であるにも関わらず王家に強い影響を持つレオフィリア家を破滅させるため。
悪魔に精神を塗り替えられた娘はかつてたおやかな淑女と称えられていた女ではなく、美しい皮をかぶった呪われし者だ。
「今ここで暴れだすなどあるまいな」
「ドロイア公爵に隷属するよう古代文字で書いてありますゆえ、心配ございません」
瞬間、音が無くなった。元より音の入らない静かな地下室であったが、静寂を超えた無であった。
二人の体が急激に冷え鳥肌が立つ。目に見えては何も起きていないのに、只事ではないのが解る。
魔法陣の中央に寝かされていたリリアーナの瞳がゆっくりと開く。
美しかったブルーの瞳は真っ黒に変わっていた。
「…ここは…?」
起き上がったリリアーナの声は変わっていないはずなのに、いつもより低いため同じ人間の声には聞こえなかった。
「成功だ…!」
バストンは歓喜の声を上げる。研究をし続けていた古代の秘術、その昔も禁呪とされていた異次元から悪魔を呼び出す術を自分が成功させた喜びに震える。
「フフフ…ハハハハハ!悪魔よ!私がお前の主人のデンダ・ドロイア公爵だ!この名をよく胸に刻め!」
ドロイア公爵は立ち上がったリリアーナに向かって居丈高に言う。
「デンダ・ドロイア…」
元はリリアーナだった者は目を閉じて記憶を探る。
デンダ・ドロイア、聞いたことがある。デンダ・ドロイア…ドロイア公爵…
はっとした顔で部屋の中を見渡し、ドロイア公爵の顔を見た。
「魔法陣に書かれた主人を認識したのでしょう」
「フン、そうか」
魔法陣と聞いて元リリアーナは更にキョロキョロと見渡す。目線を落とすと足元に魔法陣が描かれていた。
「なんということ…」
「フハハハハ!悪魔め!お前はもう私の奴隷だ!だが私は心優しい主人だからな、お前を悪いようにはしない。このままお前はレオフィリア家に戻るのだ。そうだな、ひとまずレオフィリア家から滅茶苦茶にしてやる」
元リリアーナの目の前でドロイア公爵は「私の考えた最高の破滅シナリオ」を興奮して語っている。それをちらりと一瞥し、聞く必要もないかと元リリアーナは状況整理をする。
ドロイア公爵、これは「悪魔狩りの聖女」に出てきたラスボスだ。
いわゆる乙女向けゲームでイケメンを攻略していくのだが、学園の中に住まう悪魔を探し出すという、ちょっと謎解き風の内容である。
王太子の婚約者の麗しきリリアーナを悪魔だと見破った後、黒幕がドロイア公爵だという所まで辿り着かないと他のキャラクターが悪魔にされてしまいバッドエンドを迎えてしまう。
(まてまて、この状況。私がリリアーナに巣食った悪魔ってこと?)
髪の毛に触れて見れば立派な巻き毛。色は見慣れぬ薄紫色。姿を確認する術はないがリリアーナの特徴だ。
「悪魔狩りの聖女」は元リリアーナ、田中佳代の部下が大ハマりしていたゲームだ。
会社で居眠りをかました部下を呼び出して理由を聞けば、隠しキャラの攻略ができなくてこの一週間ろくに寝ていないという。
一応上司なので呼び出してはみたが、会社なんて場所は定められた時間その場に居て生活費を稼ぎに来ているだけだろう。田中もそうだ。部下が会社でどう過ごそうが田中には興味がない。なので特に叱責もせず、他の目があるから寝るなら上手いこと寝てくれ、業務に支障が出たら注意するがそうじゃなきゃどうでもいいと伝えた。そこから部下は田中に懐いたようで「悪魔狩りの聖女」を大いに勧めてきた。
そんなに面白いというのならと始めてみると田中もまあまあ面白くて緩くやっている。
居眠りの部下は「タナチョー(田中課長の略)のために真面目にやるかぁ」とあまり居眠りもしなくなったから御の字だ。
(なんで私がそんなとこにいるの)
目の前では興奮が極みきって早口で喋るドロイア公爵。その隣には怪しげな魔術師。
頭の記憶を辿ってみると、田中佳代の記憶だけではなく、リリアーナの記憶にもアクセスできることがわかった。
攫われて術をかけられ、リリアーナの最後の感情は人生で一番の恐怖だった。
術をかける、と言うとふんわりするが、要は精神を踏みにじり殺したのである。
その瞬間、田中の中で急激に燃え上がるのは猛烈な怒りであった。
うら若きお嬢さんを私利私欲のために殺した上で利用するとは。
しかも人生最後の記憶は強い恐怖の感情だ。許してなるものか。
「くくくく…アーッハッハッハッハ!」
突然笑い出したリリアーナにドロイア公爵はようやくよく回る口を止める。
「いかにも、私は別世界からやってきた。お前らが言うところの悪魔なのだろうな。しかし、お前たちはよく私と契約したな、この肉体が死ねば、その時に術者と契約者と、それに連なる血の者は全て死に絶えると言うのに!」
「…は?」
「なっ…!」
唐突に田中が言い出した話は根も葉もない嘘である。「こうだったら相手が嫌だろうな」と思うことを高々に話しているだけだ。
口から生まれたと言われた田中はいつどんな場所でも口先だけでどうにかしてきたのである。
「あまりに無謀!だがその心意気は気に入ったぞ!では私は家に戻りレオフィリア家を恐怖に陥れるとしよう!しかし私の所業故に処刑でもされたらお前たちも一緒に終わりだぁ!!!」
田中はミステリードラマが大好きである。今も昔も見続けている。
今田中が演じるのは「クズな犯人役」、出演する役者を見たら犯人がわかってしまうアレだ。
「そんな話は聞いてないぞ!」
「そ…そんなことはこの古文書には書かれていない!!」
「古文書に書かれていないからなんだ。それともお前は、この時代に書かれた書物をぜ~~~~んぶ読んだのかぁ?他の本には書かれていたかもしれないなぁ~~~?」
魔術師に顔を至近距離まで近づけて煽り顔で見上げれば「ヒッ」と声を上げて腰を抜かした。
飲み会で披露していたお得意の顔芸が役に立った。参考にしたのは外国映画の子供の呪い人形だ。あどけない表情からいきなり殺人人形の煽り顔になる瞬間は何度やっても受けたのだが、やる度に「女のくせにそんなことやるな」と言う同僚がいた。それはセクハラでも何でもなく、親切かつ適切なアドバイスだろう。
「あははははは!ではこの肉体が死ぬまでよろしく頼むぞ!」
「ま…待ってくれ!契約をっ契約を無かったことにすることはできないか!?」
「無かったことなぁ…」
元リリアーナは魔法陣を指さす。
「この、契約書はお前たち人間が私と契約したくて書いたものだ。契約無効の書式もお前らが知っているんじゃないのか?私が知るわけないだろう。しかし…私は術者と契約者の血が好きだ。どちらか先払いをしたら、道づれにする気が失せるかもなぁ。いいか、お前ら二人だけじゃないぞ。血がつながる者全てだ」
その言葉を聞いた瞬間、ドロイア公爵と魔術師のバストンはお互いに目を向けた。
「それではこの辺でお暇するわ、馬車の用意をお願いしますわ」
先ほどとは打って変わった鈴のような声で元リリアーナが言う。
その変わりように二人は呼び出した者が人ならざる者であるのを実感し、取り返しがつかないことをしたのを思い知る。
田中は課長職であるが、口だけで役職に就いたと言われ、本人もそれを自覚している。
ペラペラと口だけがよく回り、それで就職も昇級もできてしまった。
仕事については適当というか省エネ、元より仕事にパワーも時間も割く気はない。
なので仕事は得意と思われる人間に任せて徹底してサポートに回る。トラブルがあったら上役の出番が来てしまうのでそこは万全だ。
しかも仕事を自分の手柄にすることなく本人にちゃんと渡すので、仕事にやる気がある人間からしたら「仕事を任せてもらえて、ちゃんと評価してもらえる」と田中はおおむね好まれている上司であった。
そうやって職場を適当に過ごして帰宅をし、二時間ドラマを見たり、犯人のモノマネをしたりして時間を過ごすのだ。家でも適当に生きている。
帰りの馬車は無駄に豪華なものが用意されていた。途中で事故でも遭われたら困るということなのだろう。さっきの口から出まかせを信じているようである。
誘拐された娘が返されて父親であるレオフィリア侯爵は喜ぶかと思いきや「疵物になったと王家から婚約を破棄されたら」とそちらの心配ばかりしている。母親も召使いに「よくよく体を調べてちょうだい」ときたものだ。
どうも、人の縁に運のないお嬢さんのようで田中は眉間にしわを寄せる。
こんな調子なら誘拐犯がドロイア公爵だと言ったところで即動いてくれるとは思えない。きっと娘のことよりも家にどう有利に働くかを考えるだろう。
ならばやはりここは自分が動かなくてはいけないだろうと田中は気持ちを引き締める。
そしてやったことは自分の家の召使いの中を見渡し、特性を探ることであった。そして見つけた噂話を集めるのが上手いメイドに、ドロイア公爵家のメイドから話を集めるように言った。
「1件1000ベアン」
「仰せのままに、お嬢様」
ベアンとは、1ベアンを1円くらいと換算できるこの国の通貨である。
話を聞いてくるだけで1000円もらえるなら良い小遣い稼ぎだろう。
メイドが持ってくる話は様々で、最近聖水をやたらに買い込んでいるとか、ちょっと前から離れに滞在している魔法使いと最近はよく口論していることが多いとか、公爵が思いつめたような真っ青な顔で考え事をしていることがあるとか。
そしてある日、公爵の孫の一人が流行りの風邪に掛かっている話を持ってきた。
「待ってました」
可憐なリリアーナ姿の田中はメイドにボーナスの2000ベアンを渡して即行動に移った。仮病である。
「攫われてからずっと不調にしていたのに無理したせいでもう立ち上がれないわ…うぇーっほ、げほっごほっ」
コントのように大げさに不調を訴え寝込むのを続けていたら、なぜかドロイア公爵から見舞いの品が届いた。こちらがドロイア公爵を探っていたのと同じく、向こうもリリアーナの動向は監視しているだろうと踏んでいたがビンゴである。
見舞いの品に添えられた手紙には「もし良ければ公爵家から治癒師を派遣する」と書いてあり、これは間違いなくリリアーナの不調と子供の風邪を紐づけている。
どうもメイドに聞くところによると、妻である公爵夫人とその息子夫婦も風邪をもらっているようで、特に妻の方が寝込むほどになったとか。そりゃ母親の方が子供と接する機会が多いだろうから当然と言えば当然だ。
大層なお品を頂いてしまったからお礼状を書かねばならんと田中は羽根ペンを手に取った。
インクとペン先なんて使ったことないので便箋にインクが落ちたりもするが、読めればいいかと気にもしない。
そんなことよりもコピー&ペーストができないことに田中は血の涙を流した。
『拝啓 残暑厳しき折、皆様にはその後お元気でお過ごしのことと拝察いたしております。
先日は、ご丁寧なお見舞いをいただき、誠にありがとうございました。
ドロイア公爵の温かいお心遣いに勇気づけられ、心より感謝いたしております。
おかげ様で順調な経過をたどっております。
治癒師を派遣していただくお心遣いには大変に恐縮いたしておりますが、
わたくしの方も活きのいい生命力を補給し回復に努めているところでございます。
これ以上ドロイア公爵のお手を煩わせることはございません。
それでは今後とも変わらぬお付き合いのほど、お願い申し上げます。
ドロイア公爵も、風邪など召されませぬようご自愛ください。
まずは書中をもちましてお礼申し上げます
敬具』
田中はドロイア公爵が見舞いに送ってきた高級フルーツをむしゃむしゃ食べながらお礼状を書く。
「活きのいい生命力を補給」ってなんだよ。どんな礼状だよ。
自分でツッコミを入れつつこれで完成である。インクを使い慣れておらず最後は擦って字が伸びてしまった。
リリアーナが好んで使っていた便箋に書かれた手紙はインクが落ちたり指紋が付いたりして汚れ、文面も真面目に書いている風で奇妙に絶妙な怪文書である。
それを封緘して早速ドロイア公爵に送った。
もらったドロイア公爵はそれを読んでゾッとした。
文章もさることながら、こんな酷い状態の手紙を当たり前のように公爵宛に送ってこれる令嬢などいやしない。
普通であれば父親なり家令なりを通して失礼のない礼状を送ってくるはずなのにそうはせず、令嬢自ら筆を執りさも丁寧な風を装って書いてはいるが、常識が最初からズレているのを感じずにはいられない。人でないものが令嬢ぶっている限界だろう。
「活きのいい生命力…っだから!それを!やめろと言っているんだ私は!!」
ドロイア公爵はヒステリックに叫び部屋中のものに当たり散らす。
「ドロイア公爵、落ち着いてください…」
あまりの様子にバストンが声を掛けると、目を爛々とぎらつかせ彼を睨む。
「元はと言えば貴様がおかしな魔術を使ったからだろうが!えぇ!?契約を取り消す方法が見つかったのか!」
そう叫ぶとドロイア公爵は足元に転がっていた金属製の花瓶をバストンに向かって力いっぱいぶつけた。重たい花瓶の剛速球をモロに頭で受けたバストンは勢いよく後ろへぶっ倒れた。
あまりにも大きな物音がしたのでメイド急いで部屋にやってきて、中を見た瞬間絶叫を上げる。
頭に鈍器を受けて無事であるはずがない。絵に描いたような事件現場である。
「結局、その居候魔術師は亡くなったらしいですけど、公爵の権力で全部揉み消したみたいです」
「ドロイア公爵が殺人かぁ、公爵家は地獄のような雰囲気だろうね」
「ド修羅場のようです」
ちゃんと犯行現場を見た公爵家のメイドから話を聞いてきた自分ちのメイドにボーナスの10000ベアンを渡す。情報は一次情報に近ければ近いほどいい。
どうやらバカ同士で潰しあってくれたようだ。この世界は貴族が格下や平民を殺して無罪ということはない。偉いさんの罪状は軽くなるかもしれないが醜聞は醜聞だ。
特に何もせずお見舞いの手紙を書いただけで自滅したので笑いが止まらない田中である。ドロイア公爵も緘口令を敷いただろうけど、きっと屋敷にはライバル派閥のスパイも紛れ込んでいただろうし、きっと公然の秘密となるだろう。なんせ小金を握らせて情報を探ってる貴族令嬢程度が知っちゃってるのだ。王家の耳に入らないわけがない。
そうなれば早急にドロイア公爵は引退をして、まだまだ実力が追い付かない息子が公爵を継ぐことになるだろう。
「とはいえ、息子の後ろから口出ししてくるだろうな」
家族経営なんてそんなものである。引退したじーさんが口出しをやめず、俺が家長だ一番偉いんだ誰がここまで大きくしたと思ってるんだと手に負えないくらい大騒ぎをして経営に口も手も出して、どうにも収拾が付かなくなって会社が分裂したりするのである。同じような商品を似たような名前の店が売り出すようになるのだ。
ドロイア公爵家は現時点で王家からの信頼と派閥での発言力は大幅減、社会的には終わったようなものかもしれないけど、元リリアーナこと田中が望む終わりはこれではない。「ドロイア公爵家」はどうでもいいのだ。むしろ身内の不祥事を払拭しなくてはいけない息子には頑張ってくれと思うほどだ。だがドロイア公爵自身に下す鉄槌はこんなものではない。
そんなことを考えていたところ、唐突に父親であるレオフィリア侯爵からお呼び出しが掛かった。あまりいい父親でもないし、田中からしたらただの知らないオッサンなので初回に会ってからは相手にしたことがない。一体何の用かと思って行ってみれば最近学校もお稽古も王太子殿下とのお茶会もサボっていることへの苦言であった。
「…一応確認させていただきますが、あなたの娘であるこのリリアーナは誘拐されて命からがら帰ってきまして、あまりにショックだったため何も手が付かないという訴えは聞いておられますでしょうか」
「何を甘いことを言っているんだ!こうしてお前がサボっているうちに王太子殿下には他の家の娘が近づいているんだぞ!いいか、今はお前が婚約者に収まっているが他に好条件の娘が現れれば覆る程度なのだ、危機感を持て!」
田中は今の会話だけでこの父親というオッサンの人となりを理解した。理解して下した評価は『邪魔くさいな』である。自分であろうと元のリリアーナであろうと人生において邪魔だろう。しかしあのオッサンはレオフィリア侯爵家当主、彼に何かがあれば自分も一蓮托生、なかなか手を打つのも難しい。
(いや、待てよ?弟がいたな?)
田中はゲームの内容を思い出す。攻略対象にはリリアーナの弟がいたはずだ。可愛い顔した腹黒系の年下キャラだった。確か名前はラインハルト。
父の長い説教を神妙な顔で聞き流しながら田中は思案する。リリアーナの記憶を辿ってみると彼は中等部の寮にいるらしい。早急に我が家の頭も挿げ替えなくてはいけないと思いつつ、今はオッサンの言うことを聞かざるを得ない。大変不愉快である。
「明後日の国王主催の夜会は絶対に出席だ、いいな。王太子殿下は残念ながら姪御のセラティアナ様をエスコートすると聞いた。お前がぼさっとしているからだ!」
「申し訳ございません」
田中は客先でする完璧な謝罪のポーズをしてようやく部屋から退出し、そして思う。
指示と指導を混ぜると指示が明確に伝わらないことがあるので、指導は指導、指示は指示で別に行うべきである。しかも「ぼさっとしている」など指導でもなんでもない、個人の感想。そんなものは自分の日記に書け、である。
(ありゃ仕事できんわ。あれで仕事が回っていたなら小学生に代わってもできる)
実際、実務的なことは家令が全て手配をしている。それならまだ学生の弟に代わっても大丈夫だろう。
パーティーのエスコートはいつもであれば王太子殿下、都合がつかなければ父親のレオフィリア侯爵にしてもらっていたようだが、今年は弟のラインハルトも社交界デビューを果たしたのでエスコートしてもらうことが可能である。知らんオッサンより知らん若いイケメンの方が絶対いいと田中は急ぎラインハルトにお願いの手紙を書き、召使いに届けさせた。
父親が有無を言わさず参加させたパーティーではあるが、田中にとっても好都合であった。しばらく情報だけで知っていたドロイア公爵がどうなっているのか自分の目で確認したいのだ。本人が来ていないのであればもう彼を人前には出す気はないということだろうし、来ていれば公然の秘密の例の事件は「そんなもの噂に過ぎない」という態度で出て、やんわりと世代交代するのだろう。
そう考えてやってきたパーティーにドロイア公爵は来ていた。面の皮が厚いとは思うが、これも田中にとって好都合だ。リリアーナの姿を見てどのような反応をするのかを確認できる。こちらから確認するまでもなく、ドロイア公爵はリリアーナをすごく見ている。とにかくずっと目で追っている。嫌なやせ方をしてこけた顔で目がギョロリと開き、まばたきすらしない。
(こっちを怖がっているのか憎んでいるのか判断が付かないな)
前者ならいいけど後者だと厄介だ。あんな不審者に目をつけられているというのに、父のレオフィリア侯爵は嫡男であるラインハルトの顔を売り込みに二人でさっさとどっかに行ってしまった。「王太子殿下のところに行け、なんとかしろ」とか言ってたような気もするけど、なんとかってなんだ。明確ではない指示など無視である。
頭の中を忙しなく動かしながら元リリアーナの田中はテーブルの上の食事に手を伸ばす、鶏肉だ。田中はチキンのファーストフードが大好きであった。
田中はとある居酒屋で知った手羽先の食べ方を鶏肉の他の部位にも応用している。手羽先を全て口に含み、骨に歯を当てて骨を口から引き抜くというものだ。そうすると食べづらい手羽先の肉が口の中で骨から外れて食べられる。この食べ方をすると口いっぱいにチキンが詰まって大変よろしい。
田中はいつも通りチキンを手にすると大きく口を開け口に含み骨に歯を立てる。そしてそのまま引き抜けば口の中にたっぷりとチキンの肉が残る。うまい。
もちろんそんな食べ方をする令嬢など他にはいない。もっと言うなら紳士もいない。口いっぱいにチキンを含み咀嚼するリリアーナを見てドロイア公爵は真っ青になった。
―――悪魔とは、悪魔なのだ。いくら人の姿を取ろうとも、擬態をしようとも、どこか何かがおかしいのだ。なのに平気な顔でそこにいる。
ドロイア公爵はそう考えて、ワイングラスを持つ手が震えていた。擬態するも何も田中も一応人間であるのだが。
口いっぱいに頬張っていたチキンを一気に飲み込みリリアーナが真顔でドロイア公爵を見た。ドロイア公爵の手の震えは遠目からもわかるほどになっている。
奥方には愛想をつかされたのか、ドロイア公爵は一人で参加している。どこか別の場所では息子夫婦がいるのだろう。田中はリリアーナが一番美しく見える微笑みをし、それを一旦扇で隠して、扇を取った瞬間例の殺人人形の顔芸を披露した。
「ヒッ」
ドロイア公爵がグラスを落とし、皆の視線がそちらを向く。ちなみに今のは怖がらせる意図はなく、ウケるかな?と思ってやってみただけだ。ちなみに目撃したのはドロイア公爵だけだ。他の誰も見ておらず、様子のおかしいドロイア公爵にだけ視線が集まる。
あまり使いどころがない特技だが、田中はターゲットだけがこちらを向いているタイミングを的確に捉えることができるのだ。
さて、上等な見舞いの品をいただいた身である。挨拶の一つもしなくてはなるまい。元リリアーナこと田中はドロイア公爵と目を合わせ滑らかな小走りでドロイア公爵の元へ向かう。折角取り替えてもらったグラスからワインが零れ落ちている。震えているのだから持つなと言いたい。
「ご機嫌ようドロイア公爵」
リリアーナの記憶を頼りに完璧な淑女の礼をする。この淑女の礼、インナーマッスルを鍛えられる。か弱い令嬢だと思っていたけど田中の体よりもよほど筋力があるんじゃないか。
にっこり笑顔の元リリアーナに対し、ドロイア公爵は挨拶を返すこともせずガタガタと震えて息を荒げるだけだ。ドロイア公爵は今日のパーティーのいい珍獣であり、近寄る人はいないが皆様子を窺っている。何か愉快なことが起きそうだと皆目をキラリと光らせた。
「…思い出したのだけど…」
元リリアーナである田中は扇子を口元に寄せて低く小声でドロイア公爵に語る。それを聞いているドロイア公爵の様子は尋常ではないほどガタガタ震えまともとは思えない。遠くから様子に気づいた公爵家の跡継ぎ息子がこちらに向かってくるのが見える。
「第三者に我との契約を知られたらお主との契約は破棄されてしまうの」
「は?」
今度は貴族令嬢の美しい声で囁くように言う。
「一人二人ならどうにかできるけど、あまりに大勢にお前の名の下に我を呼び出されたことを知られてしまうと契約が白紙撤回されてしまうのよ」
あらまあ困ったわ、というように田中は言う。もちろん口から出まかせだ。元々契約だってしていない。
「だからな、くれぐれも誰にも知られるでないぞ。ああそうだ、魔術師の血は美味かったな。次はお前の親族か?」
「この!悪魔が!!」
突然の大声が大広間に響き渡る。その場にいた誰もがドロイア公爵とリリアーナに目を向けた。
「こいつは悪魔だ!人の皮を被った悪魔だ!私に不幸をおびき寄せ、人間の血を啜る悪魔だ!!」
「父上!なにをバカなことを言ってるんだ!」
血相を変えて公爵家の息子が父の肩を掴んで止めようとするが、公爵がその手を思いきり振り払う。
「悪魔だ!この女は、いや女ですらない、悪魔だ!」
もうそう繰り返すしかしない公爵に無表情のリリアーナが向き合っている。公爵の息が切れて言葉が止まり、ようやくリリアーナが言葉を告げる。
「悪魔は、誰と契約をしたのですか?」
「私だ!」
「バカなことを言わないでください父上!もう帰りましょう、さあ!」
「ドロイア公爵、落ち着いてください。なぜそんなことを言うのです?そんな証拠はございませんでしょう?今ならまだどうにかなりますわ」
心配そうに気遣い顔でそう言ったリリアーナがドロイア公爵の頭に血を登らせる。彼は「今ならまだどうにかなる」のは悪魔との契約の継続のことだと理解した。
「証拠ならある!離れの地下室だ!あそこにまだ悪魔召喚の魔法陣が残っている!!」
その言葉を聞いた全員がドロイア公爵に目を見張った。視線は全てドロイア公爵が集めており、リリアーナに向ける者はいなかった。ドロイア公爵だけがリリアーナを見る中で元リリアーナである田中は心底愉快そうに笑って見せた、が、すぐに恐怖に慄く表情を作る。参考は二時間サスペンスの被害者だ。
「悪魔召喚…それは…黒魔術…?」
心底驚愕した顔で元リリアーナである田中は多少わざとらしく呟く。呟きなのに腹から声を出しその言葉はフロア内によく通った。
「…黒魔術の使用は…重罪です…まさか…私を攫ったあの日…私に黒魔術を…?」
頭に花瓶を受けて死んだバストンがクビになった理由も黒魔術の使用だ。王太子妃教育までしっかり受けてるリリアーナは下される罰の内容も知っていた。もちろんリリアーナの記憶にアクセスできる田中も。黒魔術の証拠など見つかったら下手したら人生が終わるのだ命的な意味で。
「攫われた?それは一体どういうことだリリアーナ」
そう声を上げたのは王太子殿下である。気が付けばその場には王族もやってきていた。
「殿下…私は全てを告白いたします。あの日、馬車が襲撃に遭い連れ去られた先に居たのはドロイア公爵でございました…薄暗い場所に描かれた魔法陣の上で目が覚め、そのまま私は帰されました…もちろん!父にも話しました…!ですが!私に何か瑕疵があると!殿下の婚約者から外れる恐れがあると…父は!そのことを!隠蔽!!!したのです!!!!!!」
泣いた方がいいかと思って頑張ってみるがどうやっても涙は出ないので、目元を拭う振りをする。多少荒っぽくやったので赤くなって泣き顔に見えたりしないだろうか。
どう見ても下手な芝居だが、話す内容のインパクトの大きさに誰もそちらは気にならないらしい。
「何を言っているんだリリアーナ!」
今まで観客気分でドロイア公爵を見ていたのに、いきなり水を向けられて大いに焦るレオフィリア侯爵である。
「お父様…私が疵物と王家に知られ婚約破棄されることばかりを心配されておりましたわね…お母様も…!誘拐など犯罪を起こした者を野放しにし…更に今黒魔術のことが分からなければ、黒魔術を掛けられた私を!!王家に!!!嫁がせることになったというのに!!!!!」
田中のテンションとは裏腹に辺りは静まり返る。しばし流れる静寂を破ったのは低く威厳のある国王の声だ。
「…ドロイア公爵、別室で話を聞こう。レオフィリア侯爵もな」
ドロイア公爵は座り込んで呆然自失としたが、王の言葉に立ち上がる。あと少しだけ、正気が残っているようだ。よろめいたドロイア公爵を支える振りで近づいたリリアーナは、ドロイア公爵にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「これでレオフィリア侯爵も終わりだ、望みは叶ったかな?」
そしてドロイア公爵の瞳を覗き込む。まばたきはしない。「どうだこれがお前の願ったことだ嬉しいか」と目の力だけで訴えた。
絶叫するドロイア公爵を城の騎士が取り押さえて引きずっていく。それを力なく膝をついた息子がただ茫然と見ていた。田中はそれを見て「可哀そうだが、恨むなら親を恨め」と思った。特に罪悪感はない。田中的には別に何もしていないのだ。適当にペラペラと口を動かしていただけでオッサンたちが自爆していくので「バカってすごい」と思っていただけだ。
ドロイア公爵と一緒にしょっ引かれたレオフィリア侯爵は、重大な事実を王家に伝えなかったことで領地に引っ込むことを余儀なくされた。事実上の引退である。もちろんリリアーナと王太子の婚約も白紙撤回だ。王太子の婚約者なんて面倒はノーセンキューなのでこれも願ったりだ。
ドロイア公爵家はお取り潰し、だけどもう一つ持っていた伯爵の爵位までは剥奪されることはなく、ドロイア公爵の息子は改めて伯爵となるらしい。さすがに政治に大きな影響がある東西の横綱みたいな家が一度に無くなるのは王家としても困るのだ。
そしてリリアーナは今、お忍びスタイルでこっそり広場にいる。ドロイア(元)公爵への刑が実施されたのを見届けにきたのだ。
(うーむ、ホラー映画の生首はなかなか真に迫っていたのだな)
人だかりの向こうで木の台に置かれたドロイア(元)公爵の首を見て、田中が思ったのはそんなことだ。本物だけど、遠目で見ると結構作り物っぽくも見える。さすがに時代劇で見る晒し首よりクオリティは高いか。
「さて、仇は取れたかしらね、お嬢さん」
田中はもうここにはいないリリアーナに向かって語る。
身勝手な大人の都合で恐怖の中死んでいったリリアーナ。この世界にはリリアーナが死んでしまったことを知る人もいない。なのでせめて田中だけは冥福を祈る。
真っ直ぐに顔色一つ変えずドロイア公爵の首を見つめるリリアーナを、馬車の中から見守るのは弟のラインハルトだ。レオフィリア侯爵を継ぐ修行をするため寮から家に戻ってきた。
(やはり姉上は悪魔に乗っ取られているのでは…)
だって生首を見ても平然と立っているし、なんだか誇らしげにしているし。
その堂々たる態度は騒ぎのあった舞踏会でも同じだった。しょっ引かれていく公爵と父を見送る姿が丁度今のようであった。
そんなリリアーナを見てギャラリーと化した貴族たちが口々にこそこそと「レオフィリア侯爵令嬢…?」「悪魔憑き…?」と囁くのをラインハルトは聞いていた。
だけど王宮勤めの高位魔法使いの鑑定で邪悪な魂ではないとお墨付きをもらってしまった。だったらもうこれがリリアーナ・レオフィリア侯爵令嬢なのだ。
「やあ、おハルくん。付き合わせて悪かったね。何か食べに行こうかしら?」
「いや、はい…姉上が食べられるなら…はい」
今まではそんなに接点のない姉弟であったのに現在は「おハルくん」である。田中も最初はラインハルトくんと呼んでいたが、無意識のうちにだんだん省略されていった。長くて呼びづらかったのだろう。今日は「おハルくんも来る?」と軽く誘われて付いて行ったら処刑だった。
未来の腹黒おハルくんは腹芸もできるし頭も良い。だけど、いやだからこそ頭の中で即座に計算機を働かせて「逆らっても何の得もない」という相手だと決定づけた。
「おハルくんは何か食べたいものはございますかしら?」
「全ては姉上の仰せのままに」
リリアーナの不自然な淑女語にも突っ込まずラインハルトは粛々と言葉を返した。
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さて、進級である。主人公が入学してくる年である。ちなみにゲームの物語が始まるのは来年だ。
結局進級する時まで家がゴタゴタしているのを理由に学校には来なかった元リリアーナこと田中である。
「いまさら学生かぁ、なんかテレちゃうな」
レオフィリア侯爵家の馬車を下り、学園の門をくぐると色とりどりの花が咲き乱れている。新しい生活の始まりに相応しい華やかさだ。
今日まで田中が元の田中に戻ることもなかったので、開き直ってリリアーナとしての人生を送ろうとすっかり気持ちを改めていた。
そんな田中…新生リリアーナが学園へ続く道を進むと、やんわりと生徒たちは道を譲りリリアーナから距離を取る。
悪魔…
悪魔憑き…
悪魔憑きのリリアーナ・レオフィリア侯爵令嬢…
学生たちがこそこそ口にする言葉ははっきりとリリアーナの耳に届く。
(いや、ネタバレやないかい)
これから入学する主人公が謎解きをするのだからネタバレは遠慮して欲しいところである。
しかしドロイア公爵が死んでしまっているのだけど、一体どうなるのだろうか。
(そういえば私が悪魔?だと主人公にバレたらどうなるんだ?)
ゲームの中では悪魔祓いのアイテムを使ったら光のエフェクトが出てその場からリリアーナがいなくなった。「終わっ…たの?」という主人公の言葉はあるが、リリアーナがどうなったか明言されず黒幕探しに突入した。ネタバレで黒幕は知っているけどこの先を田中は未プレイだ。
先はどうなるかわからないけども、そもそも人生なんてそういうものだ。
そう思い直してリリアーナは集まる視線を物ともせず、花咲く道を堂々と進んだ。
………
ちなみに。
令和日本で田中佳代となってしまったリリアーナは、驚きと戸惑いはあったものの職場の気のいい仲間たちと、生まれて初めてのびのびと、悪くない生活をしているらしい。
おしまい