1-3 先延ばされたエピローグ
この世には常世に行くはずだった魂が現世に残り続けてしまう現象が稀に見られる。この現象によって取り残された魂だけとなった者たちを幽霊や妖怪などと呼称され、昔から恐れられてきた。現在は科学の発展によって様々な現象に理由や原因が解明され、無知による恐怖は薄れつつある。だからといって、現世に残ったままの魂が消滅したわけではない。今もこの何の変哲もない日常風景に溶け込んでいる。駅のホーム、学校の校舎、職場のオフィス、奴らはどこにでも存在する。もちろん、病院も例外ではない。奴らはそれらを可能にしてしまう力を有しており、それを行使すれば現実など簡単に歪められてしまうのだから。
「あと五分ぐらいで標的が君のところに到達する。距離でいえばざっと五百メートルぐらいかな……。そろそろ目視での確認ができるぐらい近づいていると思うんだけどどうかな?」
「まだ少し遠いみたいです」
携帯から聞こえてくる高い男の声に言われるがまま、住宅街の静かな道路に目を向けてみたが、視界に入るものといえば真っ暗な道をぽつぽつと照らす街灯ぐらいでその中に人の姿はなかった。
玲は住宅がひしめき合っている間にぽっかりと歯抜けのように空いた更地で待機していた。最近まで手が加えられていたのか固い土には雑草がほとんど生えておらず、自動車のタイヤ跡が薄っすらと残っていた。売地を表すような看板や侵入防止用の柵などが設けられていなかったので、すでに整地する予定が組まれているのかもしれない。
「時間がありそうだから改めて作戦について説明するね。今回の標的は全部で五人。そのうち四人をまとめて君のところに誘導してもらってる。残りの一人は四人が到着してから五分後に到着するよう調節してるけど、四人の雑魚と違ってそこそこ力を使いこなせてるみたいだから多少は前後すると思ってほしい。最悪の場合、一度に五人を相手にすることになるだろうけど……。まぁ、君のことだから問題ない。そうでしょ、揺木玲くん」
余計な一言を口にした後、顔が見えないことをいいことにせせら笑いを浮かべていそうな電話相手の名は上浦柚、玲が所属している組織の人間だ。主な役割は玲のように奴らと直接かかわる局員の補佐であり、上層部への連絡や作戦の指示といった雑務なども行っている。所属する部署は違えど組織内の地位は同じであり、玲の同僚にあたる人物なのだが、携帯でのやり取りが基本であるため顔は一度も合わせたことがない。そのせいか、同僚という実感はまるでなかった。
「命じられた務めを果たすだけです」
義務的な会話を交わしていると、街灯の光によって薄まる闇の中をのそのそと歩く人らしき姿が三つほど目に入る。上浦によれば誘導している標的は四名のはずなのだが、三人の背に隠れて見えていないだけなのだろうか。仮に誘導班の不手際で標的の人数が欠けていたとしても、どうでもよかったし、玲は気にも留めていなかった。自分の役割はあくまでも標的の殲滅であって、標的の誘導は対象外だ。それに、人間にはそれぞれ違った個性があるように、得手不得手が存在する。とりわけ玲の体に流れている揺木の血は特殊であり、同じ組織の人間であれば当たり前のように使える方術や呪術といった類の適正はまるでない。そんな人間が出しゃばったところで煙たがられるのが関の山なのだから、大人しく与えられた務めに徹していた方が賢明といえよう。
「標的と思われる人影が見えてきたのでそろそろ切ります」
「分かった。吉報を待ってるよ」
耳に当てていた携帯を離してから通話を切り、冷え切った空気に向かって生暖かい息を静かに吐く。寒さで白くなった息は月がのぼり始めたばかりの夜空に揺らめきながら闇に溶けていく。玲はそれをぼーっと見つめながら、また思考を意図的に止めようとする。今日のような殲滅任務はこれまで何度も命じられてきた。危険が付きまとうものの、珍しい任務というわけでもないため緊張するようなものではないのだが、標的が橘と同じ存在である以上、ふとした時に橘の顔が過ってしまう可能性がゼロではないため、自身の精神を抑圧する必要があった。
標的たちも玲を視認したのだろう。複数人の乱れた足音の間から男の低い声が途切れ途切れ聞こえてくる。距離が空いているため奴らの発する言葉すべてを聞き取ることができなかったが、単語のいくつかは拾えた。子ども、一人、運。暗闇によって視界がふさがれているとはいえ奴らが考えようなことはあらかた予想がつく。これまでは大の大人が複数人がかりで襲い掛かってきたところを急に一人(それも相手は高校生)になったと分かれば胸をなでおろすのも無理はない。怯えておどおどしていたはずの足取りから一転、大股でドスドス歩くようになっていた奴らの自信は街灯の真下を通過しても健在で、わずかにあがった広角を恥ずかしげもなく披露していた。
さっさと終わらせてしまおう。
街灯の光が届く場所に移動してくれたおかげで四人目の存在をようやく認識した玲は、何もないところから当たり前のように白鞘を手に出現させ、前に立つ二人組を注意深く見る。相手を見下していたとしても武器を所持したとなれば何かしらの行動をとるのが常人の発想だ。玲の予想どおり緩んでいた顔が引き攣り始める。戦いに慣れていないのが一目瞭然だ。おそらく生前の頃は死してなおも叶えたい未練や言葉にできない激しい憎悪といった感情とは無縁の生活を送ってきたのだろう。
「や、やるしかねぇ」
灰色のスーツを着た二十代後半の男は吐き捨てるように呟くと、唇をキュッと締める。覚悟を決めたような口ぶりだが、肝心の声は震えていた。震えているのは声だけでなく、玲に立ち向かうために出現させた包丁を持つ手も同様に震えいる。そのせいで狙いが定まっていなかった。スーツの男の隣に立っている私服姿の大学生風の男も釣られるようにナイフを出現させて構える。大学生風の男の方が肝は据わっているようで刃先はしっかりと玲の喉元に向けられていた。しかし、力はまだ使いこなせていないらしく、せっかく出現させたナイフにはノイズのような歪みが頻繁に生じている。事前に報告された上浦の情報に間違いはないようだ。
四人組はなかなか近づいてこようとしてこなかったので玲の方から歩き出す。相手が手にしている刃物の刃渡りは長くとも二十四センチ程度。それに比べて玲が扱う白鞘の刃渡りだけでも四十センチはある。圧倒的なリーチの差があるが故、距離をゆっくりと詰めつつ相手の出方を見るといった消極的なな行動を取ったとしても優位状況が崩れることはなかった。
先頭に立つ二人は各々が手にする刃物を頻りに構えなおしていたが、人に刃物を向けたこともなければ、殺意を向け慣れている様子も感じられない。これでは突っ立っているだけの方がマシだったのではないか。拵から刀を抜くことすら馬鹿らしくなってきた玲は、ナイフを前に突き出して突っ込んでくる大学生に向かってため息をつくと当時に無防備な両腕に向かって拵に収まったままの白鞘を振り上げる。本来であれば腕に衝突した拵の勢いは殺されるか、腕を弾き飛ばしながら真上に向かっていくはずなのだが、玲の振るった白鞘だけが上空へと向かっていった。現状が理解できなかったのであろう大学生は目を丸くする。だが、男が見つめていたのは不自然な白鞘ではなく、知らぬうちに切り落とされていた自身の両腕の方だった。
「えっ」
情けない顔で声をあげたのは後ろにいたスーツ男の方だった。眼前に立っていた大学生風の男の足元に何かが落ちたかと思えば、今度は男の上半身が地面へ吸い込まれるそうに落ちていく瞬間を目撃しているのだから疑問が生じるのも当然だ。彼の目では玲の太刀筋が全くと言っていいほど見えていなかった。それどころか、なぜ自分が怯えているのかすら分かっていなかったのだから。
大学生風の男がこの世から完全に消失する様子を見届けてから次なる標的の元へ向かおうとする。玲の握る白鞘は拵に収まったままだというのに異質な輝きを放っていた。
そういうことか。私は蛙であり、この少年こそが蛇なのだ。自身の運命を悟ったとスーツ姿の男はゆったりとした足取りで距離を詰めてくる玲を見つめることしかできなかった。それほど圧倒的な実力差を覇気のない瞳から感じ取ってしまったのだ。
「まさか、あんたが揺木……」
二人目の標的に止めを刺した直後、残りの標的のどちらかがそう呟いた。奴らはすでに戦意喪失しており、まぶたに溜め込んだ涙はこぼれ落としながらその場に座り込んでいる。両者とも腰を抜けしているらしく立ち上がる気配はなかった。
戦闘に不慣れな者たちにも揺木という姓は知れ渡っているほど玲は危険視される存在であった。正確にいえば、揺木という血族に代々伝わってきた白鞘に畏怖の念を抱いているのだ。奴らを殲滅するために生み出された白鞘は魂や器をいとも容易く切り裂いてしまう。だが、奴らはまだ知らない。玲はまだ白鞘本来の能力をほとんど発揮していないという事実に。
揺木の名を聞いた途端、顔を真っ青にした派手な服を着た金髪男は地面に這いつくばりながらも必死に後退し、逃げようとする。しかし、誘導部隊によって張られた見えない壁のような結界によって退路はすでに断たれていた。もう逃げられないと理解するや怯え切って真っ青になっていたはずの顔から生気が抜けて次第に白くなっていく。ようやく自分たちが罠にかかったのだと理解したようだ。
「や、やめてくれ! 俺たちはただい――」
玲の足元に擦り寄り、命乞いを始める初老の男の頭部に一切の躊躇なく白鞘を振り下ろす。慈悲なき玲の行動を目にした最後の一人となった金髪男は涙や鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら声にならない悲鳴をあげていた。彼にとっては玲が鬼に見えているのだろう。化け物でも見るような目で玲を見上げ、震えを少しでも止めようと丸めた体を強く抱きしめる。
白鞘の射程内にまで近づいた玲は、これまでの奴らと同様さっさと止めを刺して終わらせようとした時、四人の標的からでは感じることのなかった殺気を感じ取り、少しだけ警戒する。その直後、空気を裂くような破裂音が玲の耳をつんざいた。
長くなりそうなので途中でぶった切りました。




