1-6 先延ばされたエピローグ
図書室に充満するくたびれて萎びた古本特有の埃っぽい匂いはきらいではなかった。一日の半分近く過ごしているはずの学校なのにまるで別世界に足を踏み入れてしまったのではと錯覚してしまうほど静けさに包まれた室内もきらいではない。
出入口の扉を抜けて右に曲がったところにカウンターが存在し、そのすぐ横には本を返却するための小さな棚が用意されている。入院中である橘に頼まれた本を借りる前に貸出中本を返却する必要があるため、まずはカウンター横の小さな棚に向かう。カウンター内には珍しく図書委員が待機していたのだが、読書に夢中なようでカウンター前を通過する玲には見向きもせず、瞬きを交えてつつ手にもった本のページをめくっていた。肩につく長さの茶髪によって耳元が隠されていたものの、首元からブレザーのポケットに伸びた日本の線が見えていたので、イヤホンを使用していることが分かる。
周囲を見渡せば分かるように放課後の図書室を利用する者はほとんどいない。テスト期間であれば静けさを求めた生徒のおかげで多少は賑やかになるのだが、大半は今日のようながらんどうだ。スマホや電子書籍の普及によって現物の需要が低下しており、本のためだけでは図書館を利用する理由としては薄まっているのが利用者が減少傾向にある直接的な理由であろう。現に玲も実物の本じゃないといやだという橘のわがままを叶えるためでなければ電子書籍で済ませてしまう側の人間だ。ただ、校内の喧噪から逃れたい時や一人で考え事をしたい時には最適な場所であるため、本を借りることはなくとも図書室に訪れることがそれなりにはあった。
借りていた本を無事に返却棚に戻し終えた玲は、橘から頼まれている白鯨を借りるために本が大量に収納された棚に囲まれている図書室の奥へと進んでいく。本棚の側面にはどの棚にどの本が収納されているかが一目で分かるように案内板がつけられている。案内板に書かれている内容を頼りに海外作家が出費津した小説が収められている棚を探す。数分の探索により目的の棚を見つけた後、今度は収めらている本の背表紙に張られたラベルに目を通す。図書室の本は全て作者順に並べられているため、ラベルに書かれている作者の頭文字からある程度の収納場所が絞れるためだ。
探し始めてから数分もしないうちにマ行のラベルを発見すると同時に目的の本の題名が視界に入る。手に取って表示を見てみると、本編を読む前から当時の捕鯨の過酷さが獰猛そうな白い鯨から伝わってくる。
念のために題名と著者名が間違っていないことを確認してから再び本棚に目を向ける。玲が手にしている本は白鯨で間違いないのだが、全編を読むにはその一冊だけでは不足していたのだ。どうやら文庫本の白鯨は複数巻で構成になっているらしく、玲の持っている上巻以外にも別巻が存在しているようだった。
橘が読み終わったタイミングでたま借りに来ればいいだけの話なのだが、それでは往復の手間がかかってしまう。面倒事を減らすためにもできれば今日中にまとめて借りておきたかったのが本音なのだが、肝心の別巻がどこにも見当たらない。間違えて別の段や棚にしまわれているのではと探しても見たのだが、それらしい本はどこにもなかった。上巻があるのに他の巻が用意されていないとは考えにくい。十中八九、貸出中なのだろうが、それはそれで厄介だった。
本の貸出期限は最長でも二週間だ。仮に今日が貸出日だったとしても借りられるようになるのは二週間にはずなのだが、ここの図書室はルールがかなり甘い。よほど返却期限が過ぎないかぎり返却を促さないため、期限を守るかは利用者の良心に委ねられている。最悪、一か月以上も借りっぱなしの状態が続く可能性もある。幸いなことに白鯨のように知名度のある作品であれば文庫本だけでなく、単行本も置かれているはずだ。貸し出されていなければそちらを借りるという手もあるのだが、その選択肢はあまり考えていなかった。文庫本に比べて単行本は大きくて太い。それなりの重さもある。橘のような手の小さい女性には持ちずらく、筋力が全くと言っていいほどついていない細腕では長時間の読書は負担になってしまう。それになりより、ただでさえ饒舌な橘が不満を覚えることでさらに舌が回る恐れがあった。
手間か、小言か、提示された択一に頭を悩ませる中、ちらりと後ろにある単行本用の本棚に目を向ける。欠けた巻数のまま持って行ったとしても小言は避けられない。ならばいっそのこと単行本にしてしまえばいい。おそらく玲の考える選択肢の中でそれがもっとも合理的な選択なのだろう。どんなに彼女の期待を沿うように努力したところで不満は絶対に生まれる。にっこりと微笑んでありがとうとお礼を口にするような素直さを彼女が持ち合わせているはずがないのだから妥協してもよいではないか。頭の中ではそう考えているはずなのに、手にした文庫本を玲は棚に戻そうとしなかった。結局、彼女に会うための口実を自ら手放すという選択肢など存在しなかったというわけだ。
数分ほど悩んだ結果、欠けている文庫本を持っていくことにした玲は、貸出手続きを行うために図書委委員のいるカウンターへと向かう。図書委員は相変わらず読書に夢中なようで玲がカウンターに近づいているというのに本から顔をあげようとすらしない。ついには玲は存在に気付かれることなくカウンターに到着してしまう。不必要な時に気付かれるのは気まずさを覚えるので今のように状況のほうが嬉しいのだが、今回のように用がある場合、話しかけて自身の存在を気づかせなければいけなくなるため些か面倒だった。読書に集中している相手にどう話しかければいいのかも分からず、億劫な気持ちばかりが肥大化していく。
どう話しかければよいのかと戸惑っていると、ようやく本から顔を上げた図書委員は玲の存在に気付き、大きく肩を震わす。どうやら玲の存在に気付いたわけではなかったらしく、急に視界に現れた玲に驚いたようだ。反射的に目が大きく見開いていたのでまず間違いないだろう。
突然の利用者に頭の中が真っ白になってしまったのだろう。先ほどまで読んでいた本を両手で持ったまま困ったようにおろおろとあたりを見回してから横にあるパソコンへと体を向ける。不要な本を手にしていることにようやく気付いた図書委員は、バーコードリーダーに持ち替えてから玲に視線を向ける。恥ずかしい姿を見せてしまったことを恥ずかしく思っているようで、顔は真っ赤だ。口元も大きく歪んでいる。
「これ借りたいんだけど」
「は、はい」
声は上擦っており、顔はさらに赤くなる。ぎこちなく頷いて見せる図書委員の頼りない姿に不安を覚えつつも本を差し出す。いくら利用者が少ないとはいえ始めての貸出処理というわけではないはずで、貸出処理さえ始まってしまえば作業に意識が向くことで少しぐらいは落ち着きを取り戻すはずだ。
「それと、本の続きの返却日も調べてください」
絶賛取り乱し中に頼んでよいものかと迷いもしたが、ここで先延ばしにすれば言い出すタイミングを見失いそうな気がした玲は、本の裏に張られたバーコードの読み取り作業に移り始めた図書委員に言う。はい、という短い返事をしてから彼女は、本格的に貸出処理を始めるためにキーボードを打ちやすい位置に移動させる。
貸出処理が完了するまでの間は完全な待ち時間であるため、早くも手持ち無沙汰を感じていた玲は、少しだけ本編に目を通すために借りたばかりの本の表紙をめくる。いくら世間的に有名な作品とはいえ読書する習慣のない玲は、白鯨の本編に触れたことがない。要約されたあらすじや獰猛な白鯨であるモビーディックや復讐心に囚われた英アブ船長といった印象的なキャラクターは知っているが、その他は何も知らないといっても過言ではない。だからだろうか、いつもならば黙って待つところを、冒頭だけでも読んでみようかと思うぐらいには興味がいつの間にか湧いていた。
実際に読んでみると、普段から読書に勤しんでいないせいか玲にはいささか読みづらく、内容も現代作品よりも小難しく感じた。昔の海外の作品というこもともあり、当時の時代背景がよく分かっていないせいもあるだろう。本編に入る前には当時の価値観に触れられる資料や白鯨船の構造などといった情報をまとめたページが存在していたので、本編を理解するためにはまずはそちらの方を先にしっかりと読み込む必要がありそうだ。
「ちょうど昨日借りられたみたいだから返却は再来週になりそう。……多分」
あいまいな表現で言葉を濁している理由は返却日が守られる保証がどこにもないためであり、こればかりは図書委員にもどうしようもない。あくまでも目安として考えるしかなさそうだが、もし二週間以上経っても返却されず、橘が続きを読めない状態が続いてしまったらと想像するだけで頭が痛くなる。
「分かった。ありがとう」
「それと返却日のことだけど、最大でってさっきも返しに来てたし、知ってるよね」
返却に関する説明を始めようとした途端、恥ずかしさがぶり返してきたのか誤魔化すように苦笑いを浮かべる。急に話しかけられて取り乱していた数分前に比べればだいぶ落ち着きを取り戻したように見えたが、表情はまだ硬い。まだ気まずさが完全に抜けきっていないのだろう。
利き手側があまり意識する機会はないのだが、話し手側の場合は同じ説明を繰り返さなければいけない状況は地味にストレスが溜まっていく。利用したことのある生徒に対する説明となれば馬鹿らしさも加わり、面倒くささはさらに強まるだろう。だから説明を省くような行為に走るのも仕方がないことだ。いや、単に面倒な対応をさっさと済ませて読書に戻りたいだけなのかもしれない。
「本、好きなんだね」
読み始めたばかりの本を閉じて鞄にしまおうとしたところに図書委員は話しかけてくる。向こうから話を振ってくるとは思っていなかった玲は、本を鞄にしまってから顔をゆっくりと上げる。
「いやっ、その、あんまり読むイメージなかったから……」
本人は心当たりが全くなかったのだが、図書委員は玲を知っているような口ぶりだった。過去にも本の貸出手続きをしてくれたのか。それとも、同じクラスか。彼女も首元につけられた学校指定のリボンの色から同学年であることは確かだった。普段の玲を知っていなければ口にしない内容だったので可能性があるとすれば後者か両者のどちらかだろう。少なくとも全くの他人でないことは確かだ。
「そういう君は好きそうだね、読書」
「ああ、これはただの暇つぶしってだけで……、別に好きってわけじゃないかな」
暇つぶしに本を読むというはそう自体が読書家でなければなかなか生まれてこないのだが、どうやら本人はそのことに気付いていないようだ。それほどまでに彼女の中では読書という行為が日常化しているのだろう。彼女の見せるよく分からない謙遜にくすりと笑うと、唐突に笑みをうかべた玲に不思議そうな目を向ける。
「僕の周りにいる読書家も似たようなことを言ってたからつい、読書好きってみんなそうなの?」
「そういうわけじゃないと思うけど……」
そう言ってからまた苦笑いを浮かべる。どうやら返答に困ると苦笑いを浮かべる癖が彼女にはあるようだ。その点は橘と違う。ふとした瞬間に頭によぎる彼女の姿に、逃れられない現実を突きつけられ、一瞬にして表情が陰る。その瞬間をまじかで見ていた図書委員の顔に緊張感が走っていくのが分かり、忘れかけていた切なさが込み上げてきた。会いに行く理由があって本当によかった、と思ってから玲は目を伏せた。
最近のラノベ事情は全く知らないのだけど、
会話の少ない展開ばっかり続いてて大丈夫なのだろうかと思い始めている。
いや、そもそも話が全く進んでいない方が問題なのではないだろうか。
まあ、プロじゃないんだから好き勝手にやらせてもらいます。




