1-7 先延ばされたエピローグ
扉越しに見た病室内の明るさからてっきり起きているとばかり思っていたが、玲が面会に来たにもかかわらず橘はベッドで横になったままだった。急な体調悪化や疲労の蓄積といった理由から面会時に寝ていることはこれまでにも何度かあった。特段珍しい出来事というわけではない。わけではないのだが、病室の電気をつけたまま眠っているという状況は珍しく、何か異変が起きているのではと思った玲は緊張から少しだけ顔が強張った。普段であればそっと寝かせておくために速やかに病室から退場するのだが、今回ばかりは電気のついた病室という違和感のせいで橘の容態が気になって仕方がなく、病室へと足を踏み入れる。彼女の眠りを妨げたくはなかったので、できれば遠巻きからの確認だけで止めておきたかいのが本音だ。しかし、出入口とは反対方向に顔を向けて眠っているため、玲の位置からでは長い黒髪とわずかに上下する掛け布団しか見えず、彼女の顔を確認するためには病室の奥へと向かってからベッドの側面に回り込む必要がった。
橘が横になっているベッドの正面に移動するために病室の奥へと移動していると、閉まっていたはずのカーテンが冷たい風によって大きく翻り、容赦ない西日の眩しさが玲の顔面に降り注ぐ。普段から窓は閉ざされているため、今回も当然のように閉まっていると思い油断していた玲は影のある方へ逃げるようにしかめた顔を向ける。
気分転換に空気の入れ替えでもしていたのだろうが、いささか冷やしすぎではないか。室内だというのに室温は外と大差ないほど冷え切っている。こんな環境では体の弱い橘の体調は悪くなる一方だと考えた玲は、まず窓を閉めてから彼女の元へ向かうことにした。
あまり意識していなかったので気付かなかったが、橙色に染まるカーテンは定期的に吹いている弱い風により小さく揺らめいていた。さらにカーテンの間からはチラチラと見慣れない花瓶とそこに生けられた小さな青い花が顔を覗かせてもいた。あまり香りが強い種類ではないようで強めの風が吹いたとしても花から発せられる優しい香りはほのかにしか感じられず、視界にはいるまで存在に気付けなかったのだ。
この花は誰が生けたのだろうか。
この病室に立ち入る人物がいるとすれば玲ぐらいのものだ。面会時に花を持ってきたことなどないのだから、玲以外の人物がこの時の止まった病室に花を持ち込み、生けていったことになる。もっとも可能性が高い人物といえばこの病室に留まり続けている橘なのだが、最後の別れとなった当時に景色にこだわっている彼女が何らかの変化を取り入れてくるとは考えにくい。仮に何らかの変化を取り入れたとしたら、玲を困らせるためにもっと分かりやすくて目に留まる変化にするはずだ。そうでなければ変化を起こす意味がないのだから。
「どうやら私はお姫様になり損ねたみたいね」
花を生けた人物について様々な憶測を立てている間に橘が目を覚ましてしまったらしい。窓を閉めてから振り返る玲を寝起きとは思えない彼女の卑しい笑みが出迎える。
「おはよう元眠り姫さま」
ここぞとばかり披露される無駄に回転の早い頭に失笑しつつも玲の視線はいつも以上に青白い橘の頬に向けられていた。いくら彼女が平静を装っていたとしても、体は正直だ。いくら嘘や演技が上手かったとしても、表情だけでは顔色の悪さは隠しきれない。
「悪いけどこれを置いたら今日は帰るよ」
鞄から一冊の本を取り出すと、表紙を裏にしたままベッドの隅に寄せられているサイドテーブルの上に置く。
「体調が悪そうだから?」
「悪そうじゃなくて悪いから」
今にも倒れてしまいそうなほど真っ青な顔をしているというのに、橘の浮かべるキョトンとした表情は何事もないとでもいいだけであった。だが、重たそうなまぶたの影響で目はあまり開いておらず、眠そうな印象が強い。発せられる声も普段のような余裕は感じられず、どことなく気怠げに聞こえる。
体調が万全ではない彼女との面会を続ければ体調の悪化に繋がってしまう結果は明白だという考えは生者にしか通じない考えだと思われるかもしれないが、それは違う。体も持たない死者であり、魂だけの存在である幽鬼にも命の灯は存在する。なぜなら現実を歪める力を行使するための力は、この世界に自身の魂を留まらせるための力と同等のものなのだから。
「だけど、すぐにバスはやってこない」
体調の悪化が二度目の死に直結していることを橘は理解しているのだろうか。いや、彼女のことだ。理解した上での行動だろう。そうすることで玲を困らせられると確信しているはずだ。
「ならこれはおわずけだ」
サイドテーブルに手を伸ばして置いたばかりの本を回収しようとすると、頬を膨らませることで自身を不満を表情で表現する。だが、伸ばされた手を遮ろうとしない様子をみるに、体力的な余裕はほとんど残されていないと玲は判断し、彼女のわがままにはこれ以上付き合わないことを心に決める。
「ぶーぶー」
頬を膨らませるために溜め込んだ空気を吐き出す。幼稚な方法では玲の心は動かないことが分かった橘は作戦を変えたようで、今度は物欲しそうな眼差しを向ける。それも涙で瞳を潤ませるおまけ付きだ。疲れているはずの体のどこに玲を引き留めようとする原動力が残っているのか。それとも意地というやつか。どちらにせよこれ以上彼女に無理をさせれば何らかの異常をきたし、苦しむ未来は容易に想像できた。
「いくら可愛く拗ねてもダメなものはダメだ」
「じゃあ、今日は我慢してあげるから可愛い私の別のお願いを聞いて」
恐らくはお願いこそが橘の本当の狙いなのだろう。最初に無理なお願いをした後に少し条件を緩くした別案を提示することで通常よりも意見を通しやすくさせる手法は交渉術の一種であり、頼み事をする際に彼女はこの手法をよく使う。ただ今回は彼女の命に関わってくる行為を盾に自身を願望を突き通そうしているため、普段以上に厄介極まりない状況へと玲を追い込んでいた。
「わがままならいつも叶えてるつもりなんだけど」
「そうね、それについては感謝してる。でも、今回のは特別」
そう言ってからニヤリと笑ってみせる橘に、玲は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。それどころか、息が詰まるような感覚すらあった。それほど彼女が口にしようとしているお願いの内容は不穏さを孕んでいる可能性があった。
「海が見たい」
あの日から何一つ変わらない病室に閉じ込められ、外の世界に繋がる方法に限りのある橘がいつかは外への渇望を吐露することは分かっていた。もちろん、その願いを叶えた先に続く未来も玲には分かっていた。分かっていたからこそ、作り上げられた安堵にすがり、見て見ぬふりを続けていた。そうしなければ必ず訪れる二度目の別れという残酷な現実からは逃れられないのだから。
「今日は読書しないって約束するなら考えてあげなくもない」
頭ごなしに否定したところで口のうまい橘には無意味だと理解している玲は、心の内に秘めた喪失感からくる恐怖を抑えながら、突拍子もないお願いに手を焼いている風を装ってみる。二人の関係は互いが付いている嘘に気づいていないふりをすることで初めて成立するような脆い代物だ。終わりを匂わせるような発言をしてしまえばこの関係にほころびが生じてしまい、それが終わりへのカウントダウンに繋がってしまう。それだかはどうしても避けたかった玲は、あくまでもこれは日常のやり取りだと自分に言い聞かせてから、橘が口にしたお願いの原因になったであろう裏向きに置かれた一冊の本を一瞥する。幸いなことに本が全て揃っていない件についてはまだ気づかれていないようだった。
「玲ってときどき私に冷たい」
お願いについて考えるとだけ言ったことに対してだろうか。それとも、一人になった後の病室で読書に興じようとしていたのだろうか。発言の意図を汲み取ろうと橘の表情を盗み見るも、顔色が悪いせいでいつも以上に本音が読み取りづらい。
「それは交渉成立って意味かな」
そう言いながらも玲の胸中にはなんとも言えない不安が渦巻いていた。あまりにも橘の反応が大人しすぎるのだ。体調が優れていないとはいえ嫌味の一つも口にしないのはおかしい。無理難題を吹っかけているからといって遠慮するような性格でもない。
「気まぐれって本当に厄介な存在だとは思わない?」
意味深な発言をした直後、サイドテーブルに手を伸ばし、それを持ち上げてみせる。玲に向けられた表紙にははっきりと上と書かれており、それを強調するように指をさして見せる。力なく笑う玲とは対象的に、橘の口元が期待と興奮によって大きく緩む。やはりというべきか、本が全て揃っていないことを知った上で気付かれずにやり過ごそうとしていた玲を観察して楽しんでいたようだ。
「君はいつも僕を困らせる」
どこまでが計算でどこまでが偶然だったのか。今となってはもうどうでといいことなのだが、玲の関心は彼女の対応力にばかり向けられる。おそらくだが、これも一種の現実逃避なのだろう。いかなる理由があろうとも彼女がこの関係を終わらせようとしている事実は変わらないのだから。
「このお詫びはケーキで許します」
「調子に乗るな」
そんな玲の心情を察してか橘は珍しく冗談を口にする。それに乗っかることで見せかけの平穏にすがりつつ、保ち続けるために慣れてしまった作り笑いを互いに浮かべ合う。彼女の作り笑いは体調が悪くとも完璧でいつ見ても生前の頃の記憶が走馬灯のように駆け巡る。それに耐えきれずに目を逸らした先にはカーテン越しに紅蓮の空が広がっており、病室内をこれでもかと強く照らしていた。
本当は土日のどちらかで更新する予定だったんだよ……。
日曜日に仕事が入らなければ予定どおりだったんだよ……。




